【三】






 雨が上がり、本格的に春が到来した頃には、燃燈が終南山へと足を運ぶのは日常の一コマに変化していた。目的は選定仙としての話題だが、出迎える雲中子は最近ではお茶の他に酒や肴を出す頻度も増え、燃燈もゆっくりと滞在するようになった。

 元々、崑崙山を支える任を負っていた者同士という事も手伝い、仕事面の話題もつきなかったが、何より話が合った。元々穏やかに見える雲中子であるが己の意見は明確に述べるし、熱情的に思える燃燈の側は、きちんと他者の言葉を聞く耳を持っていた。だから、会話が尽きない。

 この日も燃燈が訪れた時、雲中子はリビングにいた。最近では燃燈は勝手に室内に入ってくる。それは雲中子が許可したからで、直前まで雲中子は研究室にいた。区切りがついていない時は、来訪した燃燈が一人で待つ事もある。

「っ、は」

 その時燃燈が、唇を片手で覆い、軽く咳き込んだ。何気なく視線を向けた雲中子は、小首を傾げる。

「風邪かい?」
「いいや、外が乾燥していてな」

 燃燈の言葉に頷いてから、雲中子はダイニングのテーブルの上から、小さなカゴを持ってきて、リビングのテーブルに置いた。

「良かったらどうぞ」
「これは?」
「喉飴だよ」

 雲中子の言葉を聞きながら、燃燈が飴を一つ手に取る。口に含むと、すっきりとしたブルーベリーの風味がする飴の、すっと喉が癒えるような感覚がする効果に、燃燈が驚いたような顔をした。

「美味いな」
「菓子ではないんだけどねぇ、きちんと薬効があるんだ」
「だが癖になる味だ」

 そう言って笑った燃燈の表情を見ていたら、雲中子の胸の奥が僅かに疼いた。一緒に過ごす空間が心地良くて、気が付いたら一日の中で燃燈について思い出す時間が増えていく。

 溶けた飴を燃燈が最後に噛んだ音で、雲中子は我に返った。
 何を考えていたのだろうかと、思わず顔を背けて赤面しそうになるのを堪える。
 本題を忘れるわけにはいかないと思いなおして、雲中子は細く長く吐息してから、燃燈の正面に座った。

「それで、玉鼎の件で話があるんだったかい?」
「ああ。玉鼎の説得がようやく叶った」

 燃燈が両頬を持ち上げる。
 二人の役目の一つとして、元始天尊からの依頼で、玉鼎に十二仙となる事を承諾してもらうべく、説得するというものがあった。専らそちらは燃燈に任せていた雲中子は、結果を聞いて静かに頷く。

「選定仙の役目も担ってくれるそうだ」
「それは何よりだねぇ。では、これからは三人で話す事になるのか」
「玉虚宮の小会議室を押さえておいた」

 ならば二人で話す機会も無くなるだろう、と。元々仕事上の付き合いなのだからと、雲中子は幾ばくか寂しさを覚えながら考えた。

「さすがに仕事が早いねぇ。選定仙の存在は秘匿すると聞いているけれど、会議の名目はどうするんだい?」
「仙気の研究としておいた」
「なるほど」

 頷いた後、雲中子は重ねて問いかける。

「燃燈自身は、どうするんだい? 迷っているのならば、それは結論が出ているという事ではないのかい? 私にはそう感じられるけれど」
「――最近、他に気にかかる事があってな。私の中で、そちらの迷いにも結論が出せる頃には、決断が出来そうだ」

 燃燈が透き通るような瞳をして述べると、雲中子が腕を組んだ。

「即断出来ない悩みが二つもあるのかい? 私で良ければ、聞くだけならば出来るけれどねぇ」

 思慮深さも感じさせる燃燈を見て、やはり第一印象とは異なるなと雲中子は考える。

「その気遣いが友情からのものであれば、嬉しくもあり悲しくもあるな」

 すると、ポツリと燃燈が言った。不思議に思って雲中子が首を捻る。

「どういう意味だい?」
「いいや。取り急ぎ、最初の会議の日程だが――」

 この日燃燈が迷いについて述べる事は無く、濁されたとは感じたものの、雲中子もまた追及はしなかった。



 選定仙の会議は、三ヶ月後と聞いていた。
 それまでの間、燃燈とはもう顔を合わせる事は無いのだろうなと漠然と考えつつ、雲中子は翌日の昼下がり、研究室でアンプルを振っていた。

