【5】受胎


 ――アルト猊下の妊娠が判明したのは、アルト猊下が特異型Other過剰症の酷い症状が出て倒れた時の事だった。黙示録の予兆が色濃くなり始めていた頃の事である。

 嘗て鴉羽卿達が対処したものも、今ではそうした予兆の一つだったのではないかと考えられている。黙示録に記されている通り西の海は黒く染まり、魚が死に絶えている。そして一般国民の多くにはPSYがほぼ無いから見えないから騒がれないが、一部の力あるものには、満月の色が赤く見えるようになった。

 PSY知識を秘密裏に継承してきた宗教院とギルド、および別の神話や教えとして華族や院系譜に伝わる黙示録の予兆の通り、満月が時折、強いPSYを持つものには血の色に見えるようになり――その頻度は増えつつあった。誰しも、黙示録の到来を疑わなくなっていた

 医療院の特別室――寝台の上でアルト猊下が目を覚ました。
 そして妊娠の知らせを聞いていた時、法王猊下と舞洲猊下が駆けつけてきた。
 クライス・ハーヴェストと鴉羽卿は既にその場に、ザフィスに関しては、医師としてその場にいた。クライスの祖父であるからなのか、数日前から黙示録対応で王都へ来ていた緑羽万象院と朱匂宮の姿もあった。鴉羽卿が実行指揮をしているのだが、あまりにも災害規模が大きかったため、手伝いに来ていたのである。世界はそれだけ切迫しつつあった。

 法王猊下は、まずはアルト猊下の体調がひとまず落ち着いたという事と、意識が戻っている事を喜んだ。それから――冷たい瞳をしてザフィスを一瞥した。

「準備は?」
「――整っておる」

 二人のやりとりに、アルト猊下が目を瞠った。

「何の準備ですか?」
「堕胎だ」

 きっぱりと法王猊下が答えた。アルト猊下が息を飲み、クライスが唇を噛んだ。
 舞洲猊下が、少し驚いたように法王猊下を見た。それから無表情の鴉羽卿と、憤慨している様子に見える朱匂宮、腕を組んでいる緑羽万象院をそれぞれ一瞥した。

「ローランド、何もそこまで――」
「黙っておれ、舞洲」

 普段であれば、少なくとも自分には優しく、さらにアルト猊下を溺愛しているローランド法王猊下は、このような言い方をしない。その冷酷な声と瞳に、舞洲猊下が言葉を止めた。そしてさらに、絶対に――例えばそれこそ預言になど異を唱えそうな旧知の鴉羽卿の言葉を聞き、続けざまに舞洲は息を飲んだ。

「ザフィス、早急に中絶しろ」
「仮に生まれた場合、朱匂宮が殺害する」

 そこへ響いた、もっとも曾孫の誕生を本来は喜びそうな、中絶など何があっても許さないだろうと思えた朱匂宮の氷のような声に、冷や汗が浮かんできた。

 その時、ポツリと緑羽が言った。

「孫が申し訳ないことをしたな、ローランド法王猊下」
「――いや、クライス君はとても優れた青年だと思うし、ザフィス医師も鴉羽卿も個人的に非常に才知ある方だと思っておる。だが、こればかりは認めるわけにはいかぬ。時勢も悪ければ、十九世は預言の子であり、ゼスペリアの器となるし、何よりも――いくら優れた者であると分かってはいても、イリスとゼストの血の交わりは本格的な黙示録の引き金だと記載されているのだ。それを許すわけにはいかない」

 するとアルト猊下が声を上げた。

「そんなものはただの伝説だ。僕は絶対に産む」
「――アルト。堕ろせ」
「な、っ、クライス、まさか君までただの伝説を信じるの?」
「違う。仮に伝説だろうが真実だろうがどちらで良い。そうじゃない、産めばお前の命が危ないかもしれない。体が耐えられない可能性が高い。俺はお前が死ぬのが嫌だ」
「っ」

 悲痛な面持ちのクライスに、アルト猊下が目を瞠った。なるほどと舞洲も頷いた。

「――そういうことならば、クライス・ハーヴェスト侯爵の意見に私も賛成します。アルト猊下、貴方は自分の体を大切にしなければなりません」
「そんなの――」
「皆、貴方のことを心配しているのです」
「そんなの勝手だ。本当に僕を心配しているというのならば、僕に産むか否かの判断を委ねるべきだ」
「アルト猊下、身分を正しく理解せよ。アルト猊下はゼスペリア十八世なのだ」
「――出て行ってください。僕はもう二度と貴方を父だとは思わない。孫を堕ろせと迫る法王猊下が存在するなんてまさに黙示だ。代わりにくたばれ!」
「とにかく許さんからな」

