氷雨




その後、ウイ殿下の事は、宰相が連れて行った。
そして俺は、ラーザに連れて行かれた――俺の部屋に。俺の部屋なのだから、連れて行かれたというのもおかしいかもしれないが。
俺は首もとを覆うインナーに手を当てて、口元まで引き上げた。ゆったりとした作りだ。それから服ごと唇を押さえる。
懐かしさに泣きそうだから――ではない。

「随分とまぁ小さい部屋をあてがわれたな。流石は節約の神様だ」
「……視察は良いのか?」
「名目に決まってんだろ」
「そ、そうか……そ、そうだ、俺はそろそろ昼食の準備を……」
「ネルにそんな事をさせられるか! ゼルディも何させてんだよ。というか師匠も断れよ!」

先ほどから何かと声を上げて怒っている弟子が恐ろしいからだ。
勿論怖がっているそぶりなど見せるわけにはいかない。そのため、顔を隠して誤魔化しているのだ。師匠の威厳というのは難しい……。尤も俺には、そんなものはなく、疾うに師匠の資格など失っているのかも知れないが。

――そもそもなぜラーザは出て行ったのだろう。

どうしようもなく聞いてみたかった。
あのころの俺は、自分の築いた”緑石の塔”に満足しきっていた。充実していた。もうラーザがいればいいと、それで満足していた節がある。ユニがいなくなったからではない。俺は知識を、後継者に残したいと、その時確かに思っていたのだ。
だが、この弟子には、それが不満だったのだと思う。そう漠然とは分かるが、具体的な所は分からない。けれど聞いて衝撃を受けて立ちなおる自信がないのだ。

「それで?」
「なんだ?」
「師匠はこの三百年、どうして一歩も外に出なかったんだ?」
「だ、だから……」
「もう偽りは良い。本当のところを言ってくれ。俺の気持ちに気づいて……」
「……いや」

寧ろ、俺は何にも気づくことが出来なかったのだと思う。
実際今も何の話をしているのか分からない。何故俺はこんなにもダメなのだろう。弟子の気持ち一つ分からないだなんて。嘗てはそれでも分かっているつもりでいた。

「俺は、塔を出たことを何度も後悔した。でもな、あの時はもう堪えられなかったんだ。一緒にいることに」
「そうか……」

随分と嫌われていたのだなと思う。俺は何かしてしまったのだろうか。

「師匠がずっとユニ導師の事を想っていたのは知ってる」
「!?」

その時思わぬ名前が飛び出して、俺は咽せた。何故ここでユニの名前が出てくるのか分からない。そもそもラーザはユニと会ったことなど無い。ラーザが俺の弟子になった時、既にユニは失踪していた。できれば、会わせたかったな。
しかし俺は、そんなことを考えつつも反射的に聞いていた。

「ど……ど、どういう意味だ……?」

動揺で声が震えたが、嫌な予測に行き当たったのだ。
もしやラーザは、俺が同性愛者だと気がつき、気味悪がって出て行ったのではないのか……嗚呼。そう言うことか。全てがすとんと胸の中に落ちてきた気がした。

「ラーザ、お前に迷惑をかけることは一切無い。誓う」
「ネル……」
「俺は家に戻る」

やっぱり俺は、引きこもり、人に迷惑をかけずに生きていくべきなのだろう。
食事の提供は……王宮と”逆巻の塔”を結んでいるから、計画通りできる。
問題は、教職の方だ。
申し訳ないが、ナノには断りをいれるしかないか。目を伏せて、俺は指をくるくると回した。羊皮紙と羽ペンが宙に浮かんだのが分かる。しかしペンを握る気力がなかったので、魔術でペンを動かして、謝罪の手紙をしたためた。

「そうか……って、行かせるわけがないだろうが!」
「……どうしてだ?」
「俺の気持ちが仮に迷惑なんだとしたら、抑えるから。もう抑えられるくらいには大人になったんだよ」
「いや……抑えるような強い感情を持っているのなら、それを持て余させたくはないんだ。お前の気持ちは分かってる。存分に発露させて良い」
「――え?」
「これまでお前の気持ちを分かってやれなくて悪かった」
「ネ、ネル……? 何を……? え? え?」

深々と俺は頭を下げてから目を開けた。
片手で羊皮紙を手に取りながら、それから首を傾げた。
――ラーザが赤面していたからだ。何事だ? 怒りに震えているのか?
何故謝ったのに怒られなければならないというのか。
それも、仕方がないことなのだろうか。

