【4】旧世界




<六日目(土)>『現:歴史第一層・旧世界文明』


 さて続いて、創世記上、宗教院が最も重要視する部分だ。

 重複して詳細が、東方ヴェスゼスト派の十二使徒が福音書に書いてある事柄を、旧約聖書を作って進行していた人々の観点から記しているためである。この時代は通称『貴族全盛期』である。『旧約聖書』と現在呼ばれているものは、現在の貴族の直系の人々が当時進行していた『ゼスペリア教』の聖典なのである。よって当時の聖書とは旧約聖書のことなのだ。内容は全部同じである。ただし当時は、『創世記の六日目』は『ゼスペリアの黙示録』と考えられていて、いつか来る終末の預言だと考えられていたようである。ならびに、現在から見ると『その預言は成就された』という事であり、『ゼスペリア(主)が存在している』わけであり、創世記記述者は『使徒』であるし『預言者』なのだ。

 いわく――主は、善良なる信徒が潰えつつあると気づき、お嘆きになった。赤と緑の果実、知恵の果実、それらより作りし葡萄酒の樽が枯れたため、使徒が主を忘却したからである。

 この部分を当時の人々は、「清く正しく暮らし、神を忘れないようにする教え」だと解釈していたそうだ。さらに以下のように続く。

 ――主は、忘却した使徒でなき使徒、全ての民、動植物に、新たなる赦しをお与えになると決めた。同時に、善良なる使徒が潰えつつある世界、苦難の人の世に御自ら降りられて、神の御業を分け与えられし善良な使徒を助ける事とした。善良なる使徒が潰えたならば、神の創造した植物は枯れはて、命ある動物は民を含めて多くが砂となるだろう。

 砂になるというのは、死んで腐って土になるということらしい。

 つまり、滅亡の暗示だから「ゼスペリアの黙示録」と呼ばれていたわけであるし、歴史階層研究的に、その通りになった。ただ、加筆された者であるという研究者がいて、一般的には、多くの国民がそう考えている。宗教院だけが違うと主張しているのだ。また貴族院も宗教院の見解を支持している。これは、この二箇所には、当時の聖書が残存しているからであるが、それ自体、非公開の超貴重な代物なので、多くは知らないのである。ほかには、最高学府が所有しているが、最高学府所有物など基本的に殆どの人間は閲覧不可能で、大量の手続きをしないと、最高学府に所属している研究者ですら閲覧できない場合があり、これもその一つだ。

 さて、この人の世に降りたというのが、暗黙の第十三使徒ゼストの事で、ゼストを器として主であるゼスペリアがこの世界に降りた、と、宗教院は解釈しているのである。主が助けることにした善良なる使徒が、現在でいう『十二使徒』の事であるとしているのだ。

 ――神は、契約の子に降りられる。契約の子とは、即ち神である。契約の子は、人の子の一人として、神の御業を教え、広めるだろう。

 この契約の子というのも、つまり使徒ゼストのことだと考えられているわけだ。
 さて、当時のいわゆる直接的な黙示録部分はこうだ。

 ――しかしながら、多くの民は、契約の子を害する。滅び行く世界において、契約の子と善良なる神の使徒は、主の神殿へと逃れ、終末の鐘の音に涙する。

 この害するというのが、各福音書に出てくる、苦難が付きまとう伝導の旅路のことらしい。その迫害から逃れつつ、使徒ゼストは、神の御業や多数の奇蹟を披露しながら、神殿にたどり着いて、旧世界の滅亡時はそこにいたようなのだ。

 ――だが、主は民を見捨てず、再び世界に動植物を満ち満ちる事とし、契約の子を通して世界を救った。民は、善良なる信徒に戻り、それまでの不徳を捨てる事となった。

 ここまでが、旧世界の人々の考える黙示録における『契約の子による救済』である。一応当時の人々は、黙示録が起きないように敬虔な祈りを捧げていたようではあるが、今もそうだし、華族全盛期も後半には院系譜が別段重要視されなくなっていったのと同様、貴族全盛期のこの文明においても、多くの人びとには、信仰心はそれほどなくて、まぁただの聖書の記載の一つ程度に考えていたと考えられる。

