SIDE:超越聖龍(後)
>>聖龍暦:9500年(二千二百四十九年後)
≪聖神宴≫――<鎮魂歌>最寄りの、酒場にて。
俺はその日、かなり久しぶりに暦猫と二人で飲みに来た。
愛犬も誘ったのだが、何故なのか用事があると言われた(大方、今日の恋人と過ごすのだろう)。
「あー、もう、もうさ、本当、俺はどうしたらいい……ッ!! 分からない!!」
空腹だった事も手伝い、すぐにワコク酒が回り始める。
最早俺の酒癖を知っている暦猫の前では、俺の一人称は、完全に『俺』だ。
俺は言うのとほぼ同時に、机に突っ伏し泣き始めた。
漸く空神族との和平交渉が出来そうになり、あれ以来、口には出さずとも反省していたのか、時夜見鶏が空巻朝蝶に手を出す事も無かったので、俺は仲直りして欲しい(何せ戦争の指揮官はあの二人だ)という思いで遺跡調査(恐らく大昔に遊びに来た、変な呪文を考えた神が作ったのだろう)を合同で行わせたのだが――即刻中止になった。よりにもよってその時にまた、無理に時夜見鶏が、朝蝶を犯したそうだ。
もう、俺の涙が止まらない。
「――愛すると、その人(神)と体を重ねたくなる気持ちは分かります」
すると溜息混じりに、暦猫がそんな事を言った。
俺は涙で歪んだ瞳で、それを見上げる。相変わらず、美人だ。
しかしまさか、仕事一筋で几帳面の暦猫からそんな言葉が返ってくるとは思わず、意外に思いながら、俺は問う。
「誰か好きな相手が居るのか?」
「……フラれましたけど」
「え」
ちょっと信じられなくて、俺は目を見開いた。瞬時に涙は、どこかへ消えた。
何せ暦猫は、この世界に三番目に顕現した、三番目に高位の神なのだから、告白されたら普通はOK以外の選択以外できないだろう(断ったら何が起きるか分からないからな。最悪消滅する)。出来るとすれば、それこそかなり仲の良い一般神か、あるいは俺が自分で意図的に生み出した愛犬と朝蝶を加えて、五神と呼ばれる存在だけだ。
仕事中毒の暦猫に、そんな親しい一般神が居るとは思えない。何せ、当初に引っ越しを提案したのが、単に家には寝に帰るだけ、を地でいくためだったのだと、今では理解している。最初は絶対にやらないとか言っていたが、本当に今ではよく働いてくれるし、そのおかげで俺は、会議以外(まぁそれも時夜見の考えている要点を読み取っているだけだが)、全ての書類をほぼ暦猫に片付けてもらい、俺はポンポンと判子を押すだけの生活を送っているのだ。
だとすると、身近にいるのは、まぁ最近姿を見ないが、時夜見鶏と、よくその辺にいる愛犬と、こちらもまた滅多に会わないが、朝蝶しか選択肢はない。まぁ、元々の仲を考えると、時夜見鶏だろう。なにせ、フラれたと言っているし。時夜見鶏は、やはり、やはり、考えたくはないが、蝶々が好きか、少なくとも体には興味を持っているはずだ。
が、俺としては、暦猫が頑張って時夜見鶏のハートをゲット(この表現も古いかな)してくれれば、事態が丸く収まるような気がした。よし、暦猫と時夜見鶏をくっつける計画を立てようではないか!
「――暦猫。辛いのは分かる。だけどな、好きなら押せ。押すんだ。押し倒してしまえ」
「……え?」
「案外、暦猫のことを思っているのは、相手側なのかも知れないぞ」
俺は微笑して見せた。
すると暦猫が困惑したように、瞳を揺らした。
「ですが、もう他者と体を重ねているのを知っているのに……きっと、私とよりも仲が良いし、好きなのでしょう……付き合っているのか、と……」
「それがどうした。ならば、もっと仲良くなれば良いだけだろう。第一、相手の気持ちではなく、お前の気持ちが大切なんだ。その気持ちを知れば、きっと相手も答えてくれる」
「……本当に?」
「ああ、間違いない。なにせ、長いこと、一緒にいるのだからな。まだ宮殿に移る前、三人で暮らしていた頃が、懐かしい」
「っ、あ、そ、それは……」
あからさまに暦猫が照れた。これはもう、時夜見鶏に惚れているのは確実だろう。
「好きだと言った事、あるだろう?」
「はい……でもまさか、覚えているとは……」
「忘れるはずがない。何よりも大切な、お前の言葉を」
「っ」
暦猫が真っ赤になった。これは後一押しだな! よし、この暦猫&時夜見鶏恋愛計画には、成功の余地がある!
「……でも、じゃあ何故、キスした時に、冷たく私をあしらい……ッ」
至極珍しいことに暦猫が涙目になった。
綺麗だなとは思う、が、いや本当、朝蝶より絶対綺麗だろうこっちの方が、時夜見鶏は一体何処に目がついているのか。もしや現在使用中の人型の器は、目が悪いのだろうか。
しかし、キスまでしているのだから、勝算はある!
「よく考えてみろ、その時恋人関係だったか?」
「いいえ……」
「大切に思う相手に、戯れでキスされるなんて、堪えられないだろう、辛くて」
「!」
「大切だからこそ、だ」
「え、あ」
「冷たくしたのもそうだ。お前の気持ちを試したんだ。試すような事をして悪かったと――」
「本当ですか!?」
俺の言葉を遮り、暦猫が声を上げた。
「え、あ、ああ」
驚いてどもってしまったが、俺は大きく頷いた。
そして、泣きながら満面の笑みを浮かべて立ち上がった暦猫を見た。
それから暦猫が、俺の隣に座った。え、何事だ?
「今でも、貴方の事が好きなんです。本当に好きなんです。何度も諦めようとしたのですが、出来なくて。愛しています」
「……」
冷や汗が出そうになった俺の腕に、暦猫が両手を絡めた。双眸からは、涙がまだ滴っている。――俺は、冷静になろうと努めた。コレは、一体どういう状況か。成る程、冷静に考えてみれば、俺は時夜見鶏の名前を出していない。確信していたからだ。そしてさっきの条件は全て、俺にも当てはまる。好きだと言われたこともあるし(酔っていたけどな)、キスされたこともあるし(酔っていたんだよ!)、いかにもフるような発言もしたし、付き合ってる暦猫より仲が良さそうな相手と言えば――……ああ、一見仲良く俺と愛犬は話すな、アイツは暦猫や時夜見と違って表情豊かだから気が楽なんだよな、で、一回だけ、関係を持ったことがある。恐らく暦猫の持つ鏡には『超越聖龍と愛犬天使が性交した』とか、書かれていたはずだ。そう言えば、俺、あれ以降ヤってないかもなぁ。付き合っていると思われても不思議はないかも知れない。って、待て、待て、待ってくれ! 違う、俺は暦猫と時夜見をくっつけようとしていただけで、え? だが、俺を愛おしそうに見ている暦猫に、今更勘違いだなんて言い難い。困ったぞぉ……断る言葉が見つからない、第一断ったら、あのキスの後冷たくなった暦猫だ。今回は最早、退職してしまうかも知れないぞ。そうしたら、誰が書類を整理するんだ?
俺はもう一方の手で頬杖をつき、笑みさえ消えて引きつった表情のまま、暦猫をじっと見た。確かに、暦猫は美人で綺麗だとは思う。うーん。今更、愛犬と付き合ってます、とかいう言い訳ですら、通じないほど、俺は、既に暦猫を煽っている。別に、暦猫のことも嫌いじゃないしな。てっきり以前の暦猫からのキスは策略か何かだと思っていたが、あの後何か企まれた事も無い。――これはもう、俺、覚悟を決めろ!
「俺の事が、好きか?」
「はい」
「恋人になりたいのか?」
「はい」
「お互い仕事は忙しいし、そうじゃなくとも、俺と付き合うんなら覚悟しろ」
「は、はい!」
何度も必死に暦猫が頷いている。うわぁ、もうこれ完全に本気で俺に惚れてるんだろうな。
そんな事、最高神じゃなかろうとも、相手の顔を見れば分かるだろう。
さて、どうしたものか。俺は、ヤりはするが、付き合ったことなど無い。無いんだよ!
キスとSEXにしか、自信は無い。
だがそれじゃぁ、ただのセフレだ。プライドの高い暦猫が、そんな扱いをされたら、きっとただではすまない。すまされない気がする。ここは、毎日ヤっているにしろ、その相手をその日の恋人だとして、きちんと扱っている愛犬にでも相談すべきか? だが、俺と愛犬の仲を疑っていた暦猫に、それも秘密で、俺が会いに行ったりしたら、絶対に気にするだろう。俺は、どうすれば良い? 聞ける相手も居ないぞ。うわぁ。考えてみると、俺、孤独だわ。覚悟しろとか言っちゃった手前、本人に聞くのも憚られるぞ――いいや、俺の特技は、それっぽく言う事だ。そうだった、威厳ある感じの台詞が、俺は得意じゃないか!
その特技を、此処で生かさずして、何処で発揮する!
「暦猫」
「は、はい……なんでしょうか?」
不安そうな瞳で、小首を傾げて暦猫が俺を見た。
普段は真面目一色なので、こんな表情見た事が無い。わずかに胸が高鳴った。頼む、俺の中にも、こういう思いが重なって、恋心が生まれてくれ。本当、切実にそう思う。両思いなら、何の問題も無いのだ。
「俺の恋人になって、どうしたい?」
「ただ……ただ、貴方が側にいてくれたのなら、それだけで満足です」
くっ、回答が無い。お前、そんなに俺のことが好きなのか……!
どうしようか、何か俺の方から具体例でも挙げてみるか。
「俺は、お前が淹れてくれるお茶が好きだぞ」
一番は、相変わらず時夜見のだけどな。第二位は、今でも確実に暦猫だ。第三位の座は今は既に俺のものじゃないけどな(他の兵士)。
「お前と二人で、お茶が飲みたい。お前は?」
「私も、聖龍とお茶を飲むのが好きです」
「他には、何かしたい事は無いのか? 一つ、俺の我が儘を聞いてもらったんだからな」
お茶は向こうも飲みたいって言ってるんだから、我が儘じゃないだろうが、他に、話しの振り方が見つからない。
「っ、その……」
あ、何か答えてくれそうだ。その様子に安堵した。
「もっと……仕事をして欲しいです」
なんだと――!! 無理だ! 判子を押す作業だけでも、面倒くさいのに!
っていうか、それの何処が、恋人同士でする事なんだよ?
「そして……このように夜にお酒を飲むのではなく、いえその、こうして二人で酌み交わすのも好きなのですが……昼間に、その……一緒に、出かけてみたいです。仕事を関係無しに」
成る程、確かに仕事があったら、昼間は出かけられないな。俺も暦猫も、休日など無い。だから、昼間に出かけるなど、今までには無かった。それに昼間は、兵士が食事を持ってきてくれるのだから外食もしない。
「何処へ行きたいんだ?」
俺は聞いた。行き先により、どの程度仕事の速度を上げれば良いのかが分かる。
「人間界に……」
その言葉に俺は首を傾げた。
「討伐で良く行くだろう」
「私は事務作業で残る事が多いですし、顔を出すとしても、討伐後の平野です。貴方が創った人間の世界を、きちんと見てみたいのです」
成る程、とは思ったが、困ったとも同時に思う。
神界には最近街が出来たらしい(行った事が無いので、そこを所望されても困るのだが)。しかし人間界となると、尚更困る。人間界のデートスポットなど知らない。
最近は人間界も発展している様子だから、国が出来て戦争が起きたり魔術師やら騎士やらがいるらしいとは聞く。そちらの街にも飲食店や露店が出来たらしく、新鮮な果物や魚など、目玉焼きONLYだった頃よりは、食べ物も美味しいはずだ。断るとしたら――お前の事が心配だから連れていけない、の一択だろう。だが、それでより困難な場所を指定されても困る。あ、二択目があった。俺が仕事を今まで通りのペースでやれば良いのだ。それなら行く暇ができないはずだ。でもな、こんなに照れているというか、恥ずかしそうに頬を染めている姿を見ると、いたたまれない。あ、三択目を思いついた。お前の意見は分かった、と言う風に答えればいいだろう。
「そうか」
「ええ。楽しみにしています」
嗚呼、本当に、いたたまれないな。いっそ、嫌われる作戦で行ってみるか。
だが、暦猫の嫌いなタイプとか知らないな。何せ、怠惰でヤリ神の俺の事を好きって言ってるんだ。これ以下、だろ? 自分でも酷いと思う。俺以下の相手だとか、全力で制止する自信がある。一応、威厳を演出して、キリッとした顔を繕っているから、皆俺が凄い最高神だと思っているようだが、多大なる勘違いなのだ。だが暦猫は長く一緒にいるのだから、俺の駄目っぷりもヤリっぷりも知っているはずだ。
いっそ、ドMだとか、言ってみるか?
いやだが、それでドSだとか返ってきたら、洒落にならない。
「俺も楽しみにしている」
とりあえずそう返し、沈黙を破ってみる。
「あの、できたらで良いのですが」
「なんだ?」
「キスをして下さい……」
「キスがしたいのか?」
「はい……」
頬を染めながら言われた。これなら、俺は得意だ。
「それと、その、一緒の部屋で、寝て下さい」
うむ、きっとこれは性交渉の誘いだ。これもイける。
「分かった。毎晩、俺の部屋で……いや、お前の部屋に行く」
すっかり忘れていたのだが、俺の部屋は汚い。掃除する兵士も、よく顔を引きつらせていた。だから威厳を保つために、俺は、機密書類があるから、と言って、滅多に部屋の掃除をさせないようにしていたのだった。そして、それを理由に嫌われれば良いのだが、何せ過去に一緒に住んでいたのだから、俺の部屋が汚くても暦猫は何も言わない気がする。
とりあえず俺は、暦猫の顎を掴み、口内を貪りながら、そんな事を考えていた。
舌先で、向こうを追い詰めていく。
暫くすると、苦しそうに暦猫が口を開いたので、俺は余裕そうに笑った。
暦猫は真っ赤な顔をしている。
それにしても……困ったな。
その後、俺は二百年くらい、時夜見鶏を見ると苛立ってしまった。
何せ元凶は、明らかに時夜見だ。
朝蝶に手を出すは(暦猫の鏡に「朝蝶と時夜見鶏が性交した」とまた記録されていたから遺跡調査は打ち切られたのだし)、なによりも、暦猫と付き合う事になってしまったのだから(これは責任転嫁だって分かってるけどな)!
