【0】英刻院琉衣洲の祈り
英刻院藍洲が襲撃された数日後の事である。
溜息をつきながら、何とはなしに、英刻院琉衣洲は、最下層のゼスペリア教会へと向かった。憂鬱な気分になった時、琉衣洲は気づくといつもここに来ているのだ。
ゼクスは外出中なのか気配がなかった。
だから一人で礼拝堂へと向かった。
そして祭壇の前で無意識に手を組み目を伏せた。祈っていた。
血に濡れていた父を思い出す。無事に意識が戻るだろうか。いまだ、死の淵をさまよっている。その時、扉が小さく軋んだので、静かに振り返った。そこには牧師服姿のゼクスが立っていた。不思議そうな顔をしている。
「勝手に入って悪いな」
「いや――珍しいな。瑠衣洲一人か? 英刻院閣下は?」
「間抜けなことに致命傷に等しい怪我をして、目を覚まさない。病院だ」
「……」
「祈ったら、神は父を助けてくれだろうか……」
ポツリと自嘲気味につぶやき瑠衣洲は、泣きそうな顔で微苦笑した。
うつむいている金色の髪に紫と紺の中間色の瞳の瑠衣洲は、藍洲によく似ている。
「あるわけがないか。それ以前に、父が目を覚ました時、がっかりすること確実な難題だらけで、何もできない自分が不甲斐ない」
「……」
「青殿下を――花王院王家をお支えする以前に、英刻院が俺の代で潰れかねない勢いだ。そうなったらもうここにはこれないか、いいや、牧師見習いにでもしてもらうことになるだろうな。最下層で暮らすのも悪くないかもしれない」
「瑠衣洲……」
「牧師のお前に言うのもなんだが、最初の敵は枢機卿共だ。神は助けてくれるどころか、完全に敵だ。使徒オーウェン恩赦式典に協力してくれる聖職者がほとんどいなくてな」
「……」
「そういえば、ゼクスも牧師だな。誰か、使徒オーウェン恩赦式典で、貴族院の招きに応じてくれそうな宗教関係者を知らないか?」
「……」
「そうだ、いっそのこと、ゼクスがやってくれないか? 貴族院は最下層の有籍孤児院への慈善活動の一環として、孤児院の子供達もまた同じヴェスゼスト派の使徒であると広めるために招いたことにする。うん、案外いいな。ここならクビも何もないしな、周囲が敵に回るもなにも最初から孤立している。ゼクス、真面目にやってもらえないか?」
「――別に構わないぞ。瑠衣洲も英刻院閣下も良くしてくれるしな。俺でいいならお礼にやる。服はこれでいいのか?」
「本当か!? 感謝する。良かった……ただ、無理に来なくても良い。迷惑をかけるわけにもいかないしな。服は勿論それで良い」
こうして琉衣洲は微笑して帰っていった。それを見送り、ゼクスは英刻院閣下が治ると良いなと漠然と思った。
――ローランド法王猊下が配偶者猊下である英刻院舞洲猊下と共にいる所を襲撃されたのは、その直後の事だった。
法王ヴェスゼスト十四世が意識不明の重体であるという知らせは王国中を震撼とさせたし、一緒にいた舞洲猊下も重症で入院中だという。それを新聞で読んだゼクスは、物騒だなと思ったわけである。最下層では強盗や暴行など日常茶飯事だが、法王猊下のそばなんて警備が厳重なはずなのにと、ちょっとだけ怖くなった。無事に治りますようにと胸元で十字を切る。
そして、ゼクスは何も知らないわけだが、この数日ほど前、レクスの父であり、実を言えばゼクスの父でもあり、ザフィス神父とラフ牧師の長男である、ギルドの総長、クライス・ハーヴェスト侯爵もまた、襲撃されていた。こちらも瀕死の重傷で、ハーヴェスト侯爵は、医療院の集中治療室において、ギルドメンバーでもある医師達の治療を受けているとのことだった。ハーヴェストクロウ大教会の牧師室で、ザフィス神父とラフ牧師はそれらの件について話していた。ソファにはガチ勢長老の緑と赤――緑羽万象院府院と朱匂宮古稀宮の姿がある。
「――であるから、私はゼスペリアの医師として、ロードクロサイトの名の元に、ローランド法王猊下と舞洲猊下の元へと行く。宗教院とギルドの動きにも注意はするが、期待はするな。そしてゼクスを頼む」
