重力魔術
「――魔術師の祖は、どこにいるんだ?」
「私が聞きたいよ」
俺から手を離したフェンリルは、溜息を吐いた。
立ち上がった俺が振り返ると、手袋をはめ直しながら、友人は微笑した。
「力づくで良いかな? ”いつも”通り、今まで通り」
「再会して早々、か」
「不思議だね、君とはいつ会っても久しぶりだという気がしないんだ。互いに長い時間を生きすぎたね」
確かにそうかも知れないなと思った。
まだ蒼闇の靄が街を覆っている。俺達の間には、黒い鉄製のベンチがあるだけで、霙は地につく前に溶けては消える。
心がざわついた。
「そういえば、この三百年間、君は一体何をしていたんだい?」
「魔導書の執筆だ」
「まさかそんな退屈な作業だけをしていた訳じゃないだろう?」
「どういう意味だ?」
「旧世界について、何か分かったことがあったら、教えて欲しいなと思ってね」
その時周囲の音が消えた。
フェンリルの魔術だ。こいつが最も得意とするのは、音を操る魔術だ。
三半規管が異変を訴える。俺は、退くでもなくその場に佇み、右手を静かに地にのばした。
杖を出現させる。
月光石から削りだし、樅と組み合わせた杖を握る。
これは、ちょっと遊ぶ時用の杖だ。フェンリルだって本気ではない。
その証拠に、唐突に周囲にはピアノの音が散らばった。軽快なテンポに、けれど頭痛がした。俺は今、明るい曲を聴いて気分良くいられるような精神状態にはないのだ。聞けば聞くほど、胸が苦しくなっていく。氷がひび割れていくように、何かに亀裂が走り、そこに稲妻が落ちたように青い光が走る。杖を一回転させてから、俺はフェンリルにそれを突きつけた。
「頽れろ」
俺が呟くと、周囲の空気が震えた。
フェンリルを中心に丸く、地面が少しだけ陥没する。俺は大抵遊ぶ時、重力魔術を用いる。
手袋を填めた手を口元に挙げて、腕を持ち上げて、体の周囲に結界を展開し、フェンリルは衝撃を吸収した。そして地を蹴る。コートの端が翻ったのを見た直後、正面から蹴りをいれられそうになり、俺は杖で受け止めた。杖はバキリと音を立てて折れてしまった。
予測していたので体勢を低くし、膝を叩き込もうと試みる。
あっさりとかわされて、思わず吹き出した。
こんな戦いは懐かしい。そして自身の運動不足を嘆いた。息切れがしてきた。
「跪け」
今度は俺は魔導書を取り出した。
左手で分厚いその書を開き、右手の人差し指を立てて、中に魔法陣を綴る。
「魔法陣なんて久しぶりに見たよ」
「魔導書は見慣れているのか?」
「いいや。理論派が開いている所しか見ないけど――まさか」
「はは」
俺は思わず楽しくなって笑いながら、魔導書の角をフェンリルの腹に叩き込んだ。
「っ」
「痛いだろう? 重力魔術を仕込んであるからな」
「……ッ、そんな致命傷を与えるような凶器、まさか書店に流通させないだろうね?」
「まさか」
「それを作るために家にこもっていたと聞いたら信じてもいいかな」
フェンリルが地に片膝をついた。
俺は魔導書を閉じ、首を振る。
「さっさと教えてくれ、知っていることを全て」
「私が聞きたいんだよ。残念ながら私は何も知らない」
「魔術師協会の視察はそれが目的か?」
「……ラーザ君は、君を単純に捜していたんじゃないの?」
「まさか」
理由がない。俺が大きく自分の考えに頷くと、何故なのか視線を逸らしてフェンリルが作り笑いを浮かべた。呆れたような顔をしている。
「あんなにはっきりと態度に出しているラーザ君にすら答えないんだから、私だって自分の気持ちを表に出す気にはならないよ」
その言葉に、俺は魔導書を取り落とした。
――気持ち……?
