37
部屋には二つの布団があり、畳の感触が心地いい。
窓際には、応接セット。
片方のソファに座り、タバコの火を里見先生がくゆらせている。
窓から差し込む月の白い光と、星空が、先生を灰色に映し出しているようだった。
お風呂も済ませたので、あとは眠るだけである。
何時もの白衣姿ではなく、浴衣姿の里見先生。
これもまた随分と印象がかわる。
「先生はまだ起きてます?」
「ああ――それにもう少し外を見ていたいんだ」
そう言って先生が持っているビールは、どうやらもう空らしかった。
だから立ち上がった俺は、缶ビールを二つ持って歩み寄り、里見先生の正面に座った。一瞥すれば、夜の青に彩られた木々や草花が、風で揺れていた。
「里見先生、ビール」
「悪いな」
受け取りながら、里見先生が新しいタバコに火をつけた。
「乾杯」
そう言われたので俺は慌てて、缶をあてがう。
「――都会の夜景も好きなんだ。だけどな、無性にこういう景色が恋しくなる時があるんだ」
どちらかと言って、率直に言えば、洗練されているような服装で日々白衣をまとっている里見先生は、都会の夜景の方が似合う気がする。
ただ自然に触れたくなるという気持ちは別だから、分からなくはなかった。
「俺もあります。わかる気がするな。こうして一緒に、こんなに綺麗な月をみられたり、スミレの露草を見られたりするのって、何だかいいですね」
うん、職員旅行もそう悪いものだとは思わない。
「俺と見ていても楽しいのか?」
「え? 楽しいですよ。里見先生と見られるの。もしかして俺邪魔でした?」
「邪魔なはずないだろう。早く飲め」
「あ、はい」
言われてビールを飲み込むと舌の上で炭酸が弾けた。
「――狭山先生も、もうこの学園に来て一年か」
「まだまだです」
「あの学園の性癖には染まらないんだな」
「二十数年生きてきて持った価値観をたった一年で大転換させるのは難易度高いですよ」
俺がそう言って笑うと、里見先生が吹き出すように笑った。
里見先生が笑うところを見るのは、数える程しかない気がする。
「水城なんかはあっさり変わった。だから、恋は人を変えるらしい」
「里見先生も変わりそうなんですか?」
「お前を見てるとちょっとな」
「ああ、俺がいろんな人にいじられてるのが面白いってことですか。やめてくださいよ!」
俺は思わず苦笑しながら抗議した。
「別に笑ってるわけじゃないんだ」
「はぁ」
「狭山先生――二択だ。井原の白衣と、俺だったら。どっちが心配だ?」
「へ?」
「……ずるい言い方をすれば、どちらが血まみれになった時に苦しい?」
「そんなの里見先生でしょう? 白衣は洗えます。先生は、学園内ならそれこそ誰も治療できないんだから救急車です」
「もしそうなったら看病してくれるか?」
「もちろんです」
俺が断言すると、里見先生が足を組んで、再び窓の外を見た。
つられて俺もそちらを見る。
「俺は、狭山先生とだったら、自分の価値感を大転換させられるかもしれない」
里見先生もたまにはそんな冗談を言うんだなぁと思って、俺は思わず笑った。
「悪い、冷静でいられなくなりそうだ。もう一度風呂に入ってくる」
そう言うと里見先生は、一気に350mlのビールを飲み干し、大浴場に行く準備を始めた。イマイチ意味がわからなかったが、俺はそれを見守る。
そして里見先生と入れ替わるようにして、数分後に扉がノックされた。
「はい!」
忘れ物か何かだろうかと扉を開けると――そこには、柚木先生が立っていた。
相変わらずチワワみたいだ。
「――一人?」
「え、ああ、はい。里見先生がお風呂にまたいったので」
「井原先生もいったんだ。絶対口実でここに来てると思ってたんだけど」
「もしかしてあの二人は温泉で待ち合わせとか?」
俺が呟くと、柚木先生がバカにするような顔をした。
「そんな必要性ないでしょ。まぁいいや。いれてよ、お部屋に」
頷き俺は、柚木先生を先ほどまで里見先輩が座っていた場所に促した。
「柚木先生も飲みます? 酎ハイとか」
「ビールがいいんだけど」
そんなこんなで、俺は再び乾杯とあいなった。
開けかけだった俺の缶と合わせてから、食事の席とは全然違う風に、ぷはーっと柚木先生が息を放って机に音を立てて缶を置いた。
「なんでなんだろ。先生の前にいると猫被らなくていいっていうか、気楽」
確かにとしが近いこともあり、俺も気楽だとは思う。
「疲れるんなら無理しないで、ぱーっとこうやって俺と飲んでればいいじゃないですか」
「っ」
「猫っていうのはよくわからないけど、流石に教師同士と生徒の前じゃ、地を出せるかどうかはかわってくるしなぁ」
「……素の僕を見て、そういうこと言うんだ?」
「え、だって、え? 素じゃなかったら飲む気配ないですよね?」
「はぁ。先生ってさ、人の心に入り込んでくるのうまいよね。僕そういうの嫌い」
「まぁ、同僚なので、嫌いでも割り切ってもらわないと……」
「だから、嫌い嫌いも好きのうちなの!」
なんだかよくわからなかったが、そんなこんなで、大浴場から、偶然鉢合わせたらしい里見先生と井原先生この部屋に戻って来るまで、俺は柚木先生と酒を飲み、最後には四人で飲み出して、朝方には雑魚寝したのだった。