高砂の記録(1)


 高砂の半生を、少しだけ、振り返ってみる。



 ――気づいた時には、既に訓練と実践の日々だった。

 一般的な黒咲の冠位、最上級。銀の下限に、宵桜。

 通常これの習得だけでも、半生を費やすものである。しかし匂宮冠位習得に必須のこの冠位をいつ習得したのかなど、高砂祐介は記憶にない。

 気付いた頃には呼吸するように、取得していて、自覚した時には、匂宮冠位最上級である、『闇桜、宵の月』を習得していた。そんなことよりも、高砂にとって重要だったのは、周囲から『入ってくる』ありとあらゆる『声』だった。全ての感情がごちゃまぜに、頭を埋め尽くす。本当はそんな状態になれば、人間は正気ではいられなくなる。けれど高砂家の特性――完全PSY血統戦術との併用で、『高砂家の人間だけは気が狂わない』そうで、実際高砂は衝撃を受けそれが苦痛であるのに、狂うことなどできなかった。

 無意識発動だ。そして修業中、己にそれを教えてくれる人々からだけは、何も聞こえない。その状態だけが、心の安寧をもたらす。だから、ただひたすら訓練し、五歳になる頃には、それよりも一つ上の段階にある、闇の月宮冠位の習得条件を満たしていたし、院系譜の一般的な『恩橘の羽』という武装僧侶冠位の最上級を取得していた。

 けれど感情というものを喪失していた。無表情、無言。端正な容姿の美少年は、高砂家当主の和服姿で日中は、静かに正座をしているだけだった。

 ――世界に対して興味が無かった。

 言われたことを行う日々。匂宮家には我が強い人間ばかりであるから、使用人達は喜んだが、伯父の日向中納言は溜息をついていた。そんなある日、朱匂宮が帰宅すると言って、緑羽万象院を伴って、匂宮本家へと訪れた。

 日向の配偶者である真朱匂宮は、両祖父の来訪をもてなしながら、ここの所、日向がずっと気にしている高砂を一瞥した。入ってきた朱は、やはり終始無表情。これを見慣れているせいなのか、そして自分もそうだからなのか、真朱は別段無表情の人間に対して特別な感想を抱かない。逆に穏やかに微笑している緑羽が不思議なほどだった。本日は、金朱匂宮や銀朱匂宮もいる。不在なのは父である鴉羽卿と兄だが、あの二人は匂宮で暮らす気がないのだから仕方がないと真朱は思っている。

「所で、君は高砂君と言うようだけど、御仏の教えに興味とかはないであろうか?」

 その時、満面の笑顔で緑羽が高砂に言った。声をかけられた高砂が顔を上げた。周囲は一拍おいてから、驚いて緑羽を見た。これは――緑羽のお眼鏡に叶ったのだ。お眼鏡に叶わなければ、決して出てこない一言、万象院列院の武装僧侶冠位習得許可の合図だった。周囲が今回、緑羽に依頼しようとしていた事柄で、説得方法を検討していたが、話すのはこれからの予定だったのだ。周囲は高砂に「あると言え」というESPを送った。しかし驚くべきことに、全てが遮断されて跳ね返ってきた。それは緑羽の防壁のせいだが、それを見て、高砂が初めて驚いた顔をした。

「……――一般的な院系譜の教えの概要を心構えとして学んだことしかございませんので、興味を持つ以前に、どのような内容なのかわかりません……ただ、この周りの壁……これが万象院の教えに関係があるのならば、とても興味があります……」
「そうか。では、壁のやり方を教えてあげるから、わし、万象院本尊本院守護筆頭緑羽万象院の右腕、かつてそこの金朱匂宮総取りがやっておった万象院列院総代をやってみんかね? 列院総代となれば、教えは完璧、さらに壁は列院総代が身に付ける万象院列院冠位で身につくゆえ、高砂君が学びたければ、もっと分厚い壁まで身に付くであろう。なに、周囲はわしと、朱で全部説得するゆえ、気にする必要はないし、みんな乗り気である」

 その声に、日向の伯父であり、高砂にとっても親戚である金朱を高砂は見た。金朱は視線に気づくと頷いた。次に高砂は日向を見た。日向も震えるように頷いていた。

「――ぜひ、よろしくお願いします」
「それは良かった。では、万象院列院総代になると約束せよ」
「約束します」

 こうして高砂の今後が定まった。しかし周囲は内心驚愕していた。列院冠位を、と、頼むつもりは元々あったのだ。だが、『列院総代』だ。これは、単純な武力習得とは意味合いが違う。緑羽万象院をゼスペリア猊下と位置づけるならば、高砂を法王猊下とするという宣言に等しいのだ。歴史的にも金朱もそうだが、列院冠位は上に行けば行くほど習得が困難であるから、高砂家のように武力が強いものがその座につくことは多い。だが、まさか、そこまで、と驚いたのも一つあった。