 過激なことを口にし怒鳴ったアルト猊下を睨み返して、法王猊下は再度強く言うとザフィスを見た。

「中絶後に連絡を」
「――承知した」

 そしてそのまま出て行く法王猊下を、嘆息してから舞洲猊下が追いかけていった。

「アルト、なにもあそこまで言わなくても――」
「クライス、堕ろせと言う君も同じレベルで最低だ」
「あのな、俺はお前を心配して――」
「不要だ。だったら子供は死んでも良いって言うの!?」
「そういう意味じゃないことくらいは分かる程度には頭が良いと勘違いしていた。俺だって可能な限りの手段を模索した。だが、どう考えてもお前の体がもたない。俺はそれには耐えらない」
「ああ、そう、じゃあもういいよ。僕は生きていたとしても、もう二度とクライスにも会わない。子供に関係なく、どうせ二度と僕には会えなくなると覚悟して」
「――……ああ、そうだな。勝手にしろ」

 途中からクライスは声を潜めた。子供を堕胎するとして……で、ある。どのみち、アルトとは結婚などできないのだ。二度と会えなくなるのは、既に確実な未来なのだ。ならば、このまま、と、考える。それが宗教院側、ゼスト家と、ギルド側のハーヴェスト家の規則なのだ。

 そして、それだけではない。ザフィスの話によると、自分とアルトの子供は、強いPKを持っているらしいのだ。だから朱匂宮本人と鴉羽卿がこうも反対しているのだ。そうクライスは理解していた。出産寸前や幼少時に、子供がPK爆発を引き起こす可能性がある。つまり、仮にアルトが健康体であったとしても、妊娠中に体内からPKによる爆発の発生で死亡する危険性がある上、匂宮のしきたりとしてそうであると分かった段階で殺害することに決まっているというのだ。一度そうなれば本人達だけでなく、周囲も巻き込んだ大事故となるからである。

「顔も見たくない」
「俺も同じ見解だ」

 クライスは内心の悲しみを抑えてそう吐き捨てて、病室を後にした。それを見送ってから、鴉羽卿がザフィスと緑羽万象院を見た。この二名は、鴉羽卿から見ても冷静に堕胎処置をする人物だったし、アルト猊下の認識としてもザフィスは一番の敵であった。そしてアルト猊下は、鴉羽卿まで敵である事実に目を細めていた。

「僕としてはそちらのアルト猊下という人を、殺害しておくのが一番良いと思うけど。さっさと堕ろして、二度と姿を見せないで。ここで僕が息の根を止めても良いけど」
「朱、物騒な事を言うでない」
「緑羽は法王猊下に謝ったけど、僕は彼らもアルト猊下とやらもクライスに土下座して死ねば良いと思っている。じゃあね。僕は先に帰るよ」

 そのまま瞬間転移して、朱匂宮はいなくなった。
 アルト猊下は、その言葉に息を飲んだ。
 確かに――クライスの家族からすれば、その見解で当然なのかもしれない。

「アルト猊下、朱の父上は少しクライスを溺愛しておってな。申し訳ない」
「いえ……」
「だが貴方の体を考えて、クライスも、法王猊下や舞洲猊下も、貴方を心配しているのだけは理解して、中絶するように」
「鴉羽卿、だけど僕はどうしても――」
「これだけは俺も許すことができない。もし仮に出産に耐えられたとしたとして、その場合は、俺が生まれた孫とクライスを手にかけて自分も自殺することとする。すまないな」
「……」

 鴉羽卿はそう言ってからザフィスを見た。

「頼んだぞ」
「ああ、わかっておる。ロードクロサイトに失敗はない」

 ザフィスの言葉に頷いて、鴉羽卿は出て行った。残された病室でアルト猊下は涙ぐんだ。絶対に産む方に賛成してくれると思っていたクライスには裏切られた気持ちだったし、体調でいうなら最も反対しそうだった舞洲猊下が一番温かい反応で、これまでずっと優しかった法王猊下のあの冷酷な瞳には、怒りが収まらない。初対面であるしクライスの側に立つなら朱匂宮の反応は分からなくもないが、普段は明るくて人の良い鴉羽卿まで、あのような態度なのだ。孤立無援だ。そして真横には堕胎処置をするザフィスと、こちらも初対面だがいかにも厳格そうな緑羽万象院が立っている。