「ああ。ザフィス、ゼクスは任せておけ。私の孫だ。ゼクスだけは死んでも手出しさせない」
「鴉羽はいつもそう言って詰めが甘いのだ。また鴉羽自身も気をつけなければならない」
「わかってる! 私は大丈夫だ!」
「痴話喧嘩はよそでやれ。してわしは、万象院の本院へと戻る。高砂をしかとつけておくように。鴉羽卿、万が一に備え、万象院は単独でも守護を可能な体制を整えておく」
「単独? 赤は一緒じゃないのか?」
「リスク分散の問題だよ。朱匂宮として、僕は華族敷地側で闇の月宮敷地周辺の管理をしておく。不審な橘宮の当主争いが発生しているから。前当主の末の弟が家督を奪おうとしているらしくて、それもあるし――なによりそちらの言葉で言う黙示録対応のために、桃雪を連れて銀朱が今、王宮にいる。最低限、万象院と匂宮の二箇所に安全な場を確保しておかなければならないだろうし、三番目が王宮と思っておけば良い。宗教院はわからないし、ギルドというのは、施設や敷地に由来する存在ではなさそうだからね。こちらからも高砂をつける提案をする。鴉羽、高砂をそばに置いておくように」
「――ああ。わかっている」
「ギルドからと言って良いのかはわからないが、万が一の場合はレクス伯爵、さらにロードクロサイトとしては、私は時東をつけておくべきだと進言しておく。時東はまごうことなきゼスペリアの医師としての責務を果たすであろう」
「うん、そうだな」
こうして三名がそれぞれ旅立ち、ラフ牧師だけが残った。
王都近郊で、強いPKと脳を半壊させるESPを撒き散らすPSY融合兵器が見つかったのはその日で、発見と同時に奇襲を受ける形になった猟犬達への治療のために主に政宗に頼まれて時東が、さらに兵器自体の破壊と防衛兵器の開発関連で、高砂と橘が、王宮へと呼ばれたのもその日だった。ラフ牧師は、彼らが帰ってきたら、本人達もまだ知らないが時東がロードクロサイト旧皇帝の末裔でありゼクスのザフィス側のまたいとこであることや、高砂が守るべき緑羽万象院兼朱匂宮とはゼクスであるのだという事、この二つを説明しなければと思っていた。同時に橘大公爵には、ロードクロサイトの片側の父、つまりゼクスの曽祖父が橘の父と兄弟であり、前国王弟であったため、ゼクスもまた橘と同じように王家の分家の人間であることを伝え、有事の際の王宮への保護を頼まなければならないと考えていた。また最近では、王都の中に、急に生体兵器が出現し、家屋を壊して甚大な被害を起こすことも増えている。ガチ勢の多くも現在は、貴族の護衛を頼まれてそちらにいたり、避難誘導要員として街に紛れているか、王宮にロイヤルキーパーとして紛れて情報収集に当たり、今では猟犬となった榛名達に協力しているから、最下層は手薄だ。
それだけではない。ゼクスの瞳には平和に見えるだけで、王都では最近おかしな流行病が流行り始めている事にラフ牧師は気づいていた。最初は風邪のような症状で始まるのだが、続いて額に赤い発疹が出る。その後、全身が痛み出す病で、死に至る事もある。他にも、前述の例とは違うが、王都の周囲では各歴史階層それぞれの完全ロステクから完全PSYに至るまでの兵器が狂ったように可動を始めている。そして――それを手引きしたり起動したりしている集団が既に確かに存在しているのだ。青装束に白い面、金の扇を持っている者が多いが、それらは末端のものらしく、その上、闇猫・黒色・黒咲・猟犬の内部にまで潜んでいて重複して所属している者までいるようなのだ。徹底管理がなされているのは万象院列院僧侶と、匂宮直轄配下の黒咲のみだ。他はどこにいるかも分からない。だがそれらに紛れ込めるほどの腕があるのか、腕があるものが敵勢力に加担しているといえる。古くは『叡智の扇』や『昏き修道会』といった終末論者の集団が合併して結成された、『昏き扇修道会』という連中らしい。そう――黙示録は既に始まっていたのだ。