ただ、三点だけ、俺の側にも変化があった。結局まだ、人間界には行っていない。仕事三昧だからな(判子を押すだけだけど)。
――その一。体を重ねる内に、暦猫が愛おしくなってきた。
本当に綺麗なあの顔を、快楽に堕とすのは、なんだか気分が良い。
俺の前でだけ、涙を流して哀願する表情。
誰にもそれを見せたくない。
「ンぁあっ、や、聖龍」
「ここ、好きだろう?」
「ひ、ゃ、ああっ、ん」
中の最も感じる場所を刺激しながら、前の先端を嬲ると、震えるように睫が揺れ、涙が溜まっていく。いつもの義務的な声とは異なり、甘く響くその声と吐息に、多分俺は体を絆されていた。もっと、啼かせたい。そう思って、中の刺激を強くしながら、俺は暦猫の耳に舌を入れた。
「ンァ、あ、あ、そ、それ止め――っう」
暦猫は耳が弱い。そんな一つ一つを知る度に、誰にもこれまで体を暴かれた事が無かったらしい暦猫が、新たな快楽を覚えていくのだ。俺の手の中だけで、喘ぐ暦猫は、身をよじって、快楽から逃れようとする。後ろから指を引き抜き、俺は暦猫の腰に手を添え、静かに撫でた。
「あ、あ、ッ」
するともどかしくなったのか、目を見開き、俺の首に手を伸ばして暦猫が体を揺らした。
「や、嫌、ヤだっ」
「どうして欲しい?」
「イッ、あ、入れて……フ、ァアアア」
わざと焦らすように、今度は両手で、乳首を嬲る。
ガクガクと暦猫の体が震えたから、俺は首筋を舐める。
「ヤァ――っ、ぁ!! いや、あ、聖龍ッ」
可愛いなぁと思ってから、俺は予告無しに陰茎を差し込んだ。
「ああ、ぅあ、あ、イヤァ――!!」
その声を聴きながら、最奥まで進め、わざとゆっくりと動く。
「ん、ぁ、ああっ、ねぇ、ああ、あッ」
「入れて欲しいんだったな、その後は?」
「うぁ、うご、動いて」
「動いてるだろ?」
わざと感じる場所から逸らして、ユルユルと腰を動かす。
すると蕩けたような、虚ろな瞳で、頬を染め、か細い声で暦猫が言う。
「う、動いて、下さっ、あああっ、いや、あッ」
「聞こえないな」
「嫌ァアアア、ああ、あっ」
焦らしていると、暦猫が泣くように腰を動かし始めた。太股が、震えている。
「腰が動いてるぞ」
「ひ、ァ」
「自分で、乳首を触ってみろ」
「ッ、ナ、な。あぁああッ」
意地悪く笑うと、震える指先で、両方の胸の突起に暦猫が触れる。
「もっと強くだ」
「え、ぁ」
「早くしろ」
そう告げまたユルユルと腰を動かすと、ボロボロと涙をこぼしながら、暦猫が乳首を撫でた。その痴態を嘲笑するように(別に本当は可愛いと思っているだけだが)、俺は腰を動かし、一番感じるところを突いてやる。
「ンァ――!! そ、そこは、ああっ」
「自分で乳首を弄りながら、後ろでよがっている自分をどう思う? ああ、自分の男根を、俺の腹にすりつけて、ダラダラ液を零しているのも忘れるな」
「ううっああああっ」
俺がそう言って笑うと、もう限界だったのか、俺が突き上げた瞬間、暦猫は精を放った。ぐったりとしたその姿に、吐息に笑みを乗せ、俺は唇で左の乳首を噛みながら、右手で、暦猫の陰茎を撫でる。
「ぅン、アアッ――……ま、まだッ!!」
「俺はイってないぞ」
そう告げ激しく腰を打ち付けると、俺と暦猫の、肌と肌が音を立てた。
「いやぁああっ!!」
そして強制的に俺が煽った前と、突き上げた後ろで、再び暦猫が精を放ったのだった。
――所でその二。最近、俺は、本当に暦猫が俺のことを好きなのか分からないで居た。何せ仕事量もいつもと変わらないし、人間界に行く日取りも決まらない。寧ろ増えた程で、行く気が本当にあるのかも分からない。大体、一緒に夜は眠るのだが、性交渉自体が、十年に一回くらいだ。本当に、暦猫は睡眠を取るのだ。まぁ、忙しいからそれは分かるのだが……なんとも言えない気分になる。それを気にしているのだから、本来は性交渉など無しの名ばかり恋人を望んでいたはずだから、嫌われる計画どころか、恐らく俺は、暦猫を好きになりつつある。
――ちなみに、その三。本人には自覚が無いようだが、暦猫は大層モテた。それに苛立っていると、ある日時夜見が言った。
それは五神会議の一日目が終わった時の事だった。
「おい」
珍しく時夜見が暦猫に声をかけたのだ。
「――なにか?」
暦猫も不思議そうな顔をしている。
「お前、綺麗だな」
淡々と、いつもの通り、夜のような眼差しで時夜見鶏が言った。
「なっ」
息を飲んだ暦猫が、不意に真っ赤になった。体が緊張でもしているのか、硬直している。
お前、何赤くなってんだよ。それが率直な感想だった。
俺の事が好きなら、俺以外の言葉にそんな反応をするんじゃない――……それが俺の想いだったのと、元々暦猫は時夜見鶏の事が好きだったのではと考えていたため、苛立ちが募る。自分でも、眉間に皺が寄ったのが分かった。だが、すぐに打ち消し、俺は笑顔を浮かべた。我ながら、引きつっているのが自覚できたが……暦猫の方が、俺の事を好きなんだろう、違うのか? まさか、まさかだ。俺が最近、いくら暦猫の事が好きになろうとしているのだとしても、案外、もしかすれば、暦猫の事が既に好きなのだとしても、だ。どちらにしろ、暦猫のこんな真っ赤な表情は許容できないし、最近朝蝶を時夜見が襲ったという話も聞かない以上、時夜見が、あるいは暦猫を嫉妬させるために、わざと朝蝶を誘っていた可能性だって否定できない。
そんな事を考えている内に、俺は自分でも、久方ぶりに”力”が、平常時モードではなく、本体からの”力”が、漏れ出している事に気がついた。本来なら、そして普段は、最高神ゆえの威圧感に皆が恐れをなさないように、そして≪邪魔獣≫退治の時にうっかり世界にダメージを与えないように平常時モードでいるにもかかわらず、だ。
自分でも顔が引きつっているのが分かる。何とか笑おうとしたが――無理だった。
何せ仮に時夜見鶏に好きだと言われたら?
あんな反応をしているのだから、暦猫の気持ちは揺れるだろう。
その上今の時夜見は、俺の知っている幼神では、もう無い。
何せ、朝蝶と体を重ねているのだから。
――愛犬ならば恋愛ごとに聡いし、朝蝶だって、時夜見と肌を重ねている以上、何らかの反応を見せるだろう。何とか冷静になろうとして、愛犬に視線を向けたら、逸らされた。なんだよ、その反応は。暦猫と時夜見ならあり得るとでも思っているのか? その上朝蝶は、息を飲んでいる。それは、空族としては、時夜見鶏が暦猫とそう言う関係だとマズイからか?
「からかわないで下さい」
その時暦猫が言った。険しい顔はしているが、頬はまだ朱いままだった。
本気でイライラした。
そんな自分の反応に――とっくに、俺は暦猫の事が好きだったんだなと悟った。
会議後、暦猫が何か言いたそうに、こちらを見ていたが、話す気も起きない。
俺を、フるつもりで居るのかと思えば、失笑が沸いてきた。
どうして恋とは――……終わってから気づくのだろうか。こんな事ならば、人間界とは言わずとも、もっと二人で過ごしたかった。そんな事を考えながら夜になり、俺は久しぶりに、自分の部屋で睡眠を取る。
翌日の五神会議でも、俺は暦猫とは目を合わせなかった。
「聖龍、待って下さい」
だが、帰り際に呼び止められた。そこには、焦ったような表情の暦猫が立っていた。
「なんだ?」
「その……」
困惑するように瞳を揺らした暦猫を見ていると、怒りと同時に、強い悲しみが浮かんでくる。もう、暦猫が俺のものではないのだと思えば、辛かった。こんな感情、初めてかも知れない。
「私のこと……本当に好きなのですか?」
今更何を言い出すのかと思えば――と、溜息が出た。
「良かったな、綺麗だと言われて」
「っ、貴方は、一度もそんな事を言ってくれませんでした」
「これからは、時夜見が言ってくれるんじゃないか」
「貴方に言われなければ、意味がありません」
「どうして?」
「聖龍の事が、好きだからです」
「そうか。そうは見えないがな。違うなら、何故あんなに照れたんだ?」
「――貴方にも、そう思ってもらえているのかと思って。あの時夜見が、そんな風に言ってくれたのですから」
泣くような、焦るようなその言葉に、俺は顔を上げた。
暦猫が、哀しそうな顔をしていた。
「本当に、俺を好きなのか?」
「あたりまえです」
「俺を時夜見と重ねているんじゃないのか」
思わず、また溜息が漏れてしまった。個人的には全然似ていないとは思うのだが、時折俺と時夜見は似ていると言われる。愛犬が以前俺を誘ったのも恐らくそれが理由だ。
「ッ、そんなわけ、ないでしょう……」
暦猫の左目から、ポロリと涙がこぼれた。じっくり見れば、双眸の睫が、涙に濡れていた。
「貴方と時夜見は全然似ていません。重なりません」
「どうだろうな」
「貴方こそ、私の事を本当に好きなのですか?」
今度は睨むように言われ、俺の苛立ちも最高潮に達した。
気づけば無理に暦猫の顎を掴み、その唇を貪っていた。
「っ」
苦しそうに暦猫が吐息したが、構わず、今度は別の角度から、舌を追い詰め、絡め取る。
「んぅッ」
そのまま抱きしめ、無理に舌を引きずり出して、甘噛みした。
肩がピクリと揺れたが、それでも俺は唇を離す気は無かった。
腰に手を回し、逃げられないようにして、更に深く貪る。
それから――漸く唇を離すと、暦猫が真っ赤な顔をしていた。
唾液が線を引いている。暦猫は、惚けたようにトロンとした瞳で俺を見る。
「言わないと分からないのか?」
「っ、え」
「フる気なら、そうしろ。ただな、仕事は続けろ」
「え、あ、待って下さい」
そのまま帰ろうとした俺に、暦猫が後ろから抱きついてきた。
「好きです、私は好きです、どうしようもないくらい、聖龍の事が好きなんです」
「……」
視線だけで振り返ると、まだ暦猫は泣いていた。
踵を返して、柔らかな、銀髪を撫でる。
「――一緒に、人間界に行ってくれるか? 仕事なんて放り出して」
「ッ」
「仕事と俺と、どっちが大切なんだ?」
我ながら女々しい台詞だとは思ったが、俺は精一杯笑って見せた。きっと意地の悪い顔をしていたと思う。
「貴方です――……私は貴方の事が好きだから、だから、少しでも力になれるのではと思って仕事を……」
「本音か?」
「勿論です」
俺は今度は、優しい笑顔を浮かべる事が出来たと思う。
涙を拭った暦猫に、俺は告げた。
「俺も、好きだ」
思えば、俺は初めてそう口にしていた。とっくに俺は、暦猫に惚れていたのだなと改めて思う。もう、暦猫の事を離すなんて、考えられなかった。
――その時だった。
「いや、いやぁッ!!」
近くの開け放された扉の中から、朝蝶の悲鳴が聞こえてきた。
顔を見合わせてから、俺と暦猫は走る。
「もう……止めて下さい」
俺達が到着すると、小さな声で震えながら朝蝶が言った。
「何をしているんだ、時夜見!」
明らかにまた嘘泣きをしている上、震えるようにしている朝蝶の姿に、俺は思わず眉を顰めた。何でコイツは、こんなに空神族の罠に引っかかるんだよ。やっぱり、人間(神)として、時夜見は馬鹿だ! そう思い、俺は思わず怒鳴ってしまった。
暦猫は気づいているのかいないのか、素っ裸の朝蝶に上着を掛けている。
一応神でも、風邪を引くからな……そんな思いで、俺は、別に断言して、見たかったわけでは無いが、時夜見鶏の下半身をチラリと一瞥する。明らかに萎えきっている。確実に俺達が来たからではないだろう。朝蝶は『もう止めて』と言っていたのだから、少なくともこんなに早急に、アレが静まるわけでも、先走りの液が消え去るとも思えない。
その上、完全に時夜見鶏は、眉を顰めている。今度こそ、何か発言して否定して欲しいという思いで、俺はじっと時夜見を見た。我ながら、眉を顰めていたと思う。
「俺は――」
「……苦しい、っ、どうして――」
たっぷりと沈黙を取った後、やっと何か言おうとした時夜見の言葉を、朝蝶が遮った。
すると何も言わないまま、切れ長の瞳で時夜見が気怠そうに朝蝶を見る。
夜のような威圧感を放ってはいたが、育てた身(?)としては、困惑しているようにも思えた。が、自信はない。
「こんな、こんな風に体を無理に暴かれて、っ」
しかし、涙声で朝蝶は続ける。完全にもう、朝蝶が犯されかけたようにしか見えない。
絶対にそんな事は有り得ないだろうと俺は確信していた。
だが、否定しない時夜見鶏を見ていると、もしや本気で蝶々が好きなのかも知れないと思える。好きだからこそ、頭の良い(会議の時の要点思考など)時夜見は、愛するゆえに黙っているのかも知れない。たった今、本当に直前だが、俺は恋という感情を知った。多分暦猫が、朝蝶と同じような行為をしたとしたら、黙り込む自信がある。暦猫はそんな事はしないと思うけどな。
「なんて事を……貴方という人は。朝蝶がこんなにも傷ついているのに……ッ」
その時暦猫が声を上げた。
俺が一瞥すると、一瞬だけ目が合った。すぐに視線は、憤怒の色を宿し、時夜見へと向かったが、俺は確信した。暦猫も、朝蝶を疑っている。しかし空族には、それを悟られない方が良い。俺も暦猫の案に乗ろう。
「最低だ。何度も釘を刺しただろう」
俺はあえて怒りの表情を取り繕いながら告げた。
相変わらず、時夜見は何も言わない。
時夜見には辛い思いをさせるかも知れないし、あるいは時夜見が本当に好きならばその恋心を朝蝶が利用している形でもあるから気づかせなければ。俺は後者だけは許せない、要するに時夜見の心を弄んでいるとすれば、空神族が許せないが、時夜見が本当に好きなのだとしたら、何かしらの反論もあるかも知れないし、黙秘したとしても、きっとそれは愛なのだと思う。それを否定することもまた、俺には出来ない。恋は、仮に利用されたとしても、それでも良いくらい狂うものだと知ったからだ。今であれば、最初に暦猫が言った言葉も理解できる。――愛しい相手ならば、体を重ねる関係だけでも維持したいと思うその心が。
それから、暦猫の説教が始まった。俺も何か言わなければと思い、時折口を挟む。
だがそれにしても、本気で暦猫の説教は長い。どうしたものか、俺の勘違いで、本気で暦猫が怒っていたら、本当にどうしたものか。お腹が減ってきた俺は、時折溜息が出そうになったり、お腹が鳴りそうになったりしたが、必死で堪えた。最高神だから、それくらいは出来る。それに、俺の腹の虫が鳴ったら、暦猫の計画は台無しだろう。
それから二人きりになった時、回廊を歩きながら暦猫が俺を見た。
「どう思います、アレ」
「空神族の陰謀だろう」
「……それだけでしょうか」
ポツリと続いたその声に、驚いて俺は顔を向けた。
「――まさか本気で時夜見が、蝶々を好きだと言いたいのか?」
ビックリして俺が言うと、暦猫が目を伏せ首を振った。
「むしろ逆です」
予想外の言葉に、俺は息を飲んだ。
「わざわざ私達が近くにいる事を察知して、あんな行為をしたのですよ」
「俺達に時夜見を疑わせたいからじゃないのか?」
「それならば、対処の仕様もあるのですが……」
「他にも可能性が考えられるのか?」
