【2】駆け落ち
さて、時代は少し遡る。
その代の朱匂宮は、誰よりも美しい事で評判だった。
――黙っていれば、である。
口さえ開かなければ、完璧な美貌の持ち主で愛らしい美少年なのだが、繰り出される毒舌は研ぎ澄まされていた。美しさから『紅の黒鶫』と呼ばれる赤い瞳や、白磁の肌――なにより端正な顔。そこから繰り出されるきつい言葉は、尋常ではない威力を誇っていた。
しかも歴代随一の『朱匂宮』と呼ばれるほどに鮮やかなPSY-PKの絶対原色の赤色相を持っていて、扇を片手にバチバチと桜のようなPKの雷を降らせる姿は一種荘厳ですらあった。
さて、華族の結婚は早い。
朱匂宮は美しい。
さらには力も素晴らしいので、毎日のように『結婚を』と迫られていた。
しかし朱匂宮は「恋愛結婚する!」と言って聞かない。
わがままの権化である朱匂宮である。
華族は基本的に恋愛結婚などしないのだが、すると言い張る。
そして高貴すぎる出自の朱匂宮に、結婚を強制できる人物など存在しない。
この国の誰ひとり、美晴宮にさえ匹敵する朱匂宮に、そんなことは強制できないのだ。
それが可能だった先代と、配偶者父は亡くなっている。
幼い頃からの世話係である金朱匂宮総取りと、許嫁である高砂家の当時の当主――日向中納言がかろうじて進言できるだけだった。
日向中納言の方は、幼い頃から一緒に育ったせいなのか、朱匂宮にとっては、兄弟もしくは大親友のような存在になっていた。だが、朱匂宮には結婚する気はなかった。恋愛対象にはもう思えない。それは日向中納言も同様だった。
「朱様がそう言うんだから、僕もそれがいいと思うなぁ」
などと結婚する気がこちらにも見えないのだ。
最悪である。
金朱は毎日頭痛がしていた。
「まったく、同じ闇の月宮様の末裔とされるのに――緑羽万象院の当代は非常に優れた人格者であると評判なのに、何故朱様は、他は全て良いのに中身だけがこうも奔放に育ってしまわれたのか……お勉強の部分もダメですが」
そう言って、金朱はため息をついた。
その声に、朱匂宮はムッとしていた。
何度も繰り返し言われていたからである。
確かに噂はよく聞くのだ。
緑羽万象院当代という人物が非常に優れた好青年だという話だ。
「――日向、僕は見に行ってみたいんだけど」
「……けど、万象院の人とは子供が生まれるまでは、会ってはいけない決まりですよ?」
「気にしない気にしない」
そんなやりとりをして、二人は万象院本尊へと行ってみることに決めた。
日向もちょっと見てみたかったのである。
また、朱匂宮は深く考えていなかった。
絶対に結婚してはならない事や、子供を作るならば、それは次男以降でなければならないという話は聞いていたが、朱匂宮は気に求めていなかったのである。
元々勉強も好きでないし、古文書も読まない。
仮に読んだとしても神話など信じないのが朱匂宮だった。
だからそもそもこの決まりの意味自体も、よく理解していなかったのである。
――婚姻できない理由が、終末阻止のものだとは、全く知らなかったのだ。
一方の緑羽万象院当代は、きちんと院系譜の伝承も読んでいたし、万象院本家のみが相続する古文書も読んでいた。華族神話も勉強していたし、ゼスペリア教の教えまで深く学んでいた。最高学府も卒業した、非常に優秀で学識溢れる厳格な人物だった。
昼まで寝ている朱匂宮とは異なり、朝は誰よりも、そう、配下の列院僧侶よりも早く起きるし、全ての万象院本尊守護総代としての読経もきちんと行う。それだけでなく清掃活動まで自分でするし、暇があれば勉強と研鑽を重ねていて、さらには万象院冠位と呼ばれる院系譜の戦闘技術まで完璧に習得していた。まさに彼こそが、当代一と呼ばれるのを誰しもが理解する、それこそ完璧な人物だった。