 なお宗教院と歴史学的に、これらの記述は『旧世界の滅亡』と言える。ロステク兵器の使用痕跡が残っていて、それを使用すると、植物は枯れるし、人間を含めた動物も死ぬのだ。現在貴族院が管理しているロステク兵器で、廃棄都市から発掘された完全ロステク時代の兵器のようなのである。誰がどうして発掘して、さらに使用して、かつ使徒ゼスト達一行が使用されると理解し、神殿に避難したのかは不明だと歴史研究家は考えている。また、『神殿はどこにあるのか』に至っては、宗教院すら知らない。神殿のありかは、ゼスト・ゼスペリア猊下のみに継承される知識だとされている。

 契約の子を通して世界を救ったというのは、神の御業即ちPSY-Otherを使用して、生存者を治癒したということだと考えられている。教会院的には神の奇蹟のひとつであるが、これは特定指定PSY-OtherのNo.2879である『他者生体治癒能力』を使用したのだろうと考えられる。怪我や病気をPSYで治す能力だ。

 なお華族伝承による古文書では、一般国民によるクーデターで、皇族を含めた華族は平安朝の一部に避難したとされていて、それが現在の華族敷地である。この一般国民というのが、『素戔嗚尊の血筋ではないのに、神力を持っていた』と書いてあり、現在でいう貴族集団だと考えられている。

 こうして前文明は滅び、華族はひっそりと隠れて暮らしていたのである。その際、『新たなる王を名乗る人物は、右副をそのまま雇用した』とのことで、『右副の嘆願により、華族は華族敷地で暮らすことを許された』らしい。なお、手引きしたのは、華族全盛期最後の左副である『刻洲中宮家当主』であり、同時に院系譜の橘院総代であり、万象院以外の全ての寺院の筆頭である列院総代だった『橘院府院』もまた、クーデターを手引きした側だったらしい。

 鴉羽卿は違ったが、二人と親しかったので残され、さらに華族の命の嘆願もしたというわけであり、特に天皇陛下という統治者であって、美晴宮家は全員処刑予定だったのだが、鴉羽卿がだったら自分も死ぬと直訴した結果、命を助けられたそうで、出自神話以外にも、美晴宮は匂宮に恩があるとしている。

 なお、橘宮はこの兼以後、親戚筋で共通祖先だったが、橘院とは絶縁している。そしてこれを境に、刻洲中宮家は、華族歴史からは消失している。

 刻洲中宮家は、当時は、匂宮と橘宮の一つ下に位置する特別中宮家で、唯一の両家の配下家であり、その他は全て、橘宮配下だったのは、今と同じである。


 ちなみに貴族院の保持する歴史古文書によると、『刻洲中宮家』は『英刻院大公爵家』となり、当主は代々名前に『洲』という字を用いる。『英』というのは、大天才という意味で、左副・刻洲卿と呼ばれていた頃から、通称としては『左副・英刻卿』だったらしい。なお、『院』が付いているのは、元々『蓬莱院総代』をしていた後に左副になったからで、貴族による王国成立当初は、まだ御仏の教えが根付いていて院系譜の力が強かった事もあり、『新しい寺院』として、一緒にクーデターを起こした橘院が筆頭の総代列院が認定した結果だそうだ。

 よって、『英刻院』となったようである。さらに、橘院は『橘大公爵家』となった。現在の院系譜橘院と橘大公爵家は、古くは親戚という事である。絶縁したわけではないが、橘院と橘宮レベルで直接的な関係は古文書にしか記されていないし、現在は別に橘宮家と橘院家もそこまで険悪ではない。ただ華族は昔のことをずーっと覚えているため、この親戚関係を知っているので、橘院と橘大公爵に関しては悪口を言う場合もある。が、英刻院家が刻洲中宮家だったことに関しては、美晴宮古文書と匂宮古文書、後は貴族院側と英刻院家古文書にしか記録がない。なのでほとんど誰も、左副・英刻卿の末裔が英刻院家の人間だとは知らないのである。