「――ええ。私が自意識過剰なのかも知れませんが」
そう言いながら、暦猫が溜息をついた。
「時夜見鶏が、私を綺麗だなんて言うとは、普通は考えられないでしょう? 貴方ですら、怒るほどです」
確かにそれもそうだなと思い、俺は苦笑しながら腕を組んだ。
「時夜見を疑わせたいのであれば、確かに私達にその姿を見せるのは有効かも知れませんが――……もしかすると、朝蝶は私に見せたかったのかも知れません」
「何故だ?」
「いくら綺麗だと言われようが、体の関係を持っているのは自分だと、見せつけたかったのかも知れません」
「どういう事だ?」
「ですから、要するに――……空巻朝蝶が、朝蝶の方が、時夜見鶏に惚れているのでは?」
「なッ」
思わず足を止め、俺はポカンとしてしまった。
「勿論朝蝶の嫉妬心を煽るために、時夜見が、私にあんな事を言ったのかも知れませんが……朝蝶の方が嫌がっている現状を、時夜見は知っているわけですし……仮に、時夜見鶏が蝶々も自分の事を好きなはずだという妄想に取り憑かれているとしても、その妄想ゆえに嫉妬心を煽ろうとしたのだとしても……通常なら、仲が良い上、その、何というか、性的に奔放な愛犬天使にでも言う方が自然ではありませんか」
溜息混じりに続いた暦猫の声に、俺は眉を顰めた。
「確かにそうだな。愛犬相手なら、飲みに行った時に、いくらでも冗談だと言えるだろうし……要するに、時夜見の言葉に、朝蝶が嫉妬して、お前に見せつけたと言うことか」
「だとすれば――……それよりも、愛や恋に鈍すぎる時夜見鶏と、跡継ぎを切望されていて、そちら方面を恐らく他の空族……空神族に熱望されていて、知識も媚薬も持っている朝蝶が相手です。対処法が分かりません」
困ったように暦猫が細く息を吐いた。
「和平交渉には都合が良いでしょうが、いくら敵とはいえ、その心を弄ぶような事は、したくない。それが貴方でしょう?」
「まぁな」
よく分かっているなぁと俺は思った。何となく暦猫と一緒にいると、アレ、と言えば、醤油が手渡される感覚なのだ。そう言うのも、今思えば、自然だと思っていたが、愛だという気がする。暦猫の存在は、これまで自然すぎたが、好きだと確信した今では、その一つ一つが嬉しくて仕方がないんだ。好きだ、と言うのが伝わらなかったのは、最初は好きじゃなかったからだ。だが今では、言わずとも伝わっていて欲しいくらいだ。だが、これからは、ちゃんと口にしようと、したいと思っている俺がいた。
「そう言えば、何で暦猫は、空族を疑ったんだ?」
「媚薬です。そんなもの、時夜見が持っているとは思えませんし、買いに行ったとも思えません。あの手の媚薬は、あの頃は街にも売っていませんでしたから。勿論、時夜見の、魔法薬を作る腕前ならば、やれば作る事が出来たでしょうが、鏡に『時夜見鶏が媚薬を作った』という事実は記録されていませんでした。改竄も時夜見鶏ならば出来るでしょうが、改竄した記録もまた、私の持つ鏡には残りますので。そんな記録はありませんでしたし、そもそも時夜見がそんなモノを作るとは思えません」
つらつらと続いた暦猫の声に、俺は首を傾げた。
「何故すぐに、俺に言わなかったんだ?」
「貴方が気づいていない可能性を考慮したからです。それに、空族にも、貴方が最初から時夜見鶏を擁護したら、こちらの能力をはっきりと知られる可能性があったので」
確かにそれは一理あるなと思った。いくら恋人同士(最初は兎も角)であっても、俺もきっと、暦猫と同じ能力を持っていたら、事実を確信するまでは黙秘するだろう。俺も暦猫も、多分だが、仕事と恋は切り分けるタイプだ。まぁ俺は、タイプみたいなモノで、カテゴリ分けされるのは、馬鹿馬鹿しいと思ってるんだけどな。
「それで?」
「え?」
「これからどうするつもりだ? 本当は何か、考えがあるんだろう?」
勝算がなければ、暦猫は恐らく、今回も黙っていたと思う。
そうでなければ、あんなに真剣に、真に迫った説教など出来ないだろう。
「貴方に、朝蝶を口説いて貰います」
「――なんだって?」
俺は思わず眉を顰めた。何せ、つい先ほど、ある意味新しく恋愛関係になったばかり何だぞ、俺達!
「私達が付き合っている事を、恐らく朝蝶は知りません」
「嫌だぞ。これから広める予定だからな。お前は俺のモノだから、手を出すなと」
半ば怒りを込めて俺が言うと、暦猫が赤面した。
「え、あ、いえ、その、嬉しいです……えっと、ですが、そうじゃなくて」
「そうじゃないならどういう意味だ?」
「和平交渉の成功と――……仮に朝蝶が本気で時夜見を好きな場合には、時夜見側を嫉妬させて煽れるかも知れないと、二つのために共謀しないかと朝蝶本人にも伝えるんです。後者の場合は、気が惹けるかも知れないと言って。あくまでも空族の計画にこちらが乗る形だと伝えればいいでしょう」
「……成る程な。だが、それならやはり、俺とお前の関係を隠す事になるだろう」
「少しの間だけです。なんなら、朝蝶には伝えて貰っても構いませんし……愛犬には既に言ってあります。それと、私が貴方以外に靡くと思っているんですか? 信用して下さらないのですか?」
「……そうだな、信用している。分かった……って、愛犬に? いつだ?」
「貴方と愛犬が関係を持った直後です」
思わず俺は吹きそうになった。鼻水が出そうになる。頑張って止めたけどな。
「そうだったのか」
「応援しますと告げたら、そんな関係じゃないから、逆に応援すると言われました。ただ、それでも貴方が片思いしているのかと思って……付き合っていると思いこんでいるのかと思って……ただ、恋愛相談はしていました」
「馬鹿。俺にはお前しかいない。お前こそ俺のことを信用してくれ」
確かに当時の俺について考えたら言えたギリではないが、思わず抱きしめて、軽く頬にキスしてしまった。真っ赤になった暦猫が、とても可愛かった。
それから暫くして、人間界に≪邪魔獣≫が出た。
これの討伐にだけは、俺も参加する事に決まっている。
――良くある事だったのだ。
だから、時夜見鶏が大怪我を負った上に、行方不明になるなんて、思いにもよらなかった。
「暦猫、見つかったか?」
十年ぐらい、時夜見鶏が帰ってこないことは良くあった。俺も、<鎮魂歌>を始める前は、よくその位姿を消したものだ。怪我のついでに休息を取る――休日の無い俺達にとってはそれが、暗黙の常識となっていたんだ。だが、百年以上経過して、戻ってこない事などこれまでには無かった。それに百年も経過すれば、大抵の怪我は治癒する。そうすれば、居場所を伝えるくらいの気配は戻るはずなんだ。生まれたばかりの頃(いや、1000年くらいだったかな)当時は、それこそ気配を消すように時夜見鶏は生きていたが、<鎮魂歌>に入ってからは、一度もそうした事は無い。現在では師団長を務める時夜見鶏の姿が見られなければ、団員が心配するからだ。だが、もう二百年も、時夜見の姿は見つからない。
俺の言葉に、暦猫が唇を噛んで頷いた。
暦猫の鏡には、
・時夜見鶏は負傷した。
・時夜見鶏は神界に戻った。
・時夜見鶏は洞窟で寝ている。
しか、書いていないのだ。それが仕様だ。
寝ている――……それは本人の認識であり、外部の認識でもあるが、正確には『傷を負った人型の器が消滅しようとしていて、本体が何とかそれを保っている状態』である。その時分に本体を攻撃されでもしたら、死ぬ(神々の言葉で言えば消滅か)。保護する場所――例えば医療塔などにいなければ、安全に、安静にしていなければ、少しの衝撃で本体が傷つき、意識を落として、そのまま死ぬのだ。時夜見は昔から、自分自身の怪我には、本当に無頓着だ。ただ消滅していない事だけは、最高神である俺には分かる。
「神界の洞窟……その洞窟が特定できれば良いのですが、悪くすれば、私達が入った衝撃や、転移した際の魔力圧で簡単に死んでしまいますよね……」
俺は口元を手で覆った。暦猫を、本当は抱きしめて、慰めてやりたいが、俺はこれでも最高神だ。まずは、時夜見鶏を救う事。本来のダラダラチートハーレム予定は、もう完全に狂いかけているが、チート能力だけは健在だ。いくら平常時モードで人型であっても、今の時夜見の、眠っている状態ならば、恐らく無意識に放たれているため抑えきれない俺の魔力の力で、時夜見鶏を殺してしまう。いつもそれを恐れるから、俺は探しに行きたい衝動を堪えているのだ。目をキツク伏せ、俺もまた唇を噛んだ。
洞窟の場所さえ分かれば、今では時夜見さえ従えている(理由は知らないが、時夜見は腰が低いのだ、何かと。表情と態度と声からは分からないが。最近は時夜見が言わないせいなのか、時神の思いあがりっぷりも激しい、とはいえ)時神の長に迎えに行かせる事が出来る。他の弱い神々でも良いし、兵士でも良い。例えば、俺とは違って、威圧感が薄い暦猫や愛犬だって、洞窟さえ特定できれば、少し離れた場所へ転移する事で魔力圧なしに、力を抑えて迎えに行けるはずだ。
その時、扉をノックする音が響いた。
空巻朝蝶だった。
現在も、暦猫の計画は進行中だ。
だから俺と朝蝶は、恋愛関係によく似た仲で、和平交渉は上手く機能している事になっている。――仮に今、時夜見鶏の不在を知られたら、時神と空神の間では、再び戦が始まるだろう。時神には、俺達が肩入れする形となって。本当は、時夜見の事が心配すぎて、戦争の事なんて考えたくもないし、放っておきたい。だが、朝蝶はあの時、確かに俺の横に立って、時夜見ではなく、俺を守ってくれた。あの行為は、やはり同じ神だからであり、朝蝶も、この世界の滅亡を願ってはいない事、俺が死ぬのを回避したい事を、ありありと教えてくれた。仮に暦猫が言う通り、本当に時夜見鶏の事が好きだったならば、それは辛い選択だったはずだ。意識があるのか無いのか、その時の時夜見の状態では分からなかったが、ずっと朝蝶は泣きそうな顔で、時夜見鶏の事を呼んでいた。あの姿を、俺は覚えている。だからきっと、朝蝶は辛いはずなのだ。朝蝶だって、俺とこんな和平交渉などせずに、恐らくもう時夜見鶏の不在を悟っているのだから、探しに行きたいのかも知れない。悟っているのに、空神族には何も言わない朝蝶の事を、その時から多分俺は、信用し始めていた。
「聖龍様、仲の良さをアピールするために、出かけませんか?」
柔和な笑顔で、朝蝶が言う。俺に断る理由は無い。
「ああ、そうだな」
頷いてから、暦猫を見た。すると、小さく頷き返された。
二人で暫く<鎮魂歌>の庭を歩く。
今となっては、朝蝶と時夜見が、此処で鬼ごっこをしていた光景すら、懐かしい。
思わず苦笑が漏れた。
「聖龍様?」
「いや……悪い。蝶々達が、此処で逃げたり追いかけたりしていた事を思い出してな」
何気なく俺がそう言うと、朝蝶が足を止めた。
体が硬直している様子で、目を見開いている。
今にも泣きそうな顔で、朝蝶が唾液を嚥下した。
「悪い……その、配慮が足りなかった」
恋する相手の不在を実感させられる事など辛いはずだ。
涙を今にも零しそうなまま、朝蝶が顔を背ける。
「全くです。医療塔にも居ない、追いかける事も出来ない、そんな事実、空神族が知ったら、どう感じると思いますか? 医療塔の入院患者くらいすぐに分かるんですよ? 追いかける事が出来ないなんて……どれだけ消耗しているのか……あるいは、まだ戻らないのか……」
何でもないというように、朝蝶は言う。呆れた声をしていた。
だが、彼の嘘泣きに気づける俺は、本当に泣いているのだという事だって、当然分かる。
「もし僕が見つけたら、当然殺しますよ。なにせ、敵なんですから」
「そうか」
「ええ」
きっと、朝蝶には、そんな事は出来ない気がした。
時夜見鶏は鈍いから兎も角、ずっと朝蝶はこれまで、逃げ続けてきたのだ。
たった一言、戦意が無ければ鬼ごっこをする必要がないと、伝えれば良かっただけなのに。それでもずっと逃げていたのは、朝蝶の意志だ。時夜見鶏が、ストーカーだと誤解されるほど、ずっと逃げてきたのだ。強姦の事実よりも、そちらの方が、皆の目を惹くとはいえ、本気でやり合った所など見た事も無い。戦場などは別としてだが。確かに時夜見鶏は強いが、だからこそ、朝蝶が本気で殺そうとしている場面の方が、見る確率は高いはずなのに。ただ、殺そうと、そんな風に見えるようにしていたとしか思えない。朝蝶だって時夜見の頬に傷を付けるくらいには強いのだから。
「――好きだという気持ちは、恥ずべき事ではない」
俺は久方ぶりに、威厳たっぷりに言ってみた。なにせ、照れくさかったのだ。それは恐らく、本音が多大に混じっていたからだ。
「何を仰っているのか分かりません」
「自分の気持ちに嘘をつき続けて、そして最後に気がついた。その時にはもう、遅い可能性もあるんだ」
あの時、時夜見鶏が暦猫を綺麗だと言ったあの時、きっと俺は苦しかったのだと思う。
暦猫が――俺の側から居なくなってしまうのではないかという不安感。
上手く説明は出来ないけど、俺はきっと、どうしようもなく辛かったのだろう。
「朝蝶」
「なんですか?」
「敵だとしても、和平交渉をしている身であっても、だ。俺は、お前の幸福を、幸せな恋を、祈っている」
「ッ」
「さて、帰るか」
その様にして庭の散策を終え、俺達は戻った。
「聖龍」
帰宅してから、数十分が過ぎた頃の事だった。
暦猫が、慌てたような声を放ち、俺を見る。
「どうしたんだ?」
「これを見て下さい」
・時夜見鶏の姿は、秘匿された洞窟にある。
・新たに秘匿された洞窟が、記録された。
・空神族の祠。
・時夜見鶏を空巻朝蝶が見つける。
・空巻朝蝶は帰宅した。
・空巻朝蝶は、≪深紅球≫と≪蒼海球≫を購入した。
俺と暦猫は顔を見合わせる。
「購入物は、HPとMPを回復させる≪球≫です。洞窟からは、30kmほど離れた場所の街にしか売っていない」
kmというのは、俺がまた昔に、舌を噛みながら「めっ−とりで良くないか」と暦猫に告げた時に決まった、「メートル」という単位だ。Kは、「き、ろっ」とか、で決まったんだったか。
「すぐにでも殺す事が出来たはずです。それに武器を使わずとも、夜の神でもある時夜見鶏ならば、洞窟から放り出されたら、すぐに消滅したはずです」
「場所も空族の秘匿していた場所ならば、俺達には察知できないからな」
強い結界が張られていて、不可侵の場所とされているからだ。
最早俺達には、選択肢は一つしか無かった。
敵対している空族に依頼すれば、すぐに時夜見鶏は殺されて(消滅して)しまうだろうから。
――空巻朝蝶の善意を、好意を、信じる他はない。
翌日、祈るような気持ちで、俺達は鏡を見守った。
そこには。
・空巻朝蝶は、時夜見鶏に≪深紅球≫と≪蒼海球≫を飲ませた。
・時夜見鶏は、≪深紅球≫を摂取した。
・時夜見鶏は、≪蒼海球≫を摂取した。
・時夜見鶏と空巻朝蝶は口づけした。
と、記載されていた。
その事実に、まず俺と暦猫は安堵した。
――摂取できる状態ではあるのか。
――だが、ちょっと待て。最後の口づけした……口づけした!?