「フェンリル……」
「ん?」
「俺って……同性愛者っぽいか?」
「え? どこが? むしろ逆だよね。ネルが同性愛者ならば、周囲はこんなに苦労していないと思うな」
「どういう意味だ?」
「自分で考える部類の疑問だとだけ言っておくよ」
フェンリルはそう言うと苦笑した。だが俺にはその苦笑の意味は分からなかった。
「それにしても久しぶりだね。今日はどんな風に過ごすんだい?」
「――王立学院に顔を出してくる」
「学院? 何をしに?」
「教職に就くはずだったんだけど、断りに行ってくるんだ」
「教職? 何それ面白そうじゃないか」
「は?」
「私もやりたいな。一緒にやろうじゃないか」
「だから俺は断りに――」
「家に引きこもっているよりは、学校の先生をする方が健康的だと思うけど」
「……」
「そう言う趣旨なら、ラーザ君も反対しないと思うな」
「それは……別に俺は、あいつの反対なんて関係なく……」
「後さ、教師になると言うことは、この国に堂々と滞在できるというメリットがあるよ」
「ッ」
「何かと伝承が多い国でもあるしね。調べることはまだまだ存在する」
確かにフェンリルの言葉には一理ある。
それから少し話しをした結果、フェンリルを教員に推薦するために学院に行くことになった。俺は、やはり教師になることにしたのだ。なんだか押し切られた気もする。
空が白くなってから、俺達はカフェで軽食を取った後、学院へと向かった。
「フェンリル卿……?」
「やぁナノ先生」
「ご本人ですか?」
「イエス」
朗らかに笑っているフェンリルを凝視した後、慌てたようにナノが俺に振り返った。
「……ネル……どういう事だ?」
「教師になりたいらしい」
「大歓迎だが、またどうして? と言うかどういう関係だ? やっぱりお前……」
「ん、あ」
「ネル様なのか?」
「あ、ああ、その」
「……握手してくれ」
俺が狼狽えた時、おずおずとナノが俺の手を取った。
そしてブンブンと握手された。それから大量の魔導書を、机の上に持ってきた。
「サインも頼む」
「いや、え?」
「大ファンだと言っただろう」
「……そ、そうだな」
そうして俺は、山積みの魔導書に一つずつ、サインをしていくことになった。
その前で、ナノがフェンリルに茶を出した。
見守りつつペンを動かしていると、魔術理論で盛り上がり始めた。耳だけ傾けながら、俺は自分の名前を書いていく。
このようにして、王立学院には、来週から俺の他、フェンリルも増えることになった。
さて、フェンリルは学院を探索するというので、俺は残して、一度王宮に帰ることにした。
徒歩で帰る。
すると、門をくぐってすぐ、ラーザと宰相が仁王立ちで俺を待っていた。
「どこに行っていたんだ、心配したんだぞ!」
「ネル様、俺ー、今朝寝ぼけてて、ネル様を押し倒した夢を見たんですけど、夜ばいに来ました?」
「ちょ、ど、どういう事だよ、ゼルディ」
「俺、寝起きすごい悪いんでいまいち覚えてないんすよね」
そんな二人のやりとりに俺は溜息が出た。過保護な弟子と、寝ぼけた孫弟子か。
「王立学院に行ってきた。来週から、フェンリル・ワイズ=サーヴァルトも教師になる」
「本当すか。やった」
「フェンリル卿と会ったのか!? 何もされなかったか!?」
「別に普通だった」
正確には戦闘じみた行為がかわされたが、あれはお遊びだ。
「それより今日は少し、”逆巻の塔”に篭もることにした。悪いが用があるなら今行ってくれないか?」
「――師匠、フェンリル卿”も”という事は、この国に仕えるつもりなのか?」
「ああ……まぁな」
「そうか、そんな気がしてたんだよな」
頷いたラーザは、それから宰相を見た。
「さっき話したとおり、暫く俺もこの国に滞在する」
「大歓迎です。宮廷魔術師の指導をお願いします。できればネル様にもお願いしたいんですが――食事と教職だけでも有難いんで」
「師匠は節約には不向きだと俺は思うぞ。寧ろ俺の方が生活力が……」
「節約の神は二人もいらないんで」
このようにして、俺の新生活を築く面々は、固まっていった。