弟子
”逆巻の塔”に、久しぶりに足を踏み入れたのは、街の雑踏を後にした三十分後のことだった。
嗚呼、肩が重い。
外套を脱いで壁に掛けてから、簡素な木の机の前に座す。
それから暫く頬杖をついて、ナノから受け取った教科書類を眺めていた。左手が痺れ、指の感覚がなくなっていく。一週間後から、正式に俺は教鞭を執る。
ふと思う、俺が外へと出ない間に、歴史は動いた。
俺の知る歴史は、既に神話と呼ばれるほど古いのかも知れない。
だが俺の中での神話は、魔術師の祖や火龍の魔術師達の記録だから、なんだか自然と苦笑が浮かんできてしまった。しばしの間、時に長い瞬きをしながら、俺は歴史をひもといた。そして思った。
――こんなはずじゃなかった。
どこで俺は間違ったのだろう。こんな現実が待ち受けていると知っていたならば、俺はもっともっともっと遥かに昔から引きこもっていただろう。弟子も取らなかった。恋もしなかった。後悔。
その時、扉をノックする音が響いた。
現在は、王宮の部屋の扉と”接続”しているのだったと思いだし、杖を振る。
城の部屋へと戻り、俺は咳払いをしてから扉に向かった。
「はい」
「――ちょっと良いすか?」
口調から、宰相だなと判断した。宰相自ら俺の部屋にやって来るというのも、随分と買われた物だなと思う。それとも優しさか。
「何か用か?」
告げながら扉を開けると、そこにはやはり宰相が立っていた。一人きりだ。共の者も、護衛の騎士もいない。危機感が足りないなと思う。仮にも一国の宰相だ。いつ暗殺されてもおかしくない立場なのだから、昨日魔法陣で召喚したばかりの見知らぬ人間の前に一人で来るべきではない。
「折り入ってお願いがありまして」
「なんだ?」
「立ち話では何なので……」
「入れ」
何事だろうかと思いながら、部屋へと促す。
すると寝台に座って、宰相が溜息を吐いた。
「何かあったのか?」
「実は……」
俺が問うと、言いづらそうに宰相が俯いた。
ざわりざわりと嫌な予感が広がる。
「頼むので、ニンジンだけは料理にいれないで下さい」
「――は?」
「俺、大嫌いで」
「……」
深刻そうな顔で宰相は告げるが、俺は一気に気が抜けて体が弛緩してしまった。
「後、ついでに、明日の魔術師協会の視察には立ち会って下さい。じゃ、また!」
宰相はそれだけ言うと帰っていった。
どう考えても、ついでにの方が、本題だろうに……。わざとか? わざとなのか? だとして、なんだその無意味な行動は。それにしても、視察にはつきあえそうもない。なぜならば、日中あったイワルがこの国を訪れた理由を察したからだ。視察に違いない。恐らく彼の口ぶりからすれば、俺の弟子が姿を現すことはないだろうが、万が一を考えると、どことなく気まずい。
仮に弟子に会ったとして、俺は一体何を話せばいいと言うのだろう。
さて翌日が訪れた。俺は今朝のサラダにニンジンをいれた。
それからあてがわれた私室に戻り、魔導具にヘッドホンをつないで、Jngle Blls〜と響く歌を聴いていた。古代語の一種で、冬に良く歌われる。明る気分になろうと思って聞いているのだが、曲が明るければ明るいほど、どんどん憂鬱になっていく俺がいた。理由は分からない。
その時ノックの音がした。俺は本日は居留守を使おうと決めているので、きっちりと鍵はかけてある。扉にはその他にも魔術で仕掛けをしたから、廊下からこの部屋にはいることは不可能だ。寒いから本日は外へと出る気にもならない。なんとなく、体調が悪い。石を噛み殺した時、俺は――ガラスが割れる音を聞いた。目を見開いて、ゆっくりと振り返る。
ヘッドホンが、音を立てて床へと落ちた。
「視察の時間すよ、そろそろ準備願いまーす」
窓を叩き割って現れたのは、宰相だった。
あの状況で、行かないと断ることが俺には出来なかった。仕方がないので、手持ちのローブのフードを深々と被り、俺は大広間に向かった。思えば未だ城の部屋など行ったことがない場所の方が多い。そんなことを考えていた時、後ろからフードを引っ張られた。
「何してんだよ?」
「っ」
懐かしい声音と息苦しさに、俺は思わず喉を押さえた。
フードが取れるのには構わず、俺は視線だけで振り返った。そこには――やはり、俺の予想通り、弟子が立っていた。
「お、おう……久しぶりだな……」
「久しぶり?」
「げ、元気にしてたか?」
弟子が深紅の瞳を細くした。金髪が揺れる。明らかに怒っている。俺を睨んでいた。
外見は不老不死になったので変わっていない。二十代半ばに見える。
あのころは、若かったんだよな……。
だが出て行ったのも連絡を寄越さなかったのも顔を出さなかったのもラーザだというのに、何故俺が怒られているような形になっているのだろうか。
ただ胸が痛んだ。
「三百年も頑丈な”鍵”をかけて、何人も立ち入れないような結界の中に閉じこもって何やってたんだよ、馬鹿師匠」
「――何?」
「何度会いに行ったことか……!! 俺の徒労を返せ」
そう言ったラーザは、俺の襟元を掴み、揺さぶり始めた。
……俺はそんなに強い結界を張っていただろうか?