「ど、どう思う?」
思わず聞いた俺の声が震えた。
「さ、さぁ……?」
答えた暦猫の声もまた、震えていた。
それから暫くして、時夜見鶏は、<鎮魂歌>の前に倒れていた。
愛犬天使が見つけて、医療塔に運んですぐに、目を覚ました。
かなり消耗していた時夜見だったが、すぐに回復した。
俺は復活した時夜見鶏に会おうと暦猫と二人、回廊を歩いていた。
遠目にその姿が見える。
その時だった。
「強姦魔なんて死ねば良かったのに」
どこかで誰か、一人の兵士がそんな事を言った。怒りで我を忘れそうになる。
だが――怒鳴りつけようとした俺よりも一歩早く、暦猫が兵士に走り寄った。
バシン、と。
乾いた音が鳴り響いた。頬を平手で打ったのだ。
こんな風に激高した暦猫を、俺は初めて見たかも知れない。
冷たい眼差しだったのに、暦猫の緑色の瞳は、どこか悲愴と憤怒に彩られていて、紅潮した頬は怒りを露わにしていた。
頬を殴りつけられた兵士は、唖然とした様子で、暦猫を見ている。
「最低なのは――」
言葉を続けようとした暦猫を、腕で俺は制した。
すると驚いたように、我に返ったように、暦猫が俺を見上げた。
「……何も、お前が手を出す必要はない。最低なのが誰なのかなど、見ていれば、噂話を真に受けた愚劣な兵士の言葉を聞けば分かる。ただな、時夜見鶏が何故黙秘を通すのかにすら、考えが至らない者を殴る必要など無い。その価値すらないだろう? 違うか?」
「それは……」
それでも怒りと悲しみを堪えるように、暦猫が俯いて唇を噛む。
「<鎮魂歌>内での戦闘は禁止だ」
「っ」
「行くぞ、暦猫。残念ながら、時夜見鶏は帰ってしまったようだがな」
先ほどまで遠目に見えたその姿が無い事を確認してから、俺は暦猫の手首を握った。
そして俺は無理に歩き出しながら、目を伏せる。眉間に皺を作って。
歩き出したから怒る相手も居なくなり、やり場のない感情が浮かんでくる。
何故なのか、泣きそうになった。
俺が作りたかったのは、こんな世界じゃないはずだった。
だが、暦猫の前で、涙なんて見せたくはない。俺は、ちっぽけな自尊心の元、きっと暦猫の前では、大人で、そしてその時はきっと、格好良くいたかったのだろう。
執務室へ戻るなり、暦猫が、涙を浮かべて怒った顔をした。
「処罰ならいくらでも受けました。なのに、なのに、どうして――」
その言葉を遮るように俺は、柔らかな銀髪の後頭部に手を当て、無理に唇を奪う。
目を見開いた暦猫に苦笑した。
「もしお前がああしていなかったら、俺が怒鳴っていた。多分俺が怒鳴っていたら、お前が収めたんじゃないのか?」
「っ、それは……」
上を向いて、天井を眺めながら、俺は涙を堪えた。
「俺はな、それでも今は、お前がいて、時夜見や愛犬、蝶々がいるこの世界に、絶望なんてしていない」
「!」
目を見開いた暦猫の両頬に手を添え、俺は苦笑した。
「愛している」
「私も、私もです」
「だったらな、多分だけど、俺達がすべき事は、あの兵士を殴って消滅させる事じゃない。時夜見が、俺と同じように、この世界を好きになってくれるように、努力する事なんだ。あんな馬鹿げた中傷を受けずにな」
俺が必死に笑ってそう告げると、泣きながら何度も暦猫が頷いた。
「そのために――協力してくれるか?」
「はい」
その声に俺は暦猫を抱きしめてから、再び天井を見上げたのだった。
それから。
和平交渉は上手く進んでいたから(時夜見鶏が見つかる前に)、そして暦猫の本(鏡)で、朝蝶が時夜見の事を助けてくれたのも知っていたから、回廊で偶然であった朝蝶を見て、笑顔で足を止めた。
――もう此処まで来れば、蝶々が時夜見を好きだというのは、確定だと俺は思っている。
和平交渉時の付き合っているフリも、時夜見鶏が戻る直前に解消されていたので、もう俺は、朝蝶と付き合っているフリをする必要もない。
朝蝶も、時夜見が見つかった安堵感があるのか、最近は以前よりも優しくなった気がする。
朝蝶と遭遇したのは、そんなある日の事だったのだ。
「僕本当に聖龍様を、敬愛しています」
これまでに、朝蝶からそんな台詞を言われた事は無かった。
おかしいな、と思い周囲の気配を探ると、時夜見鶏が居るのが分かった。
「聖龍様のこと、仕事ぶりを拝見して、今では、大好きです」
まぁやってるの、ほとんど暦猫だけどな。
とはいえ、仲が良い姿を見せれば、時夜見だって嫉妬するかも知れない。
朝蝶の恋心を知り、時夜見だって……朝蝶に助けてもらったり色々あった(口づけ……)のだから、ちょっとは嫉妬するかもな!
「ああ、私も朝蝶の事が好きだ。現在の関係になれて、嬉しい」
それにちょっとだけ――以前に暦猫に『綺麗だ』なんて言った事に、俺の方が嫉妬していたりもする。
「好きだぞ、朝蝶」
だから言ってやった。
ただし半分は、やはり朝蝶には恋心があるにしろ、未だに空族は時夜見鶏を籠絡したり、罠にはめてやろうとしている可能性が高い(から、朝蝶は他の空神族に伝えなかったのだろう)と思い、戒めの言葉と、早くそれに気付けという親心(?)半分で言った。
――この笑顔に騙されるなよ、と思いながら、時夜見をチラリと見た。
相変わらずの威圧感を放ちながら、夜のような瞳でこちらを見ていた。気怠そうには見えるが、それはいつもの事なので、怒っているのか嫉妬しているのかすら分からない。
「嬉しいです」
すると柔和な表情で、朝蝶が答えた。
時夜見が戻っているせいか、これまでの嘘泣きから一転して、最近の朝蝶は、思いっきり作り笑いなのだ。だから俺も作り笑いで対応している。
その翌日の事だった。
「嫌、嫌だ、ッ、止め」
朝蝶の嬌声が、空室から漏れてきた。
ちょっと待て、一体どういう事だ?
漸く二人は付き合う事にでもなったのか?
困惑しつつも、俺は扉を開け放った。ここで、致されてもマズイし。どちらかの部屋でヤれ! そんな思いで俺は告げた。
「時夜見、貴様……!」
本当、場所を考えろよ! 俺だって、仕事場PLAYとか、してみたいんだぞ!! そう思えば、怒りが沸々とわいてくる。
「何を考えているんだ」
全く……俺ですら、まだヤってないのに。まぁ、暦猫はそんなの許してくれないかも知れないな――いやでも、案外……? 考える内に、思わず眉間に皺が寄ってしまった。
「ああっ、もう……嫌だッ」
快楽に堪えられないように、朝蝶が甘い声を出している。
なんて、なんて、なんて羨ましいんだ!
「……そうか」
だが、その時ポツリと時夜見鶏が呟いた。
そんな調子に、俺は思わず眉を顰めた。これは……俺が昔、掃除しようと思って、ぽいぽい時夜見鶏の倉庫の箱を捨てた時に、よく似ている。あの時は少年だったし、今となってはあの箱に入っていた装飾品は、人間界で、大変貴重な魔力を持った指輪とか呼ばれているらしいが……。
ただ、ただ、本当に哀しそうに見えた。いつもと変わらない無表情だったが、切れ長の瞳の奥に、多分長い間一緒に暮らして成長を見守ってきた、恐らく俺にしか分からないだろう悲愴が浮かんでいる気がしたのだ。
「っ」
朝蝶もまた、そんな時夜見の表情に、息を飲んでいるようだった。
表情変化が分かるとしたら、本当に好きになって、観察していたんだろうな。
その時――不意に時夜見鶏が、切れ長の目はそのままに、唇の両端を持ち上げた。
よく見ればそこある、彼の黒がメインで僅かに茶が指した瞳が、馬鹿にするようにこちらを見ていた。明らかに――……時夜見鶏が、嘲笑しているのと、怒っているのが分かる。
このままだと、間違いなく、俺も蝶々も、ただでは済まない。
時夜見鶏の実力ならば、平常時モードの俺も、朝蝶も、一瞬で塵芥と化すだろう。
慌てて俺は、剣を抜いた。
すると、焦った様子で、朝蝶が俺を制するように声を上げる。
「聖龍様、違うんです、これは――」
「庇う必要はない」
俺の事はとりあえず庇わなくて良いから、お前は先に逃げて誰か呼んできてくれ! そんな心境だったが、時夜見鶏が怖すぎて俺は、あまりよく聞いていなかった。だが必死で剣を構える。武器があれば、数分は持つかも知れない。その間に、朝蝶が呼びに行くか、この威圧感に気づいてくれそうな、愛犬……出来れば苦しまずに死んで欲しいが、最後になるなら顔を見たい暦猫の事を思い出す。
実際、仮に現在の時夜見鶏を倒すとしたら、本気の朝蝶と、通常モードの俺と、戦闘モードの愛犬と、完璧補佐の暦猫が揃っても、難しい可能性が高いし、何より彼等の到着まで、持ちこたえられるかも怪しい(通常モードになるには時間もかかるし)。
こうなったら、何か動揺させられるような言葉を発して、会話で時間を稼ぐしかない。
俺は必死で考えた、そして願うように告げた。
「以後二度と朝蝶には近づくな」
お願いだ、コレに動揺してくれ!
本気で、願うような気持ちで俺は言ったのだ。精一杯威圧感を発揮し、俺はそれを剣にまとわりつかせる。この剣はそうする事により、少しは威力が増すのだ。同時に思った。最初に時夜見鶏が卵から生まれてきた時の直感通り、やっぱり敵に回してはならない相手であったのだと。
「僕が悪かったんです……っ」
その時、朝蝶が声を上げた。俺の作戦に気がついて、のってくれているのか?
いやもうそう言うの良いから、誰かを早く呼んできてくれ!
