【0】鴉の共喰い



 最下層で慈善救済活動が行われていた――あの日。


「――随分と鴉が騒がしいな」


 英刻院藍洲のそんな声が響いた時――同じく『鴉』が気になっていた時東と高砂は、それとなく孤児院街を抜けて、慈善救済診療所へと向かい歩き出していた。つい先ほど英刻院閣下当人とも話していて、珍しいことに『聖書』を二人共貰ってしまった。

 鴉と言うのは――視認できない速度とPSY複合科学で、最下層を含めた王都の空を現在行き交っている、黒いローブの者の事だ。

 これは、『ギルド』の暗殺及び諜報活動の専門の人間が本来着用するものである。そうした人々は『黒色』と呼ばれている。その中でも、情報共有や情報伝達、諜報活動中の黒色を『鴉』と呼ぶのだ。

 救済診療所へと入ってすぐ、時東と高砂は顔を見合わせた。
 どちらともなくソファに座る。先に口を開いたのは、時東だった。

「確かに騒がしいよな。何かあったのか?」

 実はこの二人も、ギルドの黒色の冠位を持っている。
 ただし彼らは、『特別免除階梯』という、儀式に行かなくて良いギルドメンバーである。

 黒色は、金銀黒の糸による刺繍入りの口布を与えられる。
 その糸の種類や模様で、階梯の違いが分かる。
 実は、英刻院藍洲や、その息子の琉衣洲も黒色だ。

 ――ただ、藍洲は各地の武力冠位を所持していて、最下層のガチ勢とまで親交がある。そちらでは、彼は『かき氷氏』と呼ばれていた。これに関しては、多くの者が知らない。

「昨日――猫が闇司祭議会の一人を引っ掻いたらしいよ」

 高砂の淡々とした声に、時東が親指で唇を撫でた。

 猫というのは――闇猫の事だ。宗教院が秘密裏に育成管理している、闇だ。
 こちらもギルドの黒色同様、殺し屋稼業や情報取引等、闇の仕事の従事者である。

 闇司祭会議は、闇司祭あるいはさらに高位の闇枢機卿、合計十一名と、議長兼副総長、ギルド総長を入れて、十三名である。十一名は、十一個の各集団のトップだ。その集団を横断的にして、様々な派閥がある。十一個は特定の内容の専門家兼従事者だ。なおギルドメンバーは、ほぼ全員が、普段は表の仕事をしていて、ギルド専任のメンバーは少数らしい。

「まぁ――黒猫にも食虫植物にも喰われないよう気を付けないとね。一般論として」

 黒猫とは、黒色と闇猫の事、食虫植物とは、華族が秘密裏に育てている暗殺者集団だ。 喰われるというのは、『襲われて死傷する事』である。
 時東が頷きながら煙草を銜えた時、高砂が思い出したように顔を上げた。

「それはそうと――法王猊下の噂は聞いた?」
「法王猊下の噂?」
「なんでも軽い心筋梗塞で倒れられたとかって。幸い命に別条はないがはないそうだけど、次期法王猊下の候補選定が本格的に始まるらしいね」
「へぇ」

 合計十二名の枢機卿プラス議長プラス特別枢機卿二名の、合計十五名に法王猊下を加えて『枢機卿議会』となるのだが、慣例として、法王猊下はここには出席しない。よって、『法王猊下を除く十五名』がメンバーとなる。この枢機卿議会の決定に異を唱えることが可能なのは、『法王猊下』と『ゼスペリア猊下』のみとされている。


 そんなやりとりをしながらも――時東は別のことに思考が飛びそうになって苦労していた。ゼクスの事だ。

 ――英刻院閣下とゼクスは、仲が良い。

 時東がゼクスを好きになったのは、比較的最近の事である。
 最下層に戻ってきて、ある意味、時東が一目惚れした形だ。
 瞬きをするたびに、ゼクスの姿が頭に浮かぶ。

 子持ちで年上で理性的な英刻院閣下が最下層孤児の牧師に手を出すわけがない――と、理性は言うのだが、ゼクスが恋をしていたらどうしようかと、時東は気が気でないのである。


 ――時東が十一歳の頃。医療院での仕事に専念するからとそちらの寮に引っ越すことになった時、ゼクスが時東に言った。

「時東、行っちゃうのか?」
「ああ。けど、ま、たまには帰ってくるしな」
「……俺、時東が好きだ。結婚してくれ!」
「は?」
「俺、お前の顔がこの世界で今のところ三番目に好きだから、結婚してくれ! 横に置いて眺めておきたいんだ!」

 時東は爆笑した。三番目というのもなんともだし、眺めておくために結婚とは何だ。

「悪い、俺、バカは嫌いなんだ。せめてゼスペリアの医師と呼ばれる俺レベルになれ」

 しばらく笑いが止まらなかった時東だが、ゼクスだけは恋愛対象外だと確実に認識していたので、苦笑した。

「悪い。お前はいいやつだとは思うが、俺、もっとこう色っぽい奴が好きで、俺はお前を横に置いときたくない」

 ゼクスはこの世の終わりのような悲しそうな顔で目を見開いた後、小さく頷いた。

「初恋は実らないというしな……俺は新しい恋を探す!」
「立ち直り早ぇな」

 こうして笑って別れたのが、結局最後であり――時東は左遷されて舞い戻るまで、一度もゼクスと顔を合わせる事はなかった。

 だが、戻ってきて最初に、ゼクスについて考えた。

 あのバカは一体今頃何をしているのだろうか。
 そんなことを考えながら荷解きを終えて、時東は煙草を銜えて外へと出たのだ。

 しばらく歩いて噴水前のベンチに差し掛かった時、そこの灰皿で、立っている青年を見つけた。牧師服姿、黒い髪に綺麗な青い瞳。一瞬時東は見惚れた。気だるげな表情だった青年は、時東に気づくと顔を向け――満面の笑みを浮かべた。

