19
「痛い……」
なんとか園生を説得することにした帰り道、俺は痛む背中を撫でながら、職員室へと向かって歩いていた。
世の中に入るんだなぁ、あんなに力が強い人間も。
しかも園生のように、外見は全く非力に見えるにも関わらず。
正直吃驚だった。
そんなことを考えながら歩いていると、花壇が目に入った。
煉瓦造りの花壇で、今は紫陽花が咲いている。
その正面には、一人の生徒がうずくまっていた。
――そう言えば、この花壇って誰が整備しているのだろう?
各地にある大げさなバラ園などには、専門の業者が入っているらしいのを見かけたことがあるが、学舎の合間合間に忘れ去られたようにある花壇を整備している人間を、俺は見たことがなかった。
「何してるんだ?」
疑問に思いながらも、花を眺めている生徒に声をかけてみた。
すると振り返ったその顔に、俺は、思わず目を伏せた。
昨年副担任をしていた、現生徒会書記の大滝勇気がそこにいたからだ。
なるべく生徒会には近づかないようにしようと思ってはいたのだが――だが、こんな所で一人佇んでいる生徒に声をかけないというのも、教師としてどうなのかと思う。
「……」
大滝は、俺を無言で見上げた。
「……?」
きっと何かを見ていたのだろうと判断して、隣にしゃがみ込んでみる。
紫陽花の青い花の色と、その中央にある白い花、そして緑色の葉がとても綺麗である。
「……」
大滝は何も言わない。以前から寡黙だとは思っていたが、その瞳は、何かを語っているように俺には思えた。黙っているからと言って、何も考えていないわけではないと思う。
だから俺も、大滝と同じ物を見てみようと、彼が先ほどまで追っていた視線を追ってみた。
先ほど、俗に狐の嫁入りと言われるような、天気雨があったせいか、葉がキラキラと光っていて綺麗だ。
土の匂いも感じられ、此処にいると穏やかな気持ちになるのだと分かった気がする。
お互い無言のまま、暫く紫陽花を眺めていた。
たまにはこういう時間も悪くないなと思う。
大滝は何も言わない。
俺も何も言わなかった。
別に無言だって良いと思うのだ。同じ空間を共有し、同じ視点で物を見るって言うのは、そんなに悪いことではない。
そんなことを考えながら、ふと大滝に視線を向けると、彼はこちらを見ていた。
「……」
「……」
「……」
「……」
互いに無言だったが、俺はそれが悪いことだとは、本気で思わなかった。
果たして、思うべきだったのか。
ただ側にいるだけ、と言う俺の選択肢は間違っていたのだろうか?
「……狭山先生」
「ん?」
意外なことに話しかけてきたのは、大滝の方だった。だからこそ、俺は、俺から話しかけるべきだったのかと思案したのである。
「……」
「あ、邪魔だったか?」
「……違う……そんなこと無い」
「良かった。綺麗だな、紫陽花」
「……俺も……」
「……」
「……そう思う」
「そっか。そうだよな。見てたもんな、大滝。花が好きなのか?」
「……好き」
大きな犬のような外見の大滝が、小さく笑った。
こんな顔もするのかと思いながら、俺も笑い返した。
「良いよな、花って。心が洗われる気がする」
「……本当……?」
「ああ。ま、俺にはあんまり、季節の花とか、機微とかは分からないんだけどな」
「……」
「でも、見てて良いなって思うくらいの心はあるんだぞ?」
肩を竦めながらそう言うと、不意に大滝が紫陽花を見た。
「……花、良い。だけど……俺……上手く、それ……言えない」
その声に、俺は首を傾げた。
「別に言わなくて良いんじゃないか? 花は見るものだろう?」
すると大滝がまた俺を見た。
「……菜摘は……積極的に話せって……言ってた……俺、話すの、下手……」
よく分からなかったので、俺は首を傾げた。
「別に無理に話さなくても良いだろう。下手って言うのは、俺には感じないけどな。沈黙が気まずいのか? それで困っているのか?」
「……気まずく……は、無い……困っても、無い……けど、積極的になった方が良いって……菜摘、言う……だから、俺……友達出来ない」
「そんなこと無いと思うぞ? 逆に俺からしたら、沈黙になっても気まずくない奴こそ、気の許せる友達だって思うけどな。それに、大人になれば、沈黙なんて気にならなくなるって。ま、困ってるんなら、別だけどな」
俺がそう言って笑うと、大滝が驚いたような顔をした。
「それに俺で良ければ、何も言わなくても側にいてやるよ。今みたいに。一緒に花を見ような、また」
言いながら俺は立ち上がった。
「じゃあな、大滝も気をつけて帰れよ」
「……――先生」
「ん?」
「……コレ」
大滝はそう言うと、俺に、花壇の紫陽花の脇に咲いていた花を、一本手折ってくれた。
「いいのか? 有難うな」
なんだか嬉しい気分になりながら、俺はその場を後にしたのだった。