また、朱匂宮を美少年とするならば、こちらは美青年としか言い様がなかった。
年齢は二人ともさして変わらないのだが、背がすらりと高くて、切れ長の瞳は艶っぽく色気がある。こちらはこちらで目を瞠る美形なのだ。
さて――自ら竹箒で、緑羽万象院が庭の落ち葉を掃除していた。
そこへ、華族敷地から脱走してきた朱匂宮と日向中納言がやってきたのである。
緑羽の方は、きちんと正装の袈裟をつけているから、二人共すぐにその人物が緑羽だと判断できた。さらに、その美青年っぷりに二人は見惚れた。
特に朱匂宮は衝撃を受けた。
胸がドクドク言うのだ。
こんなのは人生では初めての体験だった。
――これが、恋だ。
そう確信していた。
運命の人だ。
間違いない。
一方、明らかに華族の御子息だろう二名が、供も連れずにやってきて、自分をじっと眺めていると気づいた緑羽は、ゆっくりと顔を上げた。とりあえず保護して、華族敷地へと連絡すると決めた。
「よろしければ中へ」
そう口にした緑羽に、素直に頷いて二人はついて行った。
冷静な人物であり常識がある緑羽は、一般的な対応として優しくお茶を出し、朱匂宮は頭の中が桃色だったので質問攻めにしたのだが、穏やかに返答した。日向中納言は、朱匂宮に春が到来したと気づき見守る。
その状態は、顔色を変えた金朱匂宮総取りがすっ飛んでくるまでの間続いた。
――そこでようやく、緑羽万象院が気づいた。
「まさか、どちらかが朱匂宮様なのですか?」
「ええ、こっちが朱匂宮です! 僕は高砂家のものです!」
「「……」」
激怒していた金朱まで息を飲んだ。朱匂宮が、嘘をついたのである。
ただ――朱匂宮である事が露見するのは危険ではあるので、この対応は昔からよくあることだった。そのため、金朱もその時は、否定しなかった。緑羽万象院は、金朱とは付き合いがあったし、顔見知りだったため、嘘をついた朱匂宮に頷いてから金朱を見た。
「ならば危険ですので、以後はこういう事が無きよう、こちらも努めますが、そちらも」
「――緑羽府院様のご好意に感謝致します」
金朱が頭を下げて、その日は三人で帰った。
道中でも金朱の激怒の声が何度も響き渡った。
悪いのは完全にこちらなのだが、緑羽万象院は完璧に丁寧な対応をしてくれたのだ。
通常万象院はあまり匂宮や華族には良い扱いをしないのに、温かい対応までしてくれたのである。これは神話から華族連中が、万象院に対して、匂宮を強姦される悪鬼のような扱いをしてきたからである。よって歴代の万象院は死ぬほど華族が、特に匂宮が嫌いであり、双方の関係者の仲は今も最悪なのである。人格者の緑羽が例外的に大人の対応をしてくれただけなのだ。
しかし帰ってからも朱匂宮の頭の中は、緑羽万象院一色だった。
よって以後も、ちょくちょく邸宅を抜け出しては、高砂中宮家の日向中納言だと偽って、朱匂宮は緑羽万象院に会いに行った。
そうしたら顔だけではなく、中身まで好きになってしまった。
最初の優しさが上辺だと分かってきて、本当は結構意地悪なところもあるのだ。堅物ではあるが、なんだかんだで根はいいやつ――というのが朱匂宮の評価である。
日向以外に初めて打ち解けて話せる相手となり、かつ自分に対しても身分を知らないというのもあるのだろうが、対等に意見しては時に怒ったり、喧嘩をしたり、そういう所、全てをひっくるめて、朱匂宮は緑羽が好きになってしまった。
だが――朱匂宮だって、緑羽万象院と結婚してはならないというのは幼い頃から知っていたし、これだけは絶対に守らないとならないと言われてきたし、どうしてもの場合は、長男を設けてからでならないというのは知っていた。いくら気にしないとはいえ、率先して破っていいものではないというのは分かっていたのだ。
