「何の用だ、伊崎」

風紀委員室へとはいると、神宮寺が顔を上げた。

「香坂なら、見回りに出たぞ」
「え? 誰と?」
「一人でだ」
「もう6時だよ? 神宮寺と一緒に回るんじゃないの?」
「風紀委員長と副委員長は一人での見回り許可を持っている。――心配か?」
「そりゃまぁね」
というか、そんな制度俺は初めて知った。
神宮寺と葵ちゃんが、単独行動とか、よくこれまで無事にやってこれたものだと思う。
「――って、神宮寺、鼻血でてる」
「っ、あ、ああ、悪い」
慌ててポケットティッシュを差し出した俺は、ぼんやりとした様子の神宮寺を見て、貧血になったのだろうかと首を傾げた。
「こちらの香坂を生徒会の手伝いに貸しているんだ。たまには、生徒会からも人手を借りたいものだな。心配なら、香坂を見に行ってきてくれ」

頷いて、俺は風紀委員室を出た。

逢魔が時の校舎を、暫く歩く。
すると、第三音楽室の所で、葵ちゃんを見つけた。

「なにしてるの?」
「っ、莉央」
「お仕事中?」
「……なんだけど、サボってた」
「葵ちゃんでもサボったりするんだね」

俺は、近くにおいてあった、バイオリンに手を伸ばす。

「聞く?」
「弾けるの?」
「勿論」

もう長く付き合いすぎて好きでも嫌いでもないバイオリン。
それを俺は久しぶりに、誰かに聞かせたくなった。
だから無心で弾き始める。

すると間をおいて、葵ちゃんがピアノで伴奏を始めた。

「え、ピアノ弾けるんだ?」
「小さい頃から習ってた。最近じゃ全然だけど、この曲は好きだから」

いつもの通りの無表情で、だけど情熱的に葵ちゃんが鍵盤を叩く。
いつしか俺も真剣になって、二人で一つの世界を作り上げていった。
それがとても心地良くて、俺は本気で、葵ちゃんのことが好きになれたら幸せなんだろうなぁと思った。
外見だけで言うならば、学内の誰よりも好きだ。
黒檀のような髪も瞳も、長いまつげも、ネコのように大きな瞳も、全て可憐だと思う。
だけど残念ながら、俺は恋が出来ない。
もしかしたら、そう言う病気なのかも知れない。
俺は、生まれてこの方、誰かに恋をしたことがないのだ。

「葵ちゃん」
「何?」
「約束して」
「何を?」
「俺に惚れないって」

自意識過剰な発言なのかも知れない。
だけど、俺の友達は、皆俺に惚れた。
それで関係には終止符を打つしかなかった。

「勿論だよ」
「じゃあ、友達になってくれる?」
「僕なんかで良いの?」
「葵ちゃんが良いの」
「二人目だよ、友達が出来たのは」
「一人目は?」
「一ノ宮君」
「……あれ、本気で言ってるの?」
「わからない。だけど僕に友達になろうって言ってくれたのは、一ノ宮君が初めてだったから」
「ふぅん。じゃあ俺は、二人目ね。約束だよ、”友達”になろう」
俺が小指を差し出すと、小首を傾げてから、葵ちゃんが指切りげんまんをしてくれた。

葵ちゃんの空気感や距離感が、多分俺は好きだ。
少しだけ甘えそうになる。
だけどそれは恋じゃない。

「――ねぇ、莉央」
「何?」
「莉央の目的って何なの?」
「目的?」
「生徒会を、リコールさせたくない、それが莉央の狙いじゃないの」

核心を突かれて、俺は短く息を飲み込んだ。

「悪い?」
「別に」
「じゃあ何でそんなことを聞くの?」

俺の言葉に、葵ちゃんは鍵盤へと視線を落とした。
沈黙がしとねをおろし、辺りを静寂が包む。
窓枠が葵ちゃんを絵画のように切り取ろうとしているようだった。
一つの完成した芸術作品のように、彼は綺麗で。

薄汚れた俺は、視線を背けながらバイオリンをしまう。

「僕と付き合っても、リコールされないとは限らないよ」

葵ちゃんがそう言ったから、俺は喉で笑った。
「そうかもしれないね」
「僕なんかと付き合ってるフリをしても何のメリットもないかも知れない」
「そうでもないよぉ?」
「それなら、いいけど」
「葵ちゃんはもっと自覚を持ちなよ」
俺と違って、気高く綺麗で。
何事にも流されず。
俺にはもったいない相手だ。
森永も神宮寺も見る目がなかったんだと思う。
その位には、俺は、香坂葵のことを綺麗だと思ってる。
ただし、俺の付き合う相手ではないと、それ以上に感じている。
「御神楽先輩か、眞田先輩に何か言われたんでしょう?」
だからカマをかけてみる。
「……」
無言になった葵ちゃんの表情で、すぐにそれがYESなんだなと分かった。
「葵ちゃん――無理はしなくて良いんだからね?」
「っ」
「俺は、葵ちゃんに迷惑をかけたいわけじゃないんだよ」
「迷惑なんかじゃ……――違うんだ、そう言うことが言いたいわけじゃなくて」
「うん」
「僕、何の役にも立てないから」
「十分だよ?」
「……そんなこと言ってくれなくて良い。僕に出来る事なんて、聞くことくらいだから」
「有難う」
「それでも……友達になってくれるの?」
「あたりまえじゃん」
そんなことを気にしていたのかと思うついでに、スッと内心がひいていった気がした。
外見が秀でているだけで、結局葵ちゃんも、他の不特定多数と代わらないんだろうかだなんて思った。
「でも、友達って、それだけじゃダメだよね? 良いところも悪いところも含めて、わかり合えるような」
「え、それ、俺と?」
続いた意外な言葉に、呆気にとられた。
「……ごめん、違った? 僕の一方的な考えなのかも知れない」
「ううん、嬉しいよ」
寧ろ、真摯に向き合えない自分に自己嫌悪だ。
「ただ、もっと気楽に考えてくれて良いから」
「気楽に……?」
「一緒にいて楽しい。それだけじゃ、ダメ?」
俺は、そう言って、ただ笑って見せた。