しかし時夜見鶏は、失笑しているだけだった。切れ長の瞳が細まり、口元の片端だけをつり上げて、馬鹿にするように笑っている。
「俺が無理矢理したんだ。別に、いいだろ? 俺の行動を指図する権利なんて、誰にもない。勿論お前にもだ、聖龍」
「!」
――俺は、息を飲まずにはいられなかった。
無理矢理、した? これまで、俺は時夜見を信じていたから、そんなはずがないと思っていた。だがどこかで俺は、敵である空族を信用しないでいたのかも知れない、無意識に。これまで、時夜見は俺に嘘をついたことなど、一度も無かった。無かったのだ。だから時夜見が無理矢理していると、信じなかっただけなのだろうか? 本当に朝蝶は無理矢理犯されていたのだろうか?
それに確かに、俺には、時夜見鶏に指図する権利など無い。最高神だからと図にのって、あれこれやらせてきただけなのだ。それに時夜見が不満を募らせていたとしてもおかしくはない。その上確かに、俺は、時夜見が何時だって俺に従ってくれるから、だから、調子にのっていた。行動を指図できる、その権利はない、それは、俺の考えていた傲慢さと、現実をつきつけられるには十分すぎる言葉だった。俺は――子供だとか兄弟だとか友達だとか、時に思う事はあったけれども、下僕とさえ考えかけた事があるではないか。
「なんだ? 何か言いたいことでもあるのか?」
時夜見鶏が、唇の片端を持ち上げたまま言った。
相変わらず、その瞳は夜のようで、何も映してはいない。
まるで俺の事など、見る価値すらないと思っているかのようだった。
しかし――それでも、やはり俺の中で、時夜見は大切なのだ。
「貴様がしたことは、到底許される事では無い」
無理矢理したというのならば、俺が叱るべきだ。仮にそれが俺の最後の言葉になったとしても。
「別に。許される必要なんか無い――それとも、俺を追い出しでもする気か? 俺がいなくなったら、お前、困るだろ?」
失笑するように、時夜見が言った。俺は、時夜見が居ない<鎮魂歌>なんて、考えたくもなかった。だが、仮に誰かを、すきかってに犯しても良いとすら思っているのであれば、それが俺の嘗てを真似した行為であったとしても(いや、俺は無理矢理はないが)、キツク言わなければならない。
「思い上がるな。貴様一人いなくとも、此処は困らない」
そんな俺の言葉は、あるいは自分自身に向けられたものだったのかもしれない。
時夜見が、そんな風に思える世界を作ってしまった俺は、時夜見鶏が居なくなっても仕方がないと、どこかで考えていたのだ。暦猫に書類仕事を任せ、討伐は時夜見に任せている――いらないのは、多分俺だ。
「出て行け、二度と俺の前にも顔を見せるな。<鎮魂歌>へ近づくな。入ることも許さない」
ここまで言えば、流石に時夜見も、俺を攻撃すると思った。
何時しか、どのようにして消滅するのを防ぐかではなく、その時の俺は確実に自分の死を考えていた。元々俺は、何でも出来る時夜見よりも、本当は劣った存在だったのだ。それでもこの世界が好きで、時夜見と一緒にいるのが楽しくて――そして暦猫に恋をしたのだ。
すると時夜見が、いつもの気怠そうな瞳で俺を見た。
俺もまた、時夜見を見た。
こんな風に、視線が合うのは、いつ以来なのだろう。それすら思い出せない己を呪った。
嗚呼……大事だと思っていたはずなのに。
俺は目を伏せたくなったが、これが最後だと思えば、時夜見の顔を、せめて忘れたくなくて、じっくりと見た。見据えた。
すると不意に時夜見が鼻で笑った。俺達の間に横たわっていた沈黙が消える。
「分かった」
その声に、俺は思わず息を飲んだ。
「これをやる」
不意に渡された退職願を見て、俺は思わず目を見開いた。
色あせたその封筒、蝋印。
明らかに、以前から用意された物であったと分かる。
「なッ……本気か?」
これが、本音だとすれば、先ほどまでの時夜見鶏の威圧感も、何もかもが、この時のための演出に思えた。時夜見鶏は――この<鎮魂歌>から出て行きたいと思っていたのか?
呆気にとられて、時夜見を見据える。
だがそこにはいつも通りの気怠い瞳と、夜のような気配があるだけだった。
「ああ」
沈黙してから、時夜見鶏が頷いた。
だとしても、だとしても――俺の中では、時夜見鶏が側にいないなんて事はもう、考えられなかったのだ。本当に朝蝶を強姦したとしていても、だ。朝蝶を一瞥してから、俺は一歩前へと出た。それが許されない事であるくらいは、分かっている。だが、それ以上に、俺にとっては何よりも、嫌、勿論暦猫を愛しているのだが、そうであったとしても、時夜見鶏がどうしようもなく、大切だったのだ。
「言い過ぎた。考え直してくれ」
俺は、多分声が震えていた。けれど、震えを止められなかった。
だが再び沈黙し、弧を描いた口元で、こちらを静かに時夜見は見ている。
暫しの間をおいてから、フッと笑み混じりの声を時夜見が放った。
「もう決めた。じゃあな。出て行く」
「待て、時夜見――」
俺が引き留めようと言いかけた言葉を遮るように、時夜見鶏は部屋を出て行ったのだった。
≪聖神宴≫――<鎮魂歌>最寄りの、酒場にて再び、今度は愛犬も交えて俺は酒を飲んでいた。俺は時夜見鶏が出て行った後、七十年くらい酒に溺れていた。
「時夜見……ううッ」
俺は既に酔い、自分の愚かさと悲しさが極まって、涙がボロボロと零れていた。
涙が頬を濡らしていくのが自分でも分かる。
それは別に、会議で時夜見の意見を参考に出来なくなったとか、討伐が大変になったとか、あの時朝蝶を庇うように、と言うか己を庇うために剣を抜いてしまったとか、そう言うことではない。
何よりも辛かったのは、時夜見が<鎮魂歌>を辞めたいと、退職願まで前々から用意していた事実、それはきっともう俺の顔なんて見たくないと思っていたからだろう事が原因だ。
「時夜見は、時夜見はさぁ、そんなに俺のことウザがってたのか……ッ!!」
「聖龍……哀しいのは分かります。私も寂しいですから。だけど、私が側に居るではありませんか」
暦猫がそう言って、俺を優しい目で見た。
「でもな、アイツは俺とお前の子供のようなものだっただろ?」
俺の言葉に、酔っているのか暦猫が赤くなった。
「あああああ、時夜見――!!」
現在は、俺と暦猫が横並びに、正面には愛犬が座っている。嘗ては、愛犬の隣には、時夜見が座っていたのだ。その時は、必死でいつも俺は酔いを堪え、格好いい父親(?)のフリをしていたのだ。
「うーん、だけどさぁ」
麦酒を飲みながら、愛犬が呟く。
「例えば、暦猫をさ、『綺麗だ』って言ってたのが、朝蝶が嫉妬するのを期待して、言った言葉だとするじゃん?」
「ああ、ああ、そんなの、そんなの、どうでもいいッ!!」
「ちょっと聖龍は黙ってて。暦猫も黙らせて」
「はい!」
暦猫は頷くと、俺の唇に両手を当てた。可愛いが、今はそれどころではないので、舐めてやると、暦猫が真っ赤になった。だが、手は離してくれない。
「それってさぁ、実際には、仕事あっさり止めるくらいだから顔が見られなくなってもOKで、恋して無さそうだった時夜見からすればさ、特に意味が無かったとするじゃん?」
「まぁ、そうでしょうね」
「けどその後、聖龍と朝蝶は、付き合ってるフリして、至る所で一緒にいたよね?」
「ええ……私の計画とはいえ、私が嫉妬するくらい一緒にいましたね」
「要するに、最初は興味なかったけど、朝蝶やら、聖龍の反応やらを見て――かつ暦猫の反応じゃなくて、会議の最初の時点で、二人が威圧感出したり固まっているのを見て、もしやこの二人……って、勘違いにしろ推測くらいは出来るじゃん? 目を逸らした僕は兎も角」
「「……」」
「その上で、眠って帰ってきてみたら、仲が良い二人の姿があったわけでしょう? もうこの二人は、相思相愛だって確信してもおかしく無くない?」
「そ、それは、その可能性はあるでしょうが……」
暦猫が漸く俺から手を離し、腕を組む。
「そうしたらさ、追いかけっこのせいで、ストーカー扱いされて、その上強姦魔扱いされてた時夜見鶏的にさ、二人の邪魔をしてるとか、考えない? でさぁ、邪魔なら姿を消さないと、みたいな」
「それで……辞めたって事か?」
俺が首を傾げながら不安そうに聞くと、愛犬が大きく頷いた。
「そ。で、仮に本当に時夜見が朝蝶の事好きだったら、尚更じゃない?」
愛犬の言葉に、酒を飲みながら俺は俯いた。
「俺が嫌いだとか、<鎮魂歌>が嫌になったのかも知れないだろ?」
「そんなはずはないと思いますが……特に眠って起きた後ならば、いくら消耗していても嫌ならば帰ってこないでしょう?」
「だってあれは誰か……朝蝶に連れて帰られたんだぞ?」
「逃げればいいじゃん。医療塔から逃げるなんて、時夜見ならすぐに出来たはずだよ。五神の誰かが見張っていたわけでもないんだし」
確かにそうかと思い、俺は顔を上げた。
「だから、今聖龍がやるべき事は、時夜見に会いに行く事!」
「その通りです」
二人に断言され、おずおずと俺は頷いた。
それから三十有余年ほど、会いに行こうとしては、足が止まって、何度も何度も悩んでから、決意し、会いに行く事に決めた。
俺は、庭で何らかの作業をしている時夜見を見つけた。
そういえば――昔から物作りが得意だったよな。今となっては懐かしい思い出だ。
「……時夜見」
まるで声帯が機能を失ってしまったようにすら思える中で、俺はおずおずと声をかけた。無視されたらどうしよう、更に今より傷つく気がした。
沈黙が俺達の間に横たわる。
それは夜が明けるのを待っているような心境だった。
「なんだ?」
たっぷりと間を挟んで、時夜見鶏が答えた。首を肩に近づけるその仕草も、気怠そうな切れ長の視線も、そして無表情も、何もかもが懐かしい。
俺は暦猫の事を愛していると自覚している。
だが、それとは、全く異なる意味で、時夜見鶏は、俺には、無くてはならない存在なのだ。とても冷たい声音だというのに、その闇のような声音すら、俺は聞きたくてたまらなかったのだ。ずっと、そうだ、ずっと俺達は一緒にいたのだ。何もせず、だらしなく、ぐうたらしてきたのだし、愛想をつかされても仕方がないだろう俺だけど、それでも、時夜見が帰ってきてくれるならば、何でもしたい。だから泣きそうになった自分を堪えた。
「単刀直入に言う。戻ってきて欲しい」
再会したら、色々と話そうと思っていたが、俺の口から出たのは、それだけだった。
呆れたように吐息し、作業を終えたのか、手を洗いながら、時夜見は俺を眺めている。
俺を不思議そうに見ているように思えたし、同時に、何も理由が無いのに此処へとやってきた自分は、いつも通りに、結局時夜見鶏の前では、余裕たっぷりを装い話してしまった。特に時夜見の前では、威厳があるふりを、いつだって俺はしてきた。一度だって、一緒にいたいだとか、信頼しているだとか、そんな事は言った事がない。ああ、なぜそうしなかったのだろう。滑稽すぎて、笑ってしまうのに、やはり泣きそうになったから、俺は目に力を込めた。何故なのかは分からないけど、やっぱり、こいつの前では格好良くいたいんだ。格好良さの意味は、暦猫と時夜見の前では全然違うけど。暦猫相手だったら、俺はきっと、情けない姿もまた見せられる。だが、時夜見には違う。時夜見には、父親のような、兄のような、師匠のような、あるいは年嵩の友人のような、よく分からない、ただ格好いいところを見せたいのだ。とっくに時夜見が俺よりも上の実力を誇っている事など、分かっているのに。だけどそれを口に出来るのは、精々、何らかの理由付けが合った時でしかない。
「≪邪魔獣≫の討伐、神界も人間界もだ……お前の助力が無いのは厳しい。それに他の世界からの攻撃もある」
俺の言葉に、無表情に見えこそはするが呆れているのか、静かにまた時夜見が首を傾げた。
二人で<鎮魂歌>を作った理由は、それこそ時夜見だけに討伐を任せないことが理由だったはずなのだから。あの時の俺は、何にも考えては、いなかった。ただ自分に都合の良い言葉を並べていただけなのだ。考えてみれば、俺が時夜見鶏に、何かを自発的にしてあげた事など一度も無い。無かった。
「今更?」
その時、続いた沈黙を打ち切るように、時夜見鶏がそう言った。
それもそうだろう、もう百年も経っているのに、俺は今日初めて顔を見せたのだから。
大体本人からしてみれば、勘違いとはいえ、俺と朝蝶の仲を疑っているとしたならば、ある種追い出されたような形に見えない事もないはずだ。しかも俺が語った戻ってきて欲しい理由は、≪邪魔獣≫の討伐だ。何故、何故俺は、寂しいから戻ってきて欲しいという、その一言が言えないのだろう。まるでこれじゃあ、働かせるために戻れと言う風に聞こえてもおかしくない。
「……何も返す言葉がない」
それが、本心だった。俺は今更、何をしに来たんだろう。涙が、零れそうになる。もう嫌だ、こんな世界など、滅びてしまえば良いとすら思った。
だが。目の前にいる時夜見が、俺に再び笑顔を見せてくれる前に、全てが滅びるのも苦痛だった。勿論それは、言い訳なのかも知れないが。
だから俺は、必死で、時夜見鶏に戻ってきて欲しい理由を探した。
「お前がどれだけ、これまで討伐に尽力してくれていたのか、そして、会議で、どれだけ雑務処理に文官としての仕事に注力してくれていたのか、俺は知らなかったのかも知れない。それが当然だと思っていたんだ。浅はかだった。許して欲しい」
威力の強い≪邪魔獣≫の討伐は、百年前まで、時夜見鶏が一人で行っていた。今では、百師団くらいが連携して行っている。
また、会議の度に俺は時夜見鶏の思考を見ていた。