だから、バレないように万象院本尊へ行って、帰ってくる技量は向上の一途をたどった。だが、なにか思い悩んでいる……明らかに恋わずらいしている事実が、周囲にバレる頻度も増加の一途をたどった。
本能で生きている朱匂宮は、どうしても緑羽万象院との愛の結晶が欲しかった。
そして他の相手との子供なんて考えられなかった。
また、緑羽万象院も最近ため息をつく頻度が増えていた。
万象院は、昔から恋愛結婚と決まっていたから急かされることはない。
ただ仲の悪い華族との婚姻は、ほとんど例がない。
他にも、別宗教といえるゼスペリア教の、中枢にいるような聖職者が相手という例もあまりないが、朱匂宮以外であれば基本的にOKだった。
そして最近ちょくちょくやってくる日向中納言――と、緑羽は信じきっている美少年のことが、こちらも気になって仕方がない。
最初は気の強い少年の、危なっかしい言動を、兄のような気持ちで見守っていたのだが、いつしか対等に喧嘩できる相手となった。緑羽万象院を敬う欠片もないからこそ逆に気楽に話ができる。
こちらは面食いなどではないのだが、顔を見ていると胸を鷲掴みにされたようになる気持ちに、緑羽は、愛だと確信していた。好きだった。大好きだった。
だが金朱匂宮総取りにそれとなく話を聞いた限り、日向中納言は、朱匂宮の許嫁だというから、結婚の打診などできない。大騒動となってしまう。緑羽にとって恋愛をするというのは、生涯を共にしたいという事にほかならない。
――まさか朱匂宮本人が護衛もつけずに来ているとも思っていなかったのだが、それに関しては緑羽に罪はない。
そしてその日もため息をついていた所へ、日向を名乗る朱匂宮がやってきた。
満月の夜だった。
就寝寸前で、簡素な法衣で経文を読んでいた緑羽は、訪れた朱匂宮を見て少し汗をかいた。純真無垢で警戒心ゼロな様子で布団の上に座り、抜け出すのに苦労したなんて話をしている美少年。緑羽とて男である。二人きりの寝室で、これだ。気づくと歩み寄り、抱きしめていた。
「っ、あ、あの」
「……嫌か?」
「嫌じゃない……」
すでにここまでにも、相思相愛であるこの二人、何度もキスはしていたのではある。だが、緑羽の理性が、いくら朱匂宮が誘っても一線を超えさせなかった。しかしもう限界だった。そのまま深く口づけて、緑羽は朱匂宮を押し倒したし、朱匂宮も艶っぽく潤んだ瞳で受け入れた。そこには少年らしさというよりも色気があった。
――緑羽は、仮に許嫁だとしても子供が出来たという既成事実があれば、婚約は解消されて、結婚できると考えていた。朱匂宮の方は、そこまでは考えていなかった。
よってこの夜、何度も体を重ねた結果、緑羽の方は計画通り、朱匂宮には予想外のことに、子供ができた。そして朝になり、緑羽がそれを告げた。
「おそらく子供ができただろうか、俺と結婚してくれ」
「!」
「PSY共鳴を起こしたし、九割妊娠している。さすがに朱匂宮であっても許嫁関係解消に応じないわけがない」
「っ、あ、え、ど、あ……」
狼狽えたように震えはじめた恋人を見て、緑羽が腕を組んだ。今更逃がす気はないのだ。
「俺の子供を産むのは嫌か?」
「ち、違……ど、どうしよう……違うんだ、僕が、朱匂宮なんだ……」
「っ」
「緑羽……僕は絶対に生む……緑羽が堕ろせと言っても絶対生む……」
実はこれまでにも何度か、朱匂宮は緑羽に、
『もしも朱匂宮が自分で、自分との間に子供が生まれたらどうするか?』
と、聞いてみたことがあったのだ。結果として、
『仮にそうであるならば、例えお前との間の子供であっても、お互いの長子である限り堕胎させる』
と、きっぱり緑羽は断言してきたのだ。
それもあって朱匂宮はこれまで、自分が朱匂宮であることは言えなかったのだ。