いやでもそれにしては、あっさり俺はこの国に召喚されたぞ。色々とおかしい。
「ゼルディの協力がなかったら、どうなっていたことか……! イワルが決定的証拠を持ってきてくれなかったらどうなっていたことか……! この馬鹿野郎!」
「人を馬鹿馬鹿言うものじゃない」
俺は溜息を吐いて見せつつ、首を傾げそうになった。
イワルと決定的証拠というのは、恐らく杖のことだ。
しかしゼルディとは誰だ? 確かラーザの秘蔵っ子みたいな話しの人物だが、そんな人間俺は知らない。
「いえいえ、大したことも出来ず」
その時声が響いた。視線を向けると、へらりと宰相が笑っていた。
確かモエという名前じゃなかっただろうか? 俺が瞬きをしながら見守っていると、宰相が続けた。
「改めまして、聖ヴァルディギス王国宰相の、モエ・ゼルディ=サカザキと申します」
そうだったのかと考えながら、思わず俺は眉間に皺を寄せた。サカザキ……サカザキ? どこかで聞いた。どこで聞いた。何か、とても重要な名前であるように思う。
必死で想起しようとしながらも、なるほど召喚は意図されたものだったのだなと理解した。それはそうだろう。節約で俺が引っかかるのはおかしい。
「ネル様の孫弟子すね」
「……そうか」
「これまでの非礼お許し下さい」
「別に非礼を働かれるほど、長い時間を共にしている訳じゃない」
何せ昨日の今日だ。
ただ思えば、魔術師ならば、単独行動も出来て当然かと考える。
だが宰相職にあると言うことは、魔術よりも執務が出来るのかも知れない。俺には判断がつかない。そしてサカザキという名前は、やはり思い出せない。それよりも、だ。
「所で、ラーザ」
「なんだ?」
「俺に何か用だったのか?」
「ッ」
用もないのに呼び出されないだろうと質問すると、息を飲んで目を見開かれた。
その反応の意味をはかりかねた俺は、腕を組んでみる。
「――理由がなければ、顔を見るのも許されねぇのか?」
「なんだって?」
「あーあーあー、どうせ俺は出て行った、出て行ったさ」
「……ラーザ?」
「だからって、今もまだ怒っているのか!? いい加減、機嫌を直せ」
「何の話だ……? 別に俺は――」
「じゃあ何で引きこもってたんだよ!」
「特に理由は……ま、魔導書の執筆に専念しようと……」
「全部読んださ! 最高だった!」
少し俺は照れそうになった。だが、傷つくのが怖くて引きこもっていました、とは言えない。弟子の前では、多少なりとも格好つけたい俺がいた。
「痴話喧嘩はよそでやって下さい。それよりもネル様、今朝の朝食はどういう事すか?」
その時宰相が言葉を挟んだ。
俺はニンジンの存在を思い出した。本音だったのか……。しかし、それよりも……。
「ち、痴話?」
「黙ってろゼルディ」
反応した俺の前で、ラーザが声を上げた。
辟易しているのか、表情が険しい。
「やはり恋敵……!」
そこへイワルの声が聞こえた。
俺が視線を向けようとすると、ラーザが不意に俺の両肩に手を置いたので、驚いて顔を上げる。
「ネル。何も聞くな、気にすんな」
ラーザが俺をネルと呼んだ。思えば師匠と呼ばれるよりは、最後にあった頃は名前を呼ばれる方が多かったから、なんだかすんなりと心に響いた。
奇妙なほど、名前を呼ばれたことで懐かしさがこみ上げてくる。
ちょっとだけ泣きそうになった。
「……何がどうなってるんだ?」
そこに響いたウイ殿下の声に、俺ははたと我に返ったのだった。