今では俺は、会議では何も発言する事が出来なくなったから、ただ威厳たっぷりに笑っているだけだ。そうして無言を通しているのだ。大抵そうすれば、暦猫か朝蝶、ごく稀に愛犬が何かしら提案してくれる。無論それらは、時夜見の案には、ほど遠く稚拙な案にすら思えるが――ただみんな、俺が時夜見鶏の不在を嘆いていて、会議でも虚ろなのだと考えてくれている。
俺はいつも、討伐してくれる事も、会議に真剣に取り組んでくれる事も、それまではいつも『ごく普通』の事だと思っていたらしい。それに気づいた。時夜見鶏がいなければ、何も出来ない俺――それに気づいた事も、これからは時夜見鶏だけに全てを任せないようにしようという考えの基盤となった。そして何よりも、何よりも本当に、ただ一緒にいて欲しかった。そんな事にさえ気づかなかったなんて、俺は本当に馬鹿だったんだ。
俺は気づくと懺悔していて、頭を下げていた。
すると時夜見鶏が立ち上がった。
「別に」
そんな俺に、時夜見鶏はいつもと同じく、淡々とした声を放った。
俯いたまま目を見開き、それから俺は顔を上げた。
「戻ってきてくれ」
「……それは」
だが、時夜見は、思案でもしているかのように瞳を揺らした。
俺は回答を待ちながら、心臓が早鐘を打つのを感じていた。
「――討伐は、引き受ける。俺一人で十分だ」
「っ」
「それで良いだろう?」
時夜見鶏が、俺を正面から見据えた。
そこには、はっきりと、拒絶の意志が見て取れた気がした。
息を飲んだ俺にも、何も構わずに、夜のような瞳で瞬きをしている。
仕事だけはしても良い――……
「……フリーでやると言うことか?」
俺は、沈黙した後、そう尋ねた。声が震えそうになったのを必死で抑えた。
やはり最早、<鎮魂歌>に戻る気はない――暗にそう言われているのだと思う。
「ならば、師団長をしていた時のように、三師団分と、指揮をしない四師団分の成果を上げろ。この条件が飲めるか?」
俺はもう必死だった。時夜見鶏に、どうしても戻ってきて欲しかったのだ。
本音を言うならば、戦いなど、討伐など、何もしなくて良いから、だから帰ってきて欲しかったのだ。俺達の、新しい居場所に。涙を堪えていたら、思わず眼が細くなってしまった。だが、こんな条件など余裕だという表情で、淡々と時夜見は俺を見ている。だから俺は、食い下がった。実際、働いていた頃の時夜見は、新人の……なんだっけ、今では将軍になったラクスか、あいつを助けるぐらい余裕で、百師団が相手にするような≪邪魔獣≫を倒してはいたが、それはあくまで現役の頃だ。流石に今なら、きついはずだ。
そう気がつき、俺は続けた。
「更に言うならば、百師団分、働け。それに是というならば、認めよう」
流石にこの条件には、時夜見鶏だって折れるだろう。
折れてくれ。
俺は祈るような気持ちで、下におろしている両手を握りしめた。
だが。
「……分かった。百師団だな」
少しだけ思案した様子を見せたものの、時夜見が頷いた。
そんなの、平常時モードは愚か、通常時モードの俺であっても苦戦するだろうに。
ただ――……時夜見鶏の気持ちは分かった気がした。
それ程までに、戻りたくないのだろう。きっとやはり、愛犬や暦猫の言葉は、ただの慰めだったのだ。ならば――……退職の為に嘲笑していた時のように、俺に見せた時夜見と同じく、俺はきっとこの場所で、怒ったようなフリをして、戻りたくないという気持ちや、俺を嫌いだと思う時夜見の気持ちを、確固たるものとする事が、時夜見鶏に対して出来る、最後の優しさであるような気がした。
だから、思案するうちに生まれた沈黙を、打ち切るように俺は告げた。
「そうか。それ程までに戻りたくないのか。勝手にしろ」
言いながら、俺は一生懸命に、不機嫌そうな顔を取り繕った。
それから暫く歩いてから、俺はもう堪えられなくなって、ただ一人静かに、そう静かに涙を流した。頬が濡れていく俺の顔は、きっと時夜見には見えない。それで良かった、だって俺は、格好良くいたかったんだから。
その後しばらくの間、俺は時夜見が、百師団分の仕事をしているのだと聞いた。
当然、給料は支払っている。
それを教えてくれた暦猫を見て、俺は眼を細めた。
「もう、時夜見のことは見ないでくれ」
「なッ……何故ですか?」
俺はその時、思わず哀しくなって、気がつくと暦猫を抱きしめていた。
絹のような髪に顎を乗せ、ポツリと呟く。
「辛いんだ――もう、思い出したくない。コレは命令じゃなくて、恋人への頼みだから、破っても良い」
俺はきっと初めて、その時仕事と恋愛を混同した。
「悪いな」
だから謝り苦笑して、離れようとした。
その手を、だが暦猫が掴んだ。
「暦猫?」
「そんな哀しそうな顔、しないで下さい」
そんな事を言うくせに、暦猫の両目には涙が浮かんでいて、すぐにポロリと零れた。
「いつか貴方は、時夜見は私達の子供のようなものだと言いましたね」
「……ああ」
「私にとっても、そうなんですよ。時夜見の方が先に生まれたとはいえ。私の中でも、彼は特別なんです。貴方と、貴方――聖龍が、一番良く、時夜見の事を知ってるんですよ。私達は、確かに家族でした」
静かに泣き出した暦猫を、俺は再び抱きしめていた。
腕に込める力が止まらない。
「ああ、そうだな。俺は……あれを、思い出だと考えようとしていたのかも知れない」
「聖龍……」
自分の双眸から涙がこぼれるのも、結局俺は止められなかった。
「悪いな、格好悪くて」
「そ、んなこと、無いです」
「有難うな。お前の前では……俺は泣けるよ。だけど、本当は支えてやりたいんだ。ごめんな」
「私だって貴方を支えたい。なのに、なのに、嗚呼、貴方を見ていると、本当にたまに時夜見鶏を思い出します」
「――それは、どういう意味だ? あいつが好きだったって事か? 前に、似てないと言ったくせに」
「違います。私が初めて恋をしたのは貴方です。昔貴方がいなくなって時夜見鶏と二人きりになった時、どれほど心臓が押しつぶされそうだったか……どうせ貴方は知らないでしょうけど」
俺の体に、今度は暦猫の腕もまわった。二人で抱きしめ合う。
「その、『ごめんな』の、言い方が、そっくりなんですよッ」
「え?」
思わぬ事を言われて、俺は驚いて目を見開いた。
「話を聞く限り、それぞれ別の神だと思いますし、まぁ貴方が作った世界ですから、子供と言えば子供なのでしょうが――人間のように血が繋がっているわけでもなく、魔族のように精力と血液から子供を作るわけでもなく……なのに、なのに、育ての親とでも言えば良いのでしょうか? 顔も基本性格も全然似てないのに、癖とかちょっとした仕草がそっくりなんです」
初めて言われたそんな言葉に、俺は思わず苦笑していた。
ならば、それが本当ならば、とても嬉しい。
「――俺は、時夜見にとって、良い家族に、なれていたかな?」
「あたりまえです」
ぎゅっと、暦猫がまわす腕に力がこもり、涙が更に流れた。
俺はその時の暦猫の言葉が、純粋に嬉しかった。嬉しかったのだ。
それでもやはり、俺は時夜見の動向を暦猫に見ないように伝えた。
家族だ――そう言ってもらえたのだから、なおの事だ。
勿論怪我をすれば分かるようにしていたし、何処の誰と戦っているのかは関知できたのだが。それでも俺は、時夜見の幸せを願い、そしてその実現は、時夜見に任せることにしたのだ。巣立った一人前の子供……いや、大人として見守ろうと思ったから。
――勿論噂は、耳に入った。
<鎮魂歌>を辞めた後でも、時夜見鶏が空巻朝蝶を追いかけ、嬲っているという噂だ。
だが、俺は、それを信じる気すら無かった。
仮に時夜見の気持ちがどうであれ、少なくとも、時夜見鶏が出て行った時に、苦しそうな表情を見せた朝蝶を俺は信用していた。仮にそれが、空神と時神の間で、今も水平化で繰り広げられる競争や喧噪に関わっていたとしても、だ。いつか二人の関係が、恋として結ばれれば良いと、どこかで願う自分がいた。本心から、幸せになって欲しかったのだ。
そんな時だった。久方ぶりに、会議以外で朝蝶と会う事になった。
呼び出されたのだ。
基本的に俺への面会は、二ヶ月待ちで予約を取り、半年後くらいに顔を合わせる事になっている。
これでも一応、最高神だから忙しいのだ(判子を押すのが主な仕事だけどな)。
だが相手は、最も古く力のある神々――そうでなくとも、時夜見鶏を伴っていると聞いたから、俺は無理に時間を作った。
待ち合わせ時間には少し遅れてしまったが、俺は緊張しながら扉を開けた。
最後に邂逅した時の、時夜見鶏との気まずさも合ったのかも知れない。
そして――……「っ」
俺は息を飲まずにはいられなかった。時夜見の左手の薬指に、目が釘付けになる。
そこに填っていたのは、服従の指輪だった。
それは、従者が主人に贈るものだ――奴隷ではない証に。
だが、そんなものは建前だ。脅されれば、奴隷は指輪を填める以外の選択肢を持たない。
とはいえ名目上は、忠誠を誓った従僕が主人に贈るものだ。
奴隷がそんな代物を入手できるはずがないのだから、ある意味その指輪をしている時点で、奴隷であり、主人の命令をなんでも聞くという――聞かなければならないという枷がはめられた状態になる。それでもやはり、名目上は、従僕……奴隷が主人に贈ったものだから、その命令を聞くのは奴隷の意志だと言う事になる。この指輪は、指輪に込められた魔力以上の力が無ければ、あるいは主人が外さなければ、決して外れない。
ただ少なくとも、噂の媚薬でどんなに快楽に溺れようとも、時夜見鶏ならば、魔力の気配に自ずと気づくはずだ。きっと、填めたのは自分の意志だ。少なからず、時夜見もまた、朝蝶を思っているのかも知れない。ただ、そうだとしても、聞かずにはいられなかった。
「それは……」
気づけば俺は呟いていた。俺の声に、嘲笑するように朝蝶が笑う。
「時夜見は、僕に服従を誓ってくれたんです。聖龍、貴方ではなくて」
「なッ」
俺はその時、理解した気がした。本当に――蝶々は時夜見の事を好きなのだろうと。それこそ、隷属させてすら、手元に置きたいのだろう事を。それならば、あの時「綺麗だ」なんて暦猫に言った時夜見に対して、嫉妬をしてもおかしくはない。
「ね、そうだよね、時夜見。僕に、キスして」
「……ああ」
俺の前で頷き、目を伏せた朝蝶の頬に、静かに時夜見が唇を近づけた。
その時だった。
まるで朝蝶に悟られないようにするかのように、時夜見がこちらを一瞥した。それから何気ない風に、右の手首を朝蝶の髪に当てた。撫でるかのような仕草だったが、長袖が少しだけ落ちて、そして――……俺と時夜見しか知らない、牢獄で自害させないために隷属させる腕輪がのぞいた。あの腕輪を時夜見が自分自身ではめたとすれば、服従の指輪などより絶対的に効果が高いはずだ。息を飲みそうになった俺が唇を掌で押さえると、眼を細めて時夜見が小さく頷いた。そうでなくとも、あの腕輪を付けていれば、俺と時夜見に攻撃は出来なくなる。腕輪の主人は、時夜見鶏だ。
直後、朝蝶が目を開いたので、俺は、硬直しているのが分かるように演技し体の動きを止めた。眉間に皺を寄せる。あの行為が意識的にしろ、無意識的にしろ――だ、俺は、頷いた時夜見を信じようと思ったし、それで裏切られる事があっても構わないとすら思った。やはりきっと――時夜見鶏は、俺にとって、聖域という意味で、大切なのだ。信頼せずには、いられないのだ。
「悔しいですか?」
「……どういう意味だ?」
失笑している朝蝶を、俺は睨め付けるように見る。
「貴方の最強の右腕を取られて。時夜見鶏がいなければ、貴方は無力だ。僕に勝利する可能性を失って」
笑っている朝蝶に、俺もまた失笑を返した。
「私から言わせて貰えば、可哀想なのは貴様だ」
「? 何故ですか?」
「永遠に……愛される機会を逃し、愛の言葉を、本心を、聞く事が出来なくなったのだからな」
「な」
「隷属させられた相手に、本心から愛の言葉を紡ぐ者がいると思うのか? いくら快楽に堕とそうとも、その行為でもまた本心は聞けなくなる。意味も感情も伴わない愛の言葉を紡がれて、満足するのか?」
「べ、別に僕は……利用するだけのつもりですよ」
嘲笑するように朝蝶は言ったが、その瞳の奥に、俺は焦燥感を見て取った気がした。
「こんな事をしなければ――あるいは、時夜見もお前を好きと言ったかも知れないぞ」
「っ、そんな戯言、あるはずが……」
「恋に自信が無いのも、恥ずべき事ではない。ただ貴様は、永久にその機会を、自分自身の手で潰したようだがな」
俺の言葉に、朝蝶が顔を歪めて唇を噛んだ。
すぐ隣に立っている時夜見は、やはり媚薬でも盛られているのか、ぼんやりとしていて、視線が合わない。時折、苦しそうに吐息しているだけだ。
「そもそも私『達』は誰も、時夜見鶏に忠誠など誓ってもらおうとは思っていなかった。ただ側にいてくれればそれで良い、そんな仲だった。仮に時夜見が、貴様を好きだと言えば、きっと応援した。それは空神も時神も関係ない。そうした関係の未来だって、合ったはずだ。消し去り潰したのは貴様だ」
「そんな馬鹿げた事が――」
「馬鹿げていない恋なんて無い。愛は神をも狂わせる。貴様の愛もそうなのではないのか?」
俺がそう言うと、朝蝶が歯をキツク噛み、目を伏せ頭を振った。
「……ッ、帰ります。ご多忙でしょうから」
「そうか」
「次に戦う時は、時夜見が貴方を殺めるかも知れない」
「それが?」
「え?」
「時夜見が貴様を選び隷属した。殺される事もあるだろう。覚悟は出来ている。勿論死ぬ気は無いがな」
そう告げて、俺は立ち上がった。
俺は、多分――信じていた。