 が、実は唯一の中絶反対者は、緑羽万象院その人だった。

 ザフィスもまた中絶準備はしてあるが、現在までに本人の意見は述べていない。
 しかし緑羽はきっぱりと、法王猊下側にも朱匂宮と鴉羽卿にも、クライスとアルト猊下以外には、はっきりと中絶すべきではないと断言していた。たった一人で、異を唱えたのである。舞洲猊下はそれを聞いてはいないが、このため、他の三名からは現在、緑羽は激怒されている。

 法王猊下としては、万象院の中絶禁止の教えなど知ったことではないし、朱匂宮と子供を儲けるという、今回のアルト猊下とクライスと同じような行為をした前例のある緑羽万象院を一切信用せず、二度と話をしたくないとして激怒していたが、先程は皆の前だったから冷静に答えたのである。

 ただ、法王猊下はおろか、ザフィスですらいまだに、鴉羽卿こそが、その駆け落ち時の長男だとは知らないのだが――知っている鴉羽卿と朱匂宮からすれば、クライスの子供なのだから、その生まれてくる子供が鴉羽――つまり終末の象徴であるのは確実だった。

 その上に、鴉羽卿と朱匂宮は詳しくなかったが、その鴉羽の血に、今度はゼスペリア教側の終末である、黙示録の兆候まで加わるのだから、黙っているわけにはいかないと思っていたのである。

 ――つまりその子供とは、宗教院や、ゼスペリア教を信仰している貴族や一般国民、王家に限らず、院系譜や華族神話においてですら、終末の兆しの条件を全て満たす。

 さらに、このご時世なのだ。
 確実に黙示録は起きるだろうし、産まれてくるのは、黙示録の引き金となる、危険な赤子だとしか考えられないのだ。

 そうでなければ、朱匂宮だって鴉羽卿だって、生まれてくる孫や曾孫を見たくないはずがないのだ。しかし彼らは、世界の滅亡など許すことはできなかったし、朱匂宮に限っては――自分の恋愛ではないのと、ちょっと大人になったと自己認識していて、冷静な部分が生まれていた。感情だけでは駄目だと朱匂宮は学んでいたのだ。

 逆に緑羽万象院の情熱は生まれてからここまでの間、全く変化がなく、ごくごく普通に曾孫は生まれるべきだと思っている。近しい者から見るならば、一番平和ボケしているのは緑羽万象院であり、その程度はクライスよりも酷い。

 この件で大喧嘩し、朱匂宮は万象院の家から出ていき――今後は華族敷地で暮らすと言い張っているし、鴉羽卿も二度と緑羽の顔を見たくないと言っていた。二人とも、

『自分たちの気も知らないで!』

 と怒鳴っていたが、緑羽万象院は無視した。
 緑羽から見れば、二人がおかしいのである。


 そのままアルト猊下の具合が悪くなったので、催眠効果のある点滴をザフィスが追加した。アルト猊下が眠るのを、二人は見守っていた。眠りながらもアルト猊下は泣いている。

 ザフィスは、赤子には影響のでない睡眠薬を使っていた。
 実を言えばザフィスも、周囲の対応が少し不思議だったのだ。
 普段であれば反対しそうな順は逆で、緑羽・舞洲・法王猊下・鴉羽・朱という順に思えるのだが――現在は、法王猊下=鴉羽=朱>舞洲=クライスというように、ザフィスには見える。クライスが反対するのはアルト猊下の体調を気遣ってだとは思うが、鴉羽と朱匂宮があそこまで反対する理由が不明だ。