そして緑羽は、朱匂宮から見ても、事実そうする性格だった。
「――本当にお前が朱匂宮なのか?」
「うん。けど絶対に子供が出来たのならば、僕は堕ろさない。緑羽をぶっ殺してでも生む!」
「安心しろ。俺も中絶など許さない。万象院自体が、基本的に子供の命を奪うことを認めていないというのもあるし、匂宮との場合が例外的なだけだ。しかし……そうか」
「どうしよう……誰かに言えば、中絶させられる……それだけじゃなくてもう会えなくなる……僕はそんなのは嫌だ」
「駆け落ちしよう。お前はすべてを捨てる覚悟だけしろ。他は全て俺がどうにかしてやる」
「え」
「不満か?」
朱匂宮は息を飲んで目を見開いた。いつも冷静沈着な緑羽の口から『駆け落ち』なんて言葉が出てくるとは思わなかったのだ。
「ついてく! 一緒に行く! 緑羽が一緒なら他は何もいらない。だけど緑羽は万象院の――」
「別に本家の当主であることになど微塵の未練も無い。弟あたりが継ぐだろう。むしろ問題は匂宮だ」
「匂宮はどうでも良い! 僕は元々仕事なんか踊りを踊るくらいしかしてなくて、それもほとんど日向が代わりにやってくれてるし、雑務は全部金朱がやってるんだから!」
「――そういうことではないんだがな。血を残すという問題で、朱匂宮は緑羽もそうだが血統継承だ。緑羽は俺には弟が二人いるが、朱匂宮は一人っ子だと聞いているし、お前も一人っ子だと言っていた」
「それは、そうだけど……そ、そうだ! この子が生まれたら、あと二人産めばいい!」
「はは、そうかもしれないな」
珍しく緑羽が微笑した。それから少しの間抱き合い、緑羽が『朱匂宮と駆け落ちする』と一筆残して、二人は失踪した。
こうして万象院を含めた院系譜、並びに、匂宮含めた全華族が驚愕することとなる駆け落ち事件が発生したのである。
あの人格者の緑羽がまさか……というのが院系譜のみならず、華族も全員一致の見解だった。朱匂宮の方はそういう事をしても不思議ではないが、緑羽に限ってそれはありえない――というのが共通認識であるほど、緑羽というのは優れた好青年だったのである。
まさか緑羽がそこまで情熱的な人物であるとは、誰しもが思わなかったのだ。
金朱匂宮総取りすら言葉を失ったが、緑羽を糾弾することはなかった。
そして二人の恋について唯一知っていた日向中納言は、各所から質問攻めにあったものである。
一切行方がしれず、華族の護衛をする黒咲や万象院列院僧侶による、プロによるの捜索が行われた。だが、そもそも双方それぞれのトップが朱匂宮と緑羽でもあったため、足取りはまるで不明。
結果として、一年半が過ぎた頃には、新聞広告が打たれた。
『結婚を認めるし、一緒に暮らして良いので、戻ってくるように』
どちらも歴代一の万象院と匂宮である。
院系譜としては緑羽の不在で、仕事は溜まりに溜まっていた。
華族では、華族儀式とて朱匂宮本人が行わなければならないものも腐るほどある。
こうして王国中が注目した愛の逃避行は終了し、二人は幼子を連れて帰ってきた。
それが――鴉羽卿である。
弟が生まれる気配もなく、鴉羽卿は朱匂宮および緑羽万象院として、双方の知識を叩き込まれて育った。あんまりにも優秀すぎたから、院系譜からも匂宮関係者からも、華族全体からも何一つ文句は出なかった。
双方の良いところを完璧に受け継いでいるし、匂宮儀式も完璧、万象院の教えの理解も完璧、さらには父である緑羽の学識も受け継いでいた。
しかし人格部分は受け継がず、その部分は朱匂宮の気の強さとわがままっぷりを正しく受け継いでいた。だが、幸か不幸か緑羽の外面も受け継いでいたので、近しい者以外は中身も良好だと信じて疑わない。また緑羽の恋愛側面の情熱も完璧に受け継いでいたので――実際には悪い所もきちんと受け継いで、育っていった。