「風邪ではないようだったし、ひくタイプとも思えないけれどねぇ」

 呟きつつ、何とはなしに新しい風邪薬を試作している。使う機会が来ない事が望ましいが、用意しておく事は有意義だ。午後はそうして過ごし、その品が完成したのは夜の八時を少し過ぎた頃の事だった。

 手を洗ってからリビングへと戻った雲中子は、そこのソファに座っている燃燈の姿を見て、短く息を飲む。

「燃燈? どうかしたのかい?」
「ん? どういう意味だ?」
「選定仙としての話し合いは、次は三ヶ月後と決まっただろう?」
「――仕事の話が無ければ、来てはいけないのか?」

 燃燈が片側の瞼だけを細くし、心なしか傷ついたような顔をした。無意識に首を振ってから、雲中子はテーブルの上を見る。本日は、燃燈の来訪を想定していなかったため、茶菓子も酒の肴も無い。

「勿論、来てもらって構わないよ」

 本心を続けた雲中子は、しかしながら内心で感じる、嬉しいという気持ちまでは告げなかった。胸の奥がドクンと疼いた事も、気のせいだとして片づけようと試みる。

 ダイニングへと一度向かい、本日は小皿に、ガラス瓶から取り出したミックスナッツを盛る。そして冷凍庫から丸い氷を、冷蔵庫からは炭酸水を取り出して、黒いトレーにのせた。強い杏の酒を割る予定だ。

「どうぞ」
「悪いな」

 燃燈の表情は明るい。酒を二人分作りながら、雲中子は何気ない風にその表情を観察していた。どうして燃燈の存在感が、脳裏を占めていくのか。答えを導き出すのが、怖くもある。

「雲中子」
「なんだい?」
「お前には、恋人はいるのか?」
「唐突だねぇ」

 内心を悟られたのかと一瞬狼狽えた後、他意はないはずだと雲中子は結論付ける。

「燃燈はモテるだろう?」
「答えになっていない」
「……いないよ。寂しい話だ」
「情人がいない事を寂しいと感じるのか?」
「まぁ人並にはねぇ」
「気になる相手や、好きな相手は?」
「それを聞いてどうするんだい?」
「聞いてはダメなのか?」
「まだ一口も飲んでいないのに、酔っているのか疑う程度には、燃燈の口から出てくるには意外な雑談だと思っているよ」

 そう返答してから、雲中子がグラスを燃燈の前に置く。気になっている相手に、好きな人間がいるかと問われる事は、正直心臓に悪い。

「どうしてそんな事を聞くんだい?」
「最近、何気ない瞬間に思い出す、いいや、ふとした時、考えている事に気づかされる相手がいてな。気を抜くと、その者の事ばかりを考えてしまう。会いたいと何度も考え、いざ会えば嬉しさがこみあげてくる――私は、これを恋だと考えている」
「そうなんだ」

 気になる相手に恋愛相談を持ちかけられる事は、反面胸が重くなるなと雲中子は気づいた。だが、友人関係が構築できたようである現在、昨日だって聞くだけならできると伝えたのは己なのだからと、雲中子は頷きながら耳を傾けていた。

「告白はしないのかい?」
「決して気持ちを押し付けたいわけではないが、この感情を抑え続けて一人で抱える事は困難だ。告げてしまいたい。そのくらい、愛している」

 愛――と、その言葉が燃燈の口から放たれた瞬間、雲中子の胸はいよいよズキリと痛んだ。けれど燃燈の幸せは祈りたい。兆しを見せ始めていた恋が、終わってしまうのは切ないが、失恋したとしても好きである事に変化は無いのだから、相手の幸福を願いたいと雲中子は思う。理性では、確かにそう思う。とはいえ、感情としては、やはり辛い。

「雲中子?」
「ん?」
「深刻そうな顔に変わったが、困らせてしまったか?」
「まぁ困っていないわけではないかな。私は恋愛相談をするに適した人間ではないからねぇ。恋愛玄人にはほど遠い。本当に、聞くしか出来ないんだ」
「――そう言う意味合いで聞いたわけではない」
「どういう事だい?」
「私の気持ちは迷惑かと尋ねたつもりだったのだが、思いのほか鈍いな」

 燃燈がこれまでと変わらぬ声音で述べた。雲中子は、最初その意味を理解できなかった。だが脳裏で何度か反芻した結果、目を見開いて思わず頬に朱を差した。

「それって……その、それは、その……燃燈? 君の好きな相手というのは、私だという理解で良いのかい?」
「そうだ」
「いつから……?」