 寧ろ緑羽万象院は、そういう中絶禁止の教えだとしても、客観的に状態を観察する冷静な人なので、舞洲猊下と同様に体を考えて中絶を推しそうに思えた。

 だが、驚くべきことに、

『そこは医療でどうにかすべきである』

 と、言っていたのである。

 また緑羽も、一番冷静に中絶をしそうであるというか、本来であれば既に中絶し、実行後に報告してきそうなザフィスがそうしなかった事が少し意外だった。

 だから中絶阻止の念押しもあるが、本心が聞きたいというのもあって、こうして残っている。アルト猊下が眠ってから先に声をかけたのは緑羽だった。

「ザフィスは、中絶に賛成なのか?」
「……確かにアルト猊下の体は、良好な状態ではないとは思う。本人の特異型PSY-Other過剰症自体が一つ、難しい遺伝性疾患である。また、匂宮のしきたりとしての殺害が納得できる程度に――PK潜在量がこの胎児には多い。だがこれは、ESPおよびOtherも同様だ。PKとESPに関しては、まだ量についての精査をしている段階だが、Otherは先に精査した。完全なる単体の、ゼスペリアの青と俗称される絶対補色の青のみであり、さらにこれはOther内に単体であるだけでなく、100パーセントであったから、87パーセントのアルト猊下や67パーセントの法王猊下をも超えている。両名とも生まれた時に記録開始後のOther数値を塗り替えたが、この胎児はそれを超えただけでなく、これ以上超えようがない程のOtherを保持している。こちらこそ、よほどしきたりとして、どうにかしておかなければならない量であろう――よって、私が思うに、この胎児は、自己回復Otherを無意識使用できると推察される。即ち、出生までの間、胎児自体と宿しているアルト猊下を、胎児自身が回復し続けると考えられる。PK暴発は程度にもよるが、傷ついたとしても都度、Otherにより赤子が治癒させるであろうから、朱の匂宮様や鴉羽の主張するような暴発は起きないとロードクロサイトとしては判断する。だが、それを言えばクライスが産ませろと騒ぐだろうと考慮し黙っていた。しかし鴉羽にはこれを告げた。だというのに、鴉羽は堕胎せよとしか言わなかった。私はその理由を知らないので、まだ賛成する材料も否定する材料も十分ではない。逆に緑羽の府院は何故賛成なのですか? 教えか?」
「――鴉羽がいまだに黙っておるようだから、聞かなかったことにして欲しいが、わしと朱の第一子とは鴉羽なのである」
「っ」
「万象院と匂宮の間の終末の予兆となる鴉羽、それが鴉羽卿であり、わし達の間に他に子はおらず、またザフィスと鴉羽の間にも他の子はおらぬので、生まれてくるその子もまた――というよりもクライスも、鴉羽なのだ。どちらも緑羽であり朱である。それを知っているからあの二人は反対しておるのだ」
「――なるほど」
「さらに言うならば、朱はクライスが生まれる前に体質として鴉羽と同じでPK過剰およびESP欠乏の体質であったから生まれてきても良いと判断したが、鴉羽には内密で何度か確認に行っていた。わしとの場合は愛があるから良いが、今は大人になったので鴉羽は良くないと、きちんと判断できると本人は思っているようであるが、わしから見ればそれはただの退化である」

 嘆くように吐息した緑羽に、ザフィスは何も言わなかった。
 実はこれまでの間、義父とはそこまで会話をしたことがなかったというのもある。

「そして朱がここでさらにその主張を強めたのは、朱がESPで確認した限り、その赤子が正しく朱匂宮と同じPK色相であると理解したからであろうな。なおESPに限って言うならば、わしもまた、完全にその子供はわしと同一の緑羽であると判断している。そしてこれを話してザフィスがどう決断を下すのかはまだわからないが、わしがここに残っているのは無論これを伝えるためである」

 聴きながら、知らせてくれたのだから、この人物はやはり冷静だとザフィスは思った。

「繰り返すが、わしは中絶には反対だ。華族神話にも院系譜伝承にもゼスペリア教にもギルドとやらにも、終末あるいは黙示録の予兆として記載されているというが――そのそれぞれにおいて『ゼスペリア十九世』や『紫色の使徒の末裔』および『闇の月宮』や『緑羽万象院』に、『使徒ゼストの写し身』や『真の契約の子』や『青照大御神の化身』や『青き弥勒の再来』が再来すると書いてある」

 念を押すように緑羽が言う。

「その条件もまたその子は満たすではないか。逆にそれを満たす方が困難である。さらにそういった教えなど関係なく、わしは曾孫の死など許せぬ。そして使徒ゼストとやらが、黙示録の予兆だからといって子供を殺せと説いているとは聞いたことがないが、とするならばゼスペリア教など消滅すれば良い」
「……」
「ザフィスの見解は?」
「――ロードクロサイトおよびギルド伝承を踏まえて考えると、使徒ゼストあるいは青照大御神と呼ばれた人物は、ハーヴェストの『混雑型PSY血核球』とロードクロサイトの『統一ゼクサ型PSY血小板』を保持していたと考えられる。これは私からの遺伝でクライスが持っているゆえ、赤子もまた持っている可能性があるが、そちらはまだ鑑定していない」