媚薬に体を侵されていても、時夜見は俺を殺めないと言う事――それは、世界が消えてしまうからではない。それだけの時間を、一緒に過ごしてきたからだ。
そして……朝蝶の、時夜見に対する愛を、だった。
>>聖龍暦:19500年(一億九千二百四十九年後)
新たに神が生まれれば、神界中にそれを識らせる鐘が鳴る。
無論暦猫の本(鏡のような頁の本だ。最前面には、最新の出来事が鏡に文字で映る)のように、だだ生まれたという事実だけが、響いていく。
「『新しい神が産まれました。二体です』」
誰が何をしたのか、そんな事は記載されない。
無機質なその声に、けれど神の気配を探れる俺は息を飲んだ。
生まれたのは、空神と時神が一神ずつ。
放つ気配から察しても――時夜見鶏と空巻朝蝶の子供だった。
俺以外に、いや俺ですら未経験の、神同士から生まれた子供。
――何故俺が神々と子を成すために交わらなかったのかと言えば、それは、暦猫に出会う以前だったからではなく、別の理由がきちんとある。
性別などが理由ではない。いくらでも女の人型を探せば良いだけなのだから。
違うのだ、違うのだ――……数多の神々や、土地を生み出してきた俺だから分かる。
新しい神を創造する時、その時は、本体の力を形にして、神産みをするのだ。
それでも俺ならば、すぐに力を取り戻せる。
だが本来、神同士では、本体から多大なる力を抜かれるため、神を生み出したら消滅してしまう事すらあるはずだ。意識を集中させ、俺は現場に意識を向けた。生きて動いてさえいれば、俺はその同じ時の場面であれば、まるでその場にいるかのように見ることが出来る。いつの間にか勝手に呼ばれるようになった、”超越”の力がもたらすものらしい(普段はさも思案している素振りで難しい顔で目を伏せ、人間同士の性行為を見るのに使っていたのだが、こんな風に役立つとは……って、そんな事を考えている場合じゃない!)。俺は目をしっかりと伏せた。
雪のように、黒い羽が舞っている。
一種荘厳なその気配に、俺は氷づけになったように、瞼の裏の暗闇の中で、目を見開いた。
それらの間を縫うように、まるで星の瞬きのように、濃紺の蒼い粉――恐らく鱗粉が舞っている。
最初の感想は――綺麗、の一言だけだった。
夜が覆い尽くした空に、蒼い星が瞬いている感覚。
冬の空気のように冷たく澄んでいるのに、雪のような、けれど蒼い粉が散る。
それすらも覆い隠すような黒い羽は、幼子二人を守るかのように包んでいて、次第に生まれた赤子に服を着せるかのように集まっていく。
――唾液を嚥下し、俺は自分の仕事を思い出して我に返った。
そこにはぐったりと半ば意識を落としてでもいるかのように、いつ消滅してもおかしくないような時夜見鶏がいた。その体を、朝蝶が支えている。
抱きしめるようにしてから、恐らく時夜見の上から体を離したのだろう。朝蝶が、壁に時夜見鶏を立てかけていたのだ。だがそれは上手くいかなかったようで、床へと時夜見が倒れる。
青白い顔をしていて、何度か咳き込んでいるようだった。
気配を探れば、朝蝶の方は、魔力を抜かれた気配がほとんど無いから、内部に時夜見鶏の男根を挿入して、無理に吸収したのだろう。あるいは空神族がずっと研究していたらしい、神々から力を無理に引き出す方法でも使ったのか。一方の時夜見は、人型を保っているのがやっとの様子で、相変わらず、時折黒い羽を降らせている。
意識を集中させていた俺は、不意に朝蝶の言葉を聞いた。
「もう君は用なしだ。僕の目的の一つは、空神の後継者を得ることで、それは達成された」
背筋が冷えた。だが、冷静な思考が言う。嘲笑するようなその声に、いつか俺自身も、空神が交わるとしたら同等あるいはそれ以上の時夜見鶏ではないのかと推測した事があるではないかと。冷たいかもしれないが、客観的に見れば、それはあり得る事なのだ。それに、他者の気持ちなど、本来は誰にも分からない。だから暦猫の鏡にも感情は表示されないのだ。だとすれば、朝蝶が時夜見を好きだなんて、ただの俺達の妄想だったのかも知れない。
その時だった。
「――お前は気まぐれで生み出した命かも知れないけどな、命は命だ。殺すなよ」
俺ですら初めて聞くような、それこそ夜の権化であり、この黒い羽のような、氷に酷似した声で、時夜見が言った。体力的にも音量的にも、呟くようなものだったはずなのに、それらは何もかも凍てつかせるように、絶大な威圧感と気配を持っていた。
意識を集中させ、その場の光景を見ていた俺ですら、体が震えた。
「っ」
だが、俺は、気がついた。
そんな俺の感想とは全く異なり、蝶々が泣きそうに笑っている事に。
息を飲んだ後に朝蝶は、何度も頷くと、二人の赤子を抱き寄せた。
それぞれの頬にキスをして、ついに静かに泣き始めた。
「時夜見は、本当に君達に、元気で……ッ」
声が掠れていた。
「そんなの、僕だって、僕だってさ……うあッ」
涙を拭って朝蝶が笑う。
「君達のお父さん……に、なるのかな、それとも僕が、お父さんなのかな?」
それでも止めどなく涙がこぼれてくるようだった。
「時夜見が死ぬかも知れないって僕は分かってた。そうしてあげられたら、逆に僕から解放されるのかもとすら、思ってたんだよ。だけど、だけど、君達を……一度くらい、抱きしめさせてあげたかった。きっと、きっとね、時夜見は僕の事を恨んでいて大嫌いかも知れないけど、君達の事は、きっと、本当に、あ、嗚呼、ッ、愛してくれたと思うんだ。本当に、本当に、あんなに強くて、なのにいつも僕には手加減してくれてね、それでね、それで、それなのに……馬鹿みたいに、≪邪魔獣≫は倒してた。でも本当は、それすら出来ないくらい優しいんだ。昔ね、鳥を助けてくれた事もあるんだよ。ふっ、あ、うぁ……あんな高級な魔法薬なんて、時夜見鶏しか、あの頃は生成できなかったのにさぁ。すぐに分かったよ。なのに瓶とか置いてって、本当馬鹿。本当、馬鹿なんだけど、凄いんだ……ッ、多分僕は、愛してる。勿論、君達のことも。なにせ僕と時夜見の子供だよ? 君達の事だって、愛してる。空の子は、誰にも負けないくらいに育てるし、だって僕の才能受け継いでるはずだから、後は、本当に自分勝手だけど、時の子は、強く強く生きられるように、それで時夜見が僕を忘れないくらい、僕に似た子供だったらいいな。だけどそんなの全部無くても良いから、幸せに生まれてきて欲しかったんだ。僕は、絶対、愛せるから、殺すわけなんて無いじゃないか。気まぐれなんかじゃないんだよ。直接なんて、絶対言えないけどさ」
こらえられない様子で泣いている蝶々の声を聴きながら、一番近い場所にいる愛犬天使に俺は≪念話≫で連絡した。
「≪すぐに、行ってくれ。俺もすぐに行く≫」
「≪分かった≫」
俺は、二人の姿に意識を集中させながら――……勿論、時夜見が消滅しないように気を配るため、だ――だから、視たまま、走り出した。途中転移もしたが、場所が近づきがたく魔法陣が無い場所だったから、その後は、走った。
その時、俺達よりも一歩早く、空神族が辿り着いたのが分かった。
「朝蝶様、これは――……」
すっかり涙を拭った様子で、朝蝶は柔和な笑みを浮かべ、その後は時夜見を嘲るように見据えた。もう何処にも、先ほどまで泣いていた気配など無かった。
「力量的には丁度良い相手だったから、籠絡したんだ。そうしていたのは、話していたでしょう?」
「は、はい……」
「僕を愛させたから、向こうの”魔法力”を奪い取って子をなした。僕の方には、力も残っているし、何の問題もないよ。僕が産んだとはいえ」
朝蝶が笑いながらそう告げて、空神の赤子だけを手に取る。
「僕の後継者だ。時神の赤子は殺すのもありだけど――力を吸わせて貰ったからね。生かしておいてみる? どうせ、もう時夜見鶏は戦えないくらい消耗しているし、あちらの時神はただの赤子だ。時夜見鶏には与えて世話する魔力なんて残っていないから、放って置いても赤子はすぐに死ぬ。それに赤子を助けたとなれば、空族の優しさもアピールできるしね。借りは作っておくに越したことはない」
失笑するような朝蝶の言葉に、おずおずと空神族は頷いた。
それから、床に倒れ込んでいる時夜見鶏を見据える。
「時夜見鶏は、いかが致しますか? 此処で、トドメを?」
「――それじゃあ、面白く無いじゃないか。精々苦しんで、死んで貰わないとね。ああ、哀願する姿も、絶望する姿も、楽しみだ。僕を孕ませたんだから、それくらい、時夜見鶏で遊んでも良いでしょう?」
クスクスと朝蝶が笑った。先ほどまでの悲愴を隠すように。
その様にして、空神族達と空巻朝蝶は、一人だけの赤子を連れて、帰って行ったのだった。
続いて到着したのは、愛犬だった。
「時夜見、時夜見鶏」
愛犬が駆けつけた時、時夜見鶏は、石の床に横たわっていた。
慌てて上着を脱ぎ、体にかける。俺はその姿に、少しだけほっとしてしまった。
その時、虚ろな瞳で、時夜見鶏が目を開いた。
「大丈夫?」
愛犬が問いかけるが、時夜見鶏から答えはない。
「すぐに、時神の者達が来るから」
その様子に、俺は一刻も早く到着して、消滅を阻止しなければと焦った。
意識しながら、そのまま石段を駆け上がる。
思いの外長い塔だった。
俺よりも少し早く――時神達が到着したのが分かった。
これで少しは、愛犬よりも魔法力が近い時神同士の力で回復させてくれるだろう、そう安堵した時の事だった。
「これは一体、どういう事だ」
怒りにかられた様子の、時神の長の声が響いた。時夜見の方が勿論年上だが、一族を纏めるという意味で、時神の中から長とされる者が生まれたのだ。なぜなのかTOPの座にいる朝蝶とは異なり、時夜見は彼に従っている。
それは、長が厳しい顔で時折を見据えた直後の事だった――……
「く」
時夜見の口から、声が漏れる。弛緩した体を何とか動かし紐を緩めようとしている様子だったが、それすら今の時夜見には出来ない様子だ。
朱い紐が何周も巻き付けられ、それぞれの端が強く引かれている。
あれは……『神殺しの紐』だ。時神に伝わる、犯罪者を消滅させる紐だ。戦時に考案されたのを知っている。作られたと聞いた直後に、廃棄するよう命じた覚えがある。
それで締め上げられた時夜見は何度か呻くような声を発したものの、どんどん瞳が、更に虚ろになっていく。
「ちょ――」
愛犬が声を上げようとしたが、時神の長は、それを遮った。恐らく、滅多に見せない愛犬の実力を知らないのだろう。
「これは時神の問題だ。下がっていろ――この、恥知らず!! 無理矢理孕ませるなど、それも敵たる空族の長を。勘当だ、お前は最早時神ではない。無論、そこにいる子供もだ。此処で、殺す」
それを意識の中で映る映像として視ていた俺は、漸くその場に辿り着いた。
やっと、辿り着いたのだ。
「止めろ!!」
俺が声を荒げると、皆の動きが一瞬止まった。
これでも俺は最高神だから、その威圧感と権威に、動ける者はいなかった。
それから、いち早く立ち直ったのは、時神族の長だった。
相変わらず憤怒にかられた様子で、俺を見ている。
「しかし、聖龍様」
何か言いたそうに声をかけられたが、俺も此処で退く気は無かった。それは、時夜見鶏の事を大切に思っているからだとか、空巻朝蝶の涙を見たからだとか、そんな理由じゃないと――自分自身を納得させる。あくまでもこれは、最高神である俺の決めた最低限のルールなのだ。
「神殺しは許されない」
「っ」
「去れ。時夜見鶏とその子の処遇は、私が引き受ける」
俺の言葉にあからさまな舌打ちが聞こえてきたが、そんな物は、どうでも良かった。
その程度で怒るほど、器が小さいわけではない。
「愛犬、俺は時夜見を運ぶから、赤子を運ぶのに手を貸してくれ」
「う、うん」
意識が無くなった様子で、床に倒れている時夜見を一瞥した。
直接手を握り、動かせる余裕が生まれるだけの力を送る。衝撃が少しでもあれば、体は崩れてしまうだろうから、なるべく力だけを送るようにした。その様にして、体の震動や転移魔法には堪えられるくらいになった様子の時夜見鶏を背負う。
「行くぞ。とりあえず、医療塔だな。転移が可能だ」
「けど、転移ってこの子は大丈夫かな?」
言われて俺は、じっと幼神を見据えた。
……なんだか、時夜見鶏が生まれた時に放っていた力を思い出したが、外見はあの時よりは大分幼い。一歳になったか、一歳半か、二歳か。そのくらいだ。申し訳ないが、俺はその年代の子供の世話などした事が無い。その為、魔力量だけ見た。
吹き出しそうになった。
今でこそ時夜見は消耗しきっていて、魔力がほとんど無いわけだが……――勝るとも劣らないほどの潜在魔力があった。いや、だが、使いこなせるとは限らないし、いくら強くとも、その能力に今後、本体や器が耐えきれない可能性もある。だがそれも今は、どうでも良い。まずは、時夜見が問題だ。赤子の方も、この潜在魔力なら耐えられるはずだ。
「恐らく大丈夫だ、行くぞ!」
「分かった!」
こうして俺と愛犬は、二人を連れて医療塔へと転移したのだった。
それから三年――時夜見鶏は目を覚まさなかった。
「見ただけで、確認はしていないのですが――……」
目を覚ましたという暦猫の報告に、俺は冷静を装いながらも歓喜していた。
だが何故なのか、暦猫の口調が重い。
「雰囲気からして、声が出ないようです。声帯には異常が見られないのですが」
思わず俺は腕を組んだ。
端正すぎて怖い容姿の上、表情があまり見えない時夜見だが、俺は知っている気がする。
アイツが結構繊細だと言う事を。
無理に子供を作られたからだ、とも考えられるが、それ以上に時神に首を絞められた事の方に、潜在的にショック受けたような気がする。あるいは子供が手をかけられそうになった事か?