 なお、無論貴族院側の歴史としては、クーデターではない。華族が贅沢三昧して、重い税を課したり一般国民を迫害していて、ちょっとイラっとしたり、目の前を横切っただけで国民は死刑だったので、その圧政をどうにかしたという事である。この時、国王陛下となったのが、現ラファエリア大公爵家つまり、第九使徒ドールの祖先らしい。

 旧世界のラファエリア王朝の初代国王で、『左副・英刻卿』と一般国民から院系譜に来ていた大天才の女性との子供だそうだ。なお英刻卿には亡くなった妻がいて、そちらの異父兄が、英刻院家の二代目であり、英刻院大公爵家単体としては、華族ではないという意味で貴族としての祖である。華族制度とは異なり、こちらは国王が領地管理を任せるということで、『爵位』を贈っていった。それが『貴族』である。当時の華族の扱いは、『華族敷地(平安朝の一部分)』を担当する貴族という形だったが、華族という名称で呼ばれていて、特に爵位は渡されなかった。

 また、『大公爵』というのは、各地を治める貴族をまとめる者の爵位であり、実際には、王宮で国王の手伝いをする者に贈られた。それで『英刻院大公爵家』と『橘大公爵家』が、最初にできたのである。また、初代国王の父親の出身地の言葉で、『鴉』を『クロウ』、『羽』を『ハーヴェスト』と読んでいたため、この時の鴉羽卿に『ハーヴェストクロウ大公爵位』が贈られて、『鴉羽家』は『ハーヴェストクロウ大公爵家』ということになった。

 が、右副・鴉羽卿で通っていたので、以後もずっとその名前で呼ばれ、次の王朝である現在の二代目まで、長らく鴉羽卿と呼ばれ続けた。右副は相変わらず、鴉羽家当主が継いでいたのである。左副はその時々で代わったが、英刻院家が多かった。また、中副が宰相と呼ばれるようになってからは、英刻院家が宰相を排出する事も増えて、左副か宰相には必ず英刻院大公爵家の人物がいるので、貴族全盛期とは、『英刻院全盛期』と呼ばれることもある。

 ちなみに橘大公爵家は今もあるが、歴史が下るにつれて目立たなくなっていった。最近、花王院王家と親戚関係になった事から、ちょっと名前を聞くことがあるようになった程度である。とはいえ、歴史的には超古い大名門であるし、今でも院系譜への貴族院対応をするのは、橘大公爵家と決まっている。華族への対応は、英刻院家だ。無論出自が理由だが、その理由は誰も記憶していないというわけである。

 さて、次第に貴族は、領地管理者という存在理由を忘れていき、昔の華族のごとく威張り始めたわけである。今も威張っているが、レベルが違ったのだ。華族同様、目の前を横切ると首をはねるレベルになったのである。また、管理領地の規模で決まっていた爵位が階級に代わり、公爵・侯爵・伯爵・男爵・子爵・準爵の準で、威張り散らしはじめ、上には絶対服従という形になったのである。婚姻関係や血筋重視は華族ほどでは無かったが、貴族内部でも権力争いが横行し、更には領地を奪い合い、複数の領地を得て爵位を上げたりしだしたのである。

 また、初代国王の父の出身地域の伝承であった話が、『聖書』としてまとめられて、『ゼスペリア教』として広まった。つまり旧約聖書は、この頃まとめられて、広がり、一応国王に領地を任された全貴族が、王家に敬意を表すという形で信仰したのをきっかけに、それぞれの領地にも広がり、華族敷地を除き全ての民が、『聖書』を読む『ゼスペリア教の信徒』となったのである。