 緑羽が腕を組む。ザフィスが続けた。

「そして、その使徒ゼストらは解読した限り、朱匂宮の『PSY-PK絶対原色・赤色相』と緑羽万象院の『PSY-ESP絶対原色・緑色相』を持っていて、さらにゼスト・ゼスペリア家が継承している俗称がゼスペリアの青である『PSY-Other絶対補色・青色相』を保持していたはずである。PK-ESPの二色はともかく、青が共存するために、混雑型の血核球が必要であり、すべてを機能させるために血小板が必要となる」

 緑羽は、使徒ゼストのPSY円環の色相と、胎児の円環が同じだとと推測し、小さく息を飲んだ。ザフィスが、それを肯定するように頷いて続けた。断言したのである。

「教えはわからぬが、血統内容のPSY円環としていうならば、本当にクライスが鴉羽だとするならば……胎児は使徒ゼストと同一のPSY円環を持っている可能性が非常に高く、そういう意味合いでいうならば、胎児は緑羽の府院が言う通り『使徒ゼストの写し身』として良いと私は考える……が、そんな……」

 口にしていくうちに、ザフィスは背筋が冷えた気がした。
 首を振って、冷静になろうと、他の情報を探す。だが、見つからない。

「ひとつだけ確実なのは使徒ゼストは伝承によるとOマイナスの生体血液型で稀血であり、私の父もまたそうであり、この赤子もそうであるという点だが、これは一番世間にありふれているものとして、他はほとんど存在しない……そのありふれたものでさえ、三百万人に一人だ」
「それは、事実か……?」
「ああ……」

 二人の間に重い沈黙が流れた。もしも各種の教えが、『救世主の誕生までの血統の流れ』を指していたのであれば――さらに救世主が生まれるのは世界の危機であるのだから、それを考えるならば、鴉羽という緑羽と朱の交わり、およびイリスとゼストの血が交わるという伝承は、医学的に正確だったということにもなる。

「――ザフィス。万象院の教えにおいて、青き弥勒の再来である神子は、是我芦原――旧世界ではゼルリアと呼ばれた土地と同一と推察可能な場所で、秘匿されて育つとされている」

 静かな声で緑羽が言った。すると何気ない調子でザフィスが続けた。

「ゼルリアは、ロードクロサイトの世に至るまでの間は、原初文明時代からゼガリアと呼ばれてきた。青き月信仰の聖地であり、ロードクロサイト文明のゼガリア教の要所であり――後のゼルリア教、そして旧世界の頃のゼスペリア教の聖地である、少なくともそのように、ロードクロサイトの記録にはある」

 緑羽はアルト猊下を一瞥しながらそれを耳にしていた。
 ザフィスは腕を組んでから、静かに言葉を放つ。

「ゼルリアとは、使徒ゼストが過ごした土地である――そう、宗教院の記録にあると聞く。そして、そこは、ルシフェリアの古文書によれば、使徒ゼストが亡くなった土地でもあるそうだ。しかし双方に位置の記録はない。是我芦原であったという記録も無いが、事実か?」
「事実である。万象院には位置の記録もある。現在の最下層である。地下の廃棄都市遺跡、あれらがそうであると、万象院本家の当主のみが知る」
「最下層……」
「――孤児が山のようにいる。都合が良いかもしれない。宗教院に戻すことには万象院は反対であるし、匂宮にも伝えるべきでなく、ギルドにもまた告げぬべきである。ザフィス、中絶などしてはならぬ。救世主であろうがそうでなかろうが、予兆であろうがなんであろうが、その子はわしの曾孫でありザフィスの孫なのである」
「……」
「良い知らせを期待しておるし、わしはザフィスを信頼しておる」
「……――約束は何一つできない。実際、Otherによる回復も希望的観測の余地も含んでいる。並びに、いずれの場合であっても、中絶・堕胎の知らせが貴方には届くだろう。なお……ロードクロサイトが知る限り、ギルドの碑文に刻まれていた契約の子の名前は、ゼクスである」
「――そうか」