「ま、まさかの両思い……? いや、この師匠に限って……」
「両思い?」
「や、いや、なんでもない、何でもないからな!」

まぁいい、ラーザのことはよく分からない。分かっていたら、弟子が俺の元を離れていくことはなかったはずだ。


さてその日は、それから食事に行くことになったので、それ以上特に話しはしなかった。
手紙は――……出さなかった。
やはり直接言いに行くことにしたのだ。
俺が逃げないように、ラーザが同じホテルに部屋を取るからと言ってきたのだが、俺には逃げる気力も逃げる場所も特にないので断った。
食事は黙々と食べたのだが、俺はやはり会わない年月の間に弟子と溝が出来ている気がした。前以上に、さっぱりラーザのことが分からなくなっていたからだ。
ラーザはこちらを見ては何か言いかけて、そして黙る。
昔はもっと率直に何でも話してくれた気がするのだ。気のせいかも知れないが。


翌日になって俺は、朝四時頃目を覚ました。
固い寝台の上で、薄い毛布にくるまりながら、唇を噛む。今日は寒い。

「あ」

そして思い出した。サカザキ――サカザキ。そうだ、サカザキとは火龍の魔術師の碑文に出てきた名前だ。どこで出てきたのだったか。どの碑文に出てきたのだったか。
すぐにでも調べに出たくなり、飛び起きた。
だが、読み返す機会は多々あるが、宰相と話す機会は今後無くなる。
俺はシャワーを浴びてから、部屋を出た。宰相と話すのが先だ。そう思い、勢いで廊下に出てみたのだが――宰相の部屋が分からない。人気のない廊下で、俺は呆然とした。
探索魔術を使うべきか。
使おう。
思い立った時には、既に俺は使っていた。宰相の寝室をそれで探り当て、俺は転移魔術を駆使してその場に向かった。扉を見据え、指を握る。一度大きく吐息してから、ノックした。――出ない。出てこない。それもそうか、まだ早朝だ。だが……それでも俺は知りたい。どうすればいい? 分からなかったので、俺は必死で扉を叩いた。

「あーもーうるせー!」

その時勢いよく扉が開いて、俺は前に倒れた。正面には狼狽えた宰相の顔があり、そのまま勢いを殺せず、俺は宰相を押し倒す形で、床に激突した。

「な」
「わ、悪い」
「ちょ、重いんすけど」
「あ、退く、本当に悪い」
「悪いと思うんなら相応の謝り方をして下さいよ。謝ればいいってものじゃないです」

体を起こそうとした俺の腕を、宰相が引いた。
再度床に俺は激突しかけたが、今度は抱き留められた。
着やせするタイプなのか、思いの外力が強い。珍しい。魔術師かつ文官にしては、筋肉がありそうだ。俺も負けていない自信があるのだが、一瞬のことだったから、そのまま体を反転させられ、床に押しつけられた。鈍く頭をぶつけたので、目を細める。

「ネル様って結構俺のタイプなんすよね」
「……?」
「馬鹿そうなところが」

そう言うと宰相は、意地悪く笑い、スッと目を細めた。
どういう意味だ? 確かに俺はあまり頭が良くないだろうが……タイプだと?
まさかこの宰相、同性愛について以前殿下と語っていたし、俺の同類か……?
確かに俺はユニのことが好きだったが、男の経験など無い。はいそうですかと、謝罪代わりに体を差し出せるような余裕はない。そもそも余裕があろうとも、俺はそう言うのは嫌いだ。やはり愛がなければ行けないと思うのだ。それともこんな俺の思想は、もう古いのだろうか……。嫌、そんなことを考えている場合ではない。

「眠れ」
「!」

俺は即座に古代魔術の呪文を紡ぎ、宰相を昏倒させた。
すると俺の上にどっしりと体重がかかってきて、息苦しくなった。無理矢理俺は押しのけて、額を拳でぬぐった。なんだか汗を掻いてしまった。

火龍の魔術師のことは知りたいが、貞操の危機はごめんだ。
男でも貞操というのだろうか。
知らないが。

気分を切り替えようと王宮の外に出ると、霙が降っていた。通りで寒いわけだ。
俺は魔術でマフラーを取り出してそれを巻き、何とはなしに近場のベンチに腰を下ろした。
これからどうしたものか。

「あれ、ネルじゃないか」

その時声がした。その覚えのある声に、俺は前を見たまま目を見開いた。

「久しぶりだね、覚えている?」
「――フェンリル」

たった一人の友人の名を俺が呟くと、後ろでクスリと笑う気配がした。
そして一拍間をおき、後ろから抱きすくめられた。

「覚えていてもらい、嬉しいな。この国にいるって言うことは、君も……」
「ああ、ちょっと節約に」
「節約? 誤魔化さなくて良いよ。”魔術師の祖”に会いに来たんだろう?」

響いた言葉に俺は、硬直したのだった。