「金朱よ、高砂くんの匂宮冠位はどこまでだね?」
「――丁度、匂宮冠位が全部終わった所なので、お祖父様に列院冠位をお願いしようと思っていました。それが一定の成果を収めたら、闇の月宮冠位を、と」
「それはすごいな。一定というか本尊側のものも本家以外が可能な範囲は全て叩き込む予定なので、列院冠位最高になったら、一度闇の月宮、それが完璧になったら、本尊のものを教えよう。案ずるな、わしは緑羽。匂宮に欠落しておる情操教育および知識習得もまかせよ。高砂くんは、武力に興味があるのは何よりだが、そこよりも何よりも列院総代にふさわしい才能を持っておるゆえ、案ずるな」
「お祖父様、それはなんですか? 正直、真朱は驚いているのですが」
「頭が良い! 匂宮の人間なのに頭が良いのだ!」

 周囲が吹き出した。高砂が珍しく困惑した顔をした。しかし緑羽の瞳は輝いている。

 こうしてこのまま、高砂は緑羽と朱に連れられて万象院へと行くことになり、緑のラインが入った豪華な袈裟を付ける生活となった。そしてこれまで同様、月に一度日向が、今度はあちらから訪れて高砂家の必須儀式を教えていく以外の生活は全て変わった。

 起きる時間も食事の時間も規則正しくなり――そして高砂を驚愕させたのは、戦闘中や訓練時の匂宮の人々よりも完璧に、日常生活中だというのに、しかもただの武力の無い一般人であるようなのに、万象院は静寂に溢れていたという事実だ。

 誰からもPSYのノイズが聞こえてこない。

 逆に匂宮の人々とは違い、声をかけてくれる人は多く、表情は豊かなのだ。最初はそれが不思議で、ある日、緑羽につい聞いてしまった。それは高砂の初めての自発的な行動だった。すると緑羽が「万象院の僧侶とは、常に心を平穏に保つゆえ、これが正しいのである」と微笑して高砂の頭を撫でてくれた。何故なのか高砂は泣いていた。

 だが、戦闘訓練は、匂宮冠位までとはレベルが違った。毎日血まみれで、この時ばかりは人が変わったようになる緑羽に、ガツンガツンと技術を叩き込まれていった。そして七歳にして、列院冠位を一番上まで取得した。

「高砂よ。これで列院側の総代としての武力は最低限が身に付いた。この部分だけならば、既に金朱よりも上であるが、金朱は匂宮冠位のさらに上、闇の月宮冠位を所持している。それを習得後、わしは本尊の側の冠位で高砂が取得可能なものを教える用意がある。それにて武力『だけ』は完璧になるであろうが、高砂は万象院列院総代。その表側の部分は心構えもまだまだ、知識もまだまだ、経文の暗記しか終わっておらぬ。金朱とそこもほぼ同じだ。高砂でなくともこのままだと金朱を呼び戻せば良いだけとなってしまうゆえ、闇の月宮冠位をあげつつ、この最高学府の紙試験の赤い丸がついているものを全部習得して帰ってこなければ、本尊の側の冠位は教えぬ。それが最低限だ。良いか?」
「はい」
「並びに、万象院列院僧侶の顔と会話。匂宮連中はあれをESPでやっていて、その他の華族はそれすら無意識で勝手に出てくるからうるさくて仕方がないのだが、それを理解できる程度の心構えはあると思っておるが良いか?」
「はい」
「では、行くが良い」

 こうして高砂は匂宮に戻った。高砂の帰宅を日向が泣いて喜んだ。昔は混乱したESPがその日、高砂には落ち着くように思えた。それだけではない、他の人々が乱発しているPSY全てが、なんだかんだで自分の帰宅を喜んでくれていると知ったら、涙が出そうになった。実はみんな、優しかったのだとやっと理解したのだ。

 そこで毎日1個ずつ最高学府の赤丸がついた専攻を紙で突破しながら訓練に臨んだ。列院冠位の一番上の取得時とほぼ同一の難易度だと高砂は感じた。通常の匂宮冠位とはレベルが桁違いだったが、列院冠位の経験があったから、高砂に苦痛は無かった。

 代わりに一つ気になる事柄ができた。五歳で、自分は匂宮冠位を一番上まで抑えたのは史上最速に近いと言われていたのだが、同じ五歳で高砂が来る半年前までに、匂宮冠位どころか闇の月宮冠位まで一番収めて帰っていった人物が一人いたのだ。

 しかもその人物は、高砂が万象院へと向かった二年前、三歳で開始だ。高砂は生まれた瞬間には開始と言っていいのだ。だから実質二年間で全てをその人物は習得してしまったのだ。高砂はその後、三年間かけて習得しながら、その人物について時折考えた。名前すら知らないが、二歳年下であるとはいえ、同じ『子供』で、そして自分と同じように武力を覚えている人間が居ることを、高砂はこの時初めて知ったのだ。

 負けたくないという感覚はなかった。万象院には勝ち負けという概念はないのだ。それに万象院に出会えたことだけで、さらにこうして家族の温かさをきちんと理解できうようになっただけで、高砂は満足だったから、自分に可能な速度の最大限をしっかり発揮しつつ学んでいった。そして十歳となり、闇の月宮冠位を全て収め終えて、最高学府の赤丸を博士号まで全部終わった所で、万象院へと戻った。