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整理しようと思う。
俺は――多分、井原先生のことが、少なくとも気になっている。
なぜならば無言でポトフを食べながら、時折ちらりと井原先生がこちらを見るたびにドキリとするからだ。緊張しているからだ。俺は間違いなく井原先生を意識している。
味は大丈夫かだろうとか、この時間に重くないチョイスだとは思うがもう少しガッツ利していた方が良かっただろうかなどだとか、考えに考えている。
だけど、いつからだ?
俺は、どうして井原先生を前にすると、こんな風に緊張するようになったのだろう?
誰よりも一緒にいて気が楽な相手だったはずなのに。不思議だ。
「井原先生」
「は、ひゃ、ひゃい!」
井原先生があからさまに舌を噛んだ……格好悪い。
慌てた様子で、スプーンとフォークをおいている。そんな姿はちょっと可愛い。
「……美味しいですか?」
だが俺の一番気になっているのは、この事だった。
井原先生に美味しいと思って貰いたい。一緒に食事がしたい。そばにいて、他愛もない話しがしたい。そんな望みが確かにあった。
「勿論です。狭山先生の料理が外れた事なんて一度もないですよ!」
「本当に?」
「うーん、アップルパイが唯一焦げていたくらいですよ」
「そう言えば作ったことあったかもしれませんね」
そんなやりとりをしたら、自然と二人で懐かしい話が出来た。
こんな自然なやりとりが、俺は好きだ。好きなのだ。それこそ――無いと不安になるぐらい。ああ……これは、これが、恋という物なのかも知れない。失ってから気づいては遅い部類の感情なのではないのだろうか。
井原先生は俺に真摯に向き合ってくれているのだと思う。
だから俺も、俺の気持ちに正直になろうと思う。
未だ正確には、恋なのかどうなのか分からないけれど、俺は、井原先生と一緒にいたい。
そばにいたい。
「井原先生、俺は、井原先生のそばにいたいです」
「ぶ」
井原先生がスープを吹き出した。汚い……。反射的に、鼻血が出ていないのにティッシュボックスを渡す俺がいた。
「さ、狭山先生……狭山先生がからかうような人じゃないって事は分かってますけど……意味分かってますか? そんなことを言われたら……」
「分かっています。俺は未だ自分の気持ちが正確には分からないので、本当に申し訳ないんですが、だけど多分、井原先生のことが好きというか、嫌いじゃないのは間違いなくて、だから、あの、回りくどいんですけど――……なんていうか」
ああ、上手い言葉が出ては来ない。
「……本当ですか?」
「はい」
「本当に?」
井原先生が、短く息を飲んでから、真剣な眼差しで俺を見た。
その澄んだ少し低いが耳障りの良い声音に、俺はゾクリと心臓が凍った気がした。なのにドクンドクンと鼓動は煩くて、体は若干熱い。
「狭山先生、無理はしなくて良いんですよ? 失恋したって俺は、ずっと狭山先生の味方です」
「そういうんじゃなくて」
「……じゃあ、本当に……?」
「だからそう言ってるじゃありませんか!」
「え」
「冗談で好きかも知れないなんて同性相手に言うわけがないでしょう!?」
「え、あ」
「井原先生! 先生は俺のことが好きなんですよね? だったらもっとこうそのあれです、喜んで下さい!」
「え、あ、う、え?」
「俺だって、俺だって、これでも必死なんです!」
俺は音を立てて机を叩き立ち上がった。
不味い、自分が何を言っているのか、よく分からなくなってきた。
ただ、ただ思うのだ。
俺はやっぱり、井原先生の側にいたいし、側にいなきゃ駄目な気がするのだ。
――そして。
井原先生は俺に告白してくれたけれど、恋愛に及び腰だ。確実に及び腰だ。俺よりも腰がずっと引けている。それは同性が理由だからではない気がする。井原先生自身がそう言う性格なのではないだろうか。俺だって恋愛に積極的な性格ではないが……これでは、どうにもならない気がする。周囲が積極的すぎていたから、こんな展開は考えていなかったが、もし仮に真摯に井原先生と付き合うとした場合、頑張るべきは俺だ。俺ではないか!
恋愛とは一人でする物ではないと思う。
だから俺は、井原先生一人に、行動することを押しつけたりしたくはない。
「俺、俺、これからもっと井原先生のことちゃんと考えます。だから、それまで待って下さい」
「狭山先生、それって――」
「多分、本当に多分だけど、俺も井原先生のことが好きです」
改めて言葉に出してみると、実にすんなりときた。
好き、か。
俺は言霊なんて信じないけれど、これからもっと何度も何度も重ねて告げたら、さらに好きになれる気がした。嫌きっと好きになるんじゃない。愛、みたいな物を構築する感情の欠片が増えていく気がする。
「狭山先生」
「は、はい」
しかしその時名前を呼ばれて我に返った。
まずい、一人で盛り上がってしまった。好きだとは言って貰ったが世間体もあれば、常識だって世情だってあるし、井原先生の側に俺と付き合う気があるとは限らないではないか。
「ちゃんと俺のことを好きになってくれますか?」
「も、もう多分結構好きですけど……」
多分。そう、多分。
「じゃあ、俺と付き合ってくれますか?」
「っ」
「付き合ってから無理だと思ったら、それでも良いから、だから、だから今だけでも狭山先生と、俺は付き合いたいんです」
井原先生はそう言うと、静かに立ち上がった。
そして俺の方に歩み寄ってくると腕を伸ばし、それから逡巡するようにその手を下ろした。
「……抱きしめても良いですか?」
「……は、はい」
俺がおずおずと頷いた一拍後、ギュッと抱きしめられた。
温かい。
おそるおそると言った調子で、壊れ物に触れるように抱きしめられた。
なんだか苦笑が浮かびそうになる。
「ずっとこうしたかったんです」
「そうだったんですか……」
「本当なに考えてるんだって感じですよね、ゴメン」
「……いいです、結構今俺、嬉しいので」
「そんなことを言われると止まらなくなります」
「止めて下さい」
「狭山先生……大好きです」
「……」
「俺にこうされるの、嫌じゃないですか?」
「嫌じゃないです……」
迷わず俺は答えていた。結局の所、それが答えだった。