「時東か。久しぶりだな。今、丁度お前の所に行こうと思っていたんだ」
「……ゼクス?」
「ああ」

 二次性徴前しか知らなかった幼馴染――背が伸びていて、自分よりは少しだけ低いがあまり変わらない。だが、そんな理性的な分析や、笑顔は昔と変わらないなんていう理解を吹き飛ばすような――カーンという鐘の音が時東の頭の中で響いた。最初、それがなんなのかわからなかった。呆然としてゼクスの微笑に見惚れたまま、時東は冷や汗をかき、そして相変わらず間を置いてカーンと鳴り響く鐘の音を聞いた。

「お前、帰ってくるとか言って、一回も帰ってこなかったんだからなぁ。過労死するなよ? ロードクロサイトは医学バカっていうのが、ゼスペリアの医師なみに、最下層にまで聞こえてくるからな。主に政宗から」
「ああ……気をつける」
「ライチジュースは無いのか?」
「ある」

 やった、と、嬉しそうに時東が復古した超カロリーの飲料をゼクスがコクコクと飲み始めた。本来ならば一口でお腹がいっぱいになる程なのだが、高IQの持ち主の中にはゼクスのようにカロリー消費が激しい人間がいるのだ。それにゼクスの病気も時東は詳しいことは聞いていないが、貧血や栄養失調を伴う場合があるというのも知っていた。

 冷静にそう考える理性と、胸の動悸、ジュースのストローを銜えるゼクスの唇の色気、艶やかな黒髪にも瞳にも、目が釘付けになっていて、相変わらず頭の中では鐘が鳴っている。

 そういえば――ザフィスに聞いたことがあった。
 ハーヴェストの血は、恋愛をした時に、頭の中で鐘の音が響くのだと。

 恋愛に興味がゼロだったザフィスもそれで恋に気づいたとかなんとか聞いたことがあった。普段、ロードクロサイトの血ばかり意識しているが、思えば自分にもハーヴェストの血は流れているのである。

 だが、相手はあのゼクスだ。
 子供だ。ガキだ。バカだ。ついついいじめたくなるレベルのお子様だ。
 なのに、目が離せない。中身に変わっている気配はゼロだ。
 それがすぐにわかったのに、なのに何故なのか胸の動悸が止まらない。

 その再会以来、時東はゼクスを観察した。
 というよりも会いたくて仕方がないような不可思議な感覚だった。
 そんな自分が奇妙だった。

 これが恋であるのか、そこからして時東は悩んだ。
 なにせこれまでそういうのは面倒だった。
 だから肉体関係を持つ相手も遊人だとか、どちらかというと恋愛玄人ばかりであり、ゼクスのような、のほほーんとしたタイプは好みの範疇外だったのだ。なのに今は、ゼクスのことが頭から離れない。だが、これが、万が一、恋だったら?

 そうして――恋だと確信し、現在に至る。



 そんな時東に気づいているため、高砂は呆れたように目を細めた。
 ゼスペリアの医師と名高い時東が、形無しなのである。
 周囲は時東を、切れ者だと思っているが、現在の彼はどう見てもただの恋愛初心者だ。
 モテないわけでも、経験がないわけでもなさそうなのだが。


 一方の高砂の、周囲からの評価といえば、こうだ。

 ――頭がおかしく風変わりな完全ロステク兵器研究者。
 ――研究の側面だけはプロ中のプロで真面目だが、それ以外はまるでダメ。
 ――おっとりのほほーんとしていて、何を考えているのかも不明。

 これが、高砂祐介への、ガチ勢および王宮メンバーの最初の認識なのである。

 ふわふわの猫毛に、黄緑色の瞳。端正な顔、橙色系統のインナーに白衣。
 ここまでの外見も悪くなく、むしろ顔だけで言い寄られるから伊達眼鏡を着用中だ。
 そして華族の多くの評価としては『華族なのに一般国民のように働くなんて』という評価が多いが、それでも最高学府教授時代は、ごく限りられたエリートしかなれない職業だから歓迎する者もいたが――退職して最下層に研究室を構えると聞いた瞬間、華族はただでさえ風変わりな高砂中宮家当主を、最早華族とは見做さなくなった。

 だが、高砂は、そういった愚かな華族のことなど全く気にしていなかった。

 なお、最高学府での高砂の評価は全然違う。
 ――氷の高砂教授。
 無表情で冷徹で、滅多に最高評価を出さない史上最年少教授は、恐れられていた。
 しかしながら学生にはモテにモテたのが、伊達眼鏡を身につけ始めた理由である。
 人間なのか疑われるレベルで感情が見えず、冷たかったのだ。
 直接講義を受けた事がある榛名のみはそれを知っていたし、腕前も――大天才だという事も正しく理解している。だからこそ、王宮における、敵集団への完全ロステク兵器対策に呼び出したというのもある。

 別にこれは、裏表が激しいという事ではない。
 どちらも高砂だ。
 高砂は、その場その場で意図的に表情を使い分ける事が多いのである。

 まぁそんな高砂であるが――彼もまた、ゼクスのことが好きだった。

 高砂こそが実は好敵手なのだが、時東は全く気づいていない。
 ゼクスしか見えていない様子の時東を一瞥してから、高砂は煙草を消した。