 別に現在の宗教院のように、洗礼などが決まっていたわけではなく、自然と広まったので、特定の信徒というわけではなかった。教会等も特になかった。強いて言うならば、この父親の出身地域のゼスペリア神伝承をもつ人々が、聖職者的な存在かもしれないが、伝わっていただけで、別に儀式などなかった。その地域というのが、今の最下層だったりする。しかしこれは、宗教院や貴族院の古文書にも書かれていない。

 そんな中、貴族の圧政がひどく、最終的に国王陛下まで蔑ろにされるようになっていった。結果、国王陛下も第一王子も処刑されて、一番下の王弟でありまだ幼かったドール・ラファエリア大公爵を連れて、当時の宰相だった英刻院大公爵が保護して、貴族達に襲われた王宮から退避。さらにこの騒動に呼応するように、貴族に反発していた民衆が暴動を起こし、貴族連中が所持していた完全ロステク兵器を使用した結果、起動・発動は出来たが、使いこなすことができず、旧世界は滅亡した、という形であるらしい。

 橘大公爵家の人間等、他の王宮にいた政府関係者は、別の経路で逃亡し、一部生き残っている。例えば、花王院紫陛下の亡くなった妻であり、青殿下の父親である王妃の生家であるミュールレイ侯爵家も、そこから連なる血筋であるとされている。貴族院の記録によると、ハーヴェストクロウ大公爵が王宮に残った上で、完全ロステク兵器を停止させ、ほぼ破壊したのだが、この時に亡くなったそうで、その時点でハーヴェストクロウ大公爵家は消滅したと記録されている。一応、現ハーヴェスト侯爵家は、ハーヴェストクロウ大公爵家の分家の末裔とされているが、貴族院の保持する旧世界の貴族系譜的には、直接的な末裔ではない。

 同時に、これは華族にとって、鴉羽家(闇の月宮)の断絶でもある。ただし、万象院と匂宮家はあるので、両者から結婚した者の内、両方の色相を保持しているものを『鴉羽』と呼び、その血を『鴉羽の血』と呼び、『鴉羽家』として特別に呼ぶことにしているそうである。

 して、どうやらこの大騒乱が、「終末」や「滅亡」であるわけで、貴族院記録では、逃亡して『ドール・ラファエリア大公爵』『英刻院大公爵』の他、政府関係者の『橘大公爵』や『ミュールレイ侯爵家』、安全地帯にいた『美晴宮家をはじめとした華族』及び、院系譜である『万象院』や『橘院』、『花王院』といった家柄、その他の僅かな貴族の中の生存者について記載されているのだが、それだけで、逃亡してから生存確認されるまでの間の出来事は、混乱もあるのだろうが、特に記録には残っていない。それにどちらかといえば、政府機能の維持や機密などの記載が主要に残されている。当然といえば当然である。

 なお、華族敷地が安全だった理由は不明だが、華族神話伝承では、月讀の血を用いた鴉羽卿が、匂宮と共に守ってくれた、というように書いてある。院系譜の歴史では、右副・鴉羽卿が、万象院と共に守護してくださったと書いてある。なので、ハーヴェストクロウ大公爵が、鴉羽家としての直系親族の万象院のESPや匂宮のPKでどうにかしたのであろうと推測されている。ESPの方は恐らく避難誘導をESPテレパスで直接伝達したのだろうし、匂宮PKは、範囲PK等を駆使して華族敷地全体に部外者を立ち入りさせなかった事などが理由だと考えられている。

 そして『終末の鐘』というのは、恐らく完全ロステク兵器のことである。
 まぁ、こんな中、使徒ゼストと十二使徒らが、どこかの神殿にいたのだろう。
 ただメンバー的に、特定メンバーが避難しただけにも見えるのである。
 新約聖書には、ゼスペリアが宿った使徒ゼストの信徒になったと書いてあるが謎だ。
 次が、十二使徒と暗黙の第十三使徒ゼストの説明なのだが、それを見ると分かる。