「時夜見は……あの子を愛せるでしょうか?」
まだ、時神の子には名前がない。
だが不安そうな暦猫を見て思わず苦笑してしまった。
現在は暦猫と愛犬が育てているようなものなのだ。
俺は――……俺が知っている時夜見ならば、絶対に我が子を愛すると思う。自信があった。
「声が出ないとしても、暦猫ならとっくに聞いたんだろう、その問を」
「っ、はい……」
「時夜見は、頷いたはずだ」
「!」
「アイツは、自分の子供を愛する。間違いなく、な」
俺が言い切ると、暦猫が驚いたような顔をした。
「何故です?」
「いつか、お前にも分かる日が来る」
なんだかこの台詞を、久方ぶりに使った気がする。ようは、俺にも分からないんだ。ただ、ただ、俺は時夜見鶏のことを、信じている。だって、だ。俺達は、きっともう、家族なのだから。あちらには新しい家庭が出来たのかも知れないが。
まぁ、軽く言っちゃえばカンって奴かも知れないけどな。
その日、時夜見鶏は赤子を連れて、姿を消した。
暦猫も愛犬も必死で探していたが、俺は、それでもやはり、時夜見鶏の事を信用していた。だから、だからだ。そんなに必死に探さなくても良いと思っていた。時夜見ならば、大丈夫だ。俺は、信じると決めたのだから。
それから暫くして、愛犬から、居場所を見つけたと聞いたが、俺は何もしなかった。
俺はもう、時夜見鶏を、一人の大人神として扱うことに決めていたからだ。
何となく、何となくだが。
俺は時夜見鶏が、好きでもない相手と子供を作る事はあっても、あれほどの力を注ぐとは思えない。きっと、あの魔力量を見る限り、長い間体を重ねていたにしろ、相手が自分を好きじゃないと思っていたとしても。時夜見は、きっとあれだけの力を明け渡したのだから、そんな子供を愛していると、俺は何となく確信していた。あんな力、無理矢理では奪えるはずがない。
それは例えば、隷属させてまで、時夜見を側に置きたがった朝蝶の気持ちを悟った時に似ているのかもしれない。だがあの時、俺にあえて腕輪を見せた時夜見。あれは、俺を殺さない、強い攻撃をしない、という意味だけではない気がするのだ。自分自身が好きだから、あえてあの指輪をはめて、隷属するフリをしている――そんな決意に見えたから。だから俺は意地の悪い事をあの時、朝蝶に告げたのだ。
子供が大人になっていく姿は、なんだか寂しくて、空虚をもたらすのかも知れない。
勿論俺は神だから、子育て何てした事も無いし、ただの空想なんだけどな。
その後のある日、弱りきった時夜見鶏とその幼神――時神が神界で暮らし始めたと聞いた。
服従の指輪で、朝蝶が、無理矢理、時夜見とその子を神界に連れてきたと耳にしたのだ。二人は森で暮らしているらしい。
俺は、なんにも知らないフリというか、気づかないフリというか、気にしないフリという形で、ただ体調は考慮して、三師団分の仕事の依頼を書面でした。
返事はすぐに返ってきたがこちらも書面で、俺達は顔を合わせないままだった。
いつか、そう、いつか昔は――……俺は、時夜見鶏に会いたくて仕方が無かった。
だけど今は、違う。
自立したアイツを、見守ることが正しいと思うのだ。何時だって本当は過去を思い出して泣きすがりたくなるが、そんなみっともない姿は、やはり時夜見鶏の前では格好良くいたい俺には出来ない。第一、嘗て俺が時夜見鶏を育てていた(?)ように、今では時夜見鶏が、父親(?)としての役割をはしているはずだ。俺はあるいは祖父かも知れないが、きっと時夜見と俺の関係は親子ではないだろうし、やっぱり俺の中での聖域なんだ。
怪我が治らないと聞いた。
血が止まらないと聞いた。
咳が止まらないと聞いた。
本当はいつも、何時だって、心配で駆けつけたいんだ。だけど。
その状態でも、アイツは子供を育てている。何となく、何となくだけど、俺があいつの前で格好良くいたいように、時夜見鶏だって格好良くいたいんじゃないかと思う。
服従の指輪の効果が既に無いことを知っているのは、今だに俺と時夜見だけだ。それも媚薬が切れた今、時夜見が自覚していないわけがない。だから神界に来たのも、本当は時夜見の意志なのだろう。俺の仕事を引き受けているのも、多分子供を育てるためだろう。
「今日は、魔法薬をもう飲んだのか?」
俺は尋ねた。
その頃から、俺の依頼以外に、咳止めと血止めを飲ませて、朝蝶が戦場に時夜見鶏を連れ出すようになっていた。名目上は護衛だが、俺は本当は違う理由だと思っている。朝蝶が、自分が目を離している間も、三食後きちんと魔法薬を飲ませたいから時夜見を側に置いているのだと思っているのだ。ただ、本音を隠すように、単純に自分を守らせ戦わせるためだと、朝蝶は口にしているのだが。
――ただその日は、相手が悪すぎた。
世界樹から生まれた、≪新たな世界樹≫が二匹もいたのだ。
これは、俺が通常モードでなくとも、数撃を放たなければ倒せない。
普段の時夜見鶏だって、暫く時間を使うだろう。
はっきり言えば――空巻朝蝶には、まだ、戦うのは無理だ。一撃で死ぬ。
そう悟った俺が、待避を命じようとした瞬間、木の根の攻撃が跳んできた。
それも、最前線にいた、朝蝶に向かって。
「ッ――!!」
俺には、叫んで声をかける余裕すら無かった。
目を見開いた俺は、遠くにいたはずなのに、こちらまで跳んできた体液に濡れた自分を自覚した。
「え?」
その時、困惑したように、空巻朝蝶もまた、声を上げた。
遅れて響いてきた詠唱を、俺は聴いた。
≪闇焔夜≫――それはいつか、変な名前だと笑ったはずなのに、なのに、今だけは、悲しく思えた。笑おうと頑張っても、唇が無理に弧を描こうと努力したけれども、俺の両目は見開かれていた。それは、時夜見の持つ単発型の魔法の中でも、最も高威力を誇る、一撃必殺のものだった。一人で世界樹を倒すなんて不可能なのに、いくら俺達がHPを削っていたとしても、だ。だが――……それを時世見は成した。元々体調不良で、HPもMPもほとんどからだったはずなのに、だから血だって止まらなかったくせに、なのに、だ。
――そして、庇うよう朝巻朝蝶の前に、時夜見鶏が立っている。
そのまま、死にかけた≪邪魔獣≫の最後の足掻きのように、伸びた木の枝が、時夜見鶏の上半身を潰すように締め上げた。枝が、左の手首を締め上げて、ねじ切れた手がそのまま地に落ちた。キラキラと光る指輪。
「死んじゃ駄目だよ」
呟くように、朝蝶が言った。近寄って、朝蝶が抱きしめた時、透けるように光が溢れはじめ、宙に昇ってなお光るようにしながら、時夜見鶏の体が消えようとしていた。
嗚呼、消滅する直前の光景だ。
「命令だよ、これは、命令だ。死なないで」
しかしもう、土の上にある左手の薬指に填った指輪の光は失せ、目を伏せた時夜見鶏の口元からは、血が滴っている。
「どうして、どうして!? なんで僕なんか助けたの? そんな命令、してないのに」
泣き叫ぶように朝蝶が言った。
ただぼんやりと、眼前の光景を、冷静に俺は眺めていた。
――時夜見が死んだ?
そんな、まさか。
それが一番の感想だった。時夜見鶏は、誰よりも強かったのに、そのはずだったのに。
その瞬間だった。
「今日は、魔法薬をもう飲んだのか?」
俺の声がした。唇が動いているのが分かる。
――何処にも時夜見鶏の姿はない。
巻き戻っている、それも、恐らくは俺が今の発言をした時分には、まだ師団は動きを見せていない状態で。
唖然として朝蝶を見ると、こちらに歩み寄ってきた。
「流石に、聖龍様の記憶は、消せないか。巻き戻す時は、記憶を消せる魔法も、大抵の相手には使えるんですけどね。僕が記憶消去の魔法を使う事を、忘れてさえいなければ」
苦笑するような、そしてどこか暗い瞳で、朝蝶が、俺の耳元で囁いた。
「少し、席を外します」
「――基本的には、いくら巻き戻したとしても、この世の理は変わらない」
そんな事が可能ならば、とっくに俺が、そうしている。
なのだから、此処で空巻朝蝶の能力で、いくら巻き戻そうとも、いつか時夜見鶏は消滅する。俺だって、俺だって、だ! 時夜見が死ぬなんて現実は、到底受け入れられるわけがない。だけど、それでも。
「だけどそれは、きっと今じゃ無くなるし……時夜見が僕を守ったりしないでしょう? きっとさっきのは、僕が無意識に、僕を守れって服従の指輪で命令させたんだと思うから」
そう告げると、朝蝶は姿を消した。
何処へ行くのかと、俺は必死でそれを探す。指輪には、もう効果がないと伝えるために。
すると朝蝶が向かった先は、時夜見鶏と、その子供――朝時黒羽の家だった。
朝蝶が、無表情で言う。
「今日は、外に出ないで下さい」
時夜見鶏は、不思議そうに首を傾げていた。最近ではまた、暫く会っていないというのに、俺には、時夜見の表情が分かるようになっていた。
服従の指輪がキラキラと光る。
「……ああ」
頷いた時夜見を見ながら、俺は眉を顰めた。――とっくに効果は切れているんじゃなかったのか? アレは俺の、気のせいだったのか? まぁ、言われてみれば、神界へと指輪の力で呼び戻したとも聞いている。だが……俺にはやはり、それが時夜見鶏の優しい嘘に思えて仕方がない。
「戻りました」
転移で戻ってきた蝶々の声に、俺は意識で追うのを止めた。
「何をしてきたんだ?」
「幸せな……少なくとも、僕にとっては幸せな結末を、作ってきました」
苦笑するように、朝蝶が言う。
「二人で末永く一緒に暮らしました――が、終わりだろ?」
「聖龍様、人間界に毒されてますよ」
クスクスと朝蝶が笑った。それを見て、ああ、いつか時夜見と時神の子を置いて、空神族を見た時の表情とそっくりだなと思った。多分朝蝶は、立場もあるだろうが、哀しい時ほど笑うのだろう。時夜見は、その事を知っているのだろうか? 知っている気がする。とっくに気づいている気がする。ならば、朝蝶の未来を、能力で予知していそうなものなのだが――創世神・創造神・最高神である俺であっても、神々や人の死や消滅を変える事など出来ない。きっとそれが可能なのは、他の世界から干渉できる、それこそ世界樹の中にいたヒゲとハゲや、何らかの消滅回避の力を持つ異世界の神々くらいだろう。そして俺には、そんなツテはない。俺だって、全てを投げ出しても、時夜見鶏を助けたい気持ちは一緒だ。だから、だからこそ、何も出来ない自分が悔しい。何故コレまで、他の世界と交流を持たなかったのだろう。
それから再び戦闘が始まった。
最後に出てくるのが、≪新たな世界樹≫二匹だと知っているのは、俺と朝蝶だけだが、俺達二人がかりでも、恐らくは倒せない。
その時――≪新たな世界樹――≪邪魔獣≫が持つ、樹の根と、爪に酷似した物体が、朝蝶に迫った。そこまでは、先ほどと同じだった。
息を飲んだ俺は、静かに朝蝶を見る。
――己が庇われる前に、死ぬ気なのか?
すると慈愛に満ちた表情で、朝蝶は微笑んでいた。恐らく心から。聖母のように瞼を伏せて。
俺には駆け寄る隙すら無かった。
だが。
目の前に、≪邪魔獣≫の爪が迫っていた時、朝蝶が息を飲んだ。
伏せていた瞼が、ゆっくりと開き、それから見開かれた。
朝蝶の隣に転移したらしく、≪闇焔夜≫を放ったのとほぼ同時に、時夜見鶏は、朝蝶を正面から抱きしめていた。
「――……! 時夜見……? 時夜見! どうして」
驚いたような、蝶々の声が震えながら響き渡る。
≪邪魔獣≫の血や体液が、二人にかかり、汚していく。
腹部を貫かれた時夜見鶏は、明らかに人型を保つのがやっとで――そう、消えようとしていた。消滅だ。流れ出る赤い血液が、朝蝶の衣服を濡らしていくのが、遠目からでも見える。
「命令したのに……っ、え、なんで? なんで、指輪、してないの?」
朝蝶が泣くように言った。その声に俺が視線を向ければ、服従の指輪はそこには無かった。朝蝶の言葉から察するに、やはりとっくに時夜見鶏は、あの指輪の無効化に成功していたのに、それを朝蝶には伝えていなかったのだろう。
「時夜見、ねぇ……なんで、なんで、僕なんか庇うの?」
小さな声で朝蝶が呟いた。それを聞きながら、二度も庇われた朝蝶の事と、庇った時夜見の事を考える。なんで? そんなの、愚問じゃないか。
「それは――俺が世界で一番お前のことが大好きで、お前を愛してるからだろ?」
苦笑と言うよりは、余裕すらうかがえる満面の笑顔で、時夜見鶏がそう告げた。
俺は――ああ、時夜見鶏は、恋を知ったのだなと、感慨深いような、けれど消滅するのが哀しすぎて、泣きそうな、だけど笑って別れたいような、複雑な気分になった。
ゆっくりと、時夜見鶏の瞼が降りていく。
結局……俺はお前に、何もしてやれなかった。ただそれでも、家族だと思って、一緒にいたいと思って、時夜見の事を大切だと思っていたのは本心だ。
なのだから、嗚呼、時夜見に愛する人が出来た事を、俺は祝福しよう。
それくらいは、俺は時夜見鶏に、してあげたかった。
結局何も出来ないままだった俺だから。