【二】
その夜は、午後から降り出した小雨のせいで、春にしては少し肌寒かった。
「邪魔をする」
玉柱洞の玄関で雲中子が出迎えると、燃燈が顔をあげた所だった。僅かに雨雫で濡れている赤い肩布を一瞥し、雲中子が静かに頷く。
お互いに元始天尊の手伝いをする事が多かったので、当然顔は知っているし、何度か二人で言葉を交わし、打ち合わせをした事もあった。そうでなくとも崑崙山が成立した黎明期から共に昇仙し、仙人界にいる現在、双方相手の存在を認識していた。
だが、決して親しい友人同士といった間柄では無い。人間界で例えるならば、同じ集落で暮らす顔見知りの他者――そんな関係性と言えた。
「ようこそ。入ってくれ」
雲中子は燃燈を促してから、踵を返す。そしてリビングへと足を運ぶと、用意しておいた茶菓子を見た。その後に続いた燃燈が室内に入ってすぐ、雲中子はソファに座すよう手で示す。そうして己は対面する席に腰を下ろし、温かな珈琲を用意した。
「気を遣わないでくれ」
「そう言われてもねぇ。それに、もてなすか否かを決めるのは私だ」
口角を持ち上げて答えた雲中子が、燃燈の前にカップを置く。白い湯気がのぼるのを一瞥し、燃燈は小さく笑った。
「――それで、私に話というのは?」
切り出した燃燈を一瞥し、雲中子は己の分のカップを持ち上げる。
雲中子が燃燈に対し、時間を作って欲しいという伝言をしたため、白鶴童子に託したのは、三日前の事だった。その日雲中子は、元始天尊に玉虚宮へと呼び出され、十二仙を選定するための、選定仙という役について欲しいと請われた結果である。
燃燈もまた、選定仙と決まっていた。だが、雲中子に限っては、その燃燈自体も、説得対象であると了解していた。
「私は、君が十二仙に適任だと思うのだけれどね、燃燈道人」
雲中子もまた、用件を明確に、率直に簡潔に告げた。すると沈黙した燃燈が、良く引き締まった両腕を組み、思案するようにゆっくりと二度瞬きをした。
「私は元始天尊様の直弟子では無い。現状において、確かに私は、何かと崑崙山の運営に携わる事は多いが、その一つ一つの仕事を、元始天尊様の意図としては、今後は弟子に任せたいというお考えだと判断している」
「同じ見解だけどねぇ、まだその枠組みは形にすらなっていない。その段階と始動の時点においては、私は過去の仕事内容を知る燃燈が、道を示す事も重要だと考える」
「雲中子、それはお前もまた、同じだろう? 雲中子こそ、十二仙となり、内側から支えてはどうだ?」
「私と君では、担当する物事が異なる。燃燈の方が、十二仙としての職務――仙界の運営により適任だという考えだよ。それに私は師や桃源郷との繋がりを考えても、あまり深く崑崙山のみに関わるべきではないとも思っているしねぇ」
用意していた文言を、つらつらと雲中子は口から放った。己が燃燈の説得を暗に促されたように、逆もまたしかりだという自信があったので、最初に用意したのは断り文句だった。カップを傾けながら、それを聞いていた燃燈が、僅かに退屈そうな顔をした後、軽く頭を振った。赤い髪が揺れている。
「――この飲み物は、変わっているな」
「珈琲と言うんだよ」
目に見える形で話を変えた燃燈に、雲中子は両頬を持ち上げながら答えた。
同時に、燃燈が迷っているようだと判断する。もし仮に、本心から十二仙となる事が嫌ならば、明確に断言すると感じる。だがそうしないのは、燃燈本人こそが、内側から支えたいという想いがあるからだろうと推測できた。
「良かったら、こちらのクッキーもどうだい?」
お手製のアイスボックスクッキーを、雲中子が勧めた。物珍しそうに洋菓子を手に取り、燃燈が一口食べる。
「こちらは甘いな」
「ああ。珈琲によく合うと、私は思っているんだ」
「初めて口にする品ばかりだ。これらは、桃源郷由来の品なのか?」
不思議そうに訊いた燃燈を見て、雲中子が両頬を持ち上げる。
「ある意味では、そうなるのかもしれないねぇ。まだ私が道士だった頃、仙丹の生成について老子が語ってくれた事があって、その教えは飲食物、特に菓子類を作る事は、正確な計測などを必要とするから、役立つというものだった。その際に教わったレシピをもとにしているよ」
懐かしい記憶だ。夢の中で何年もの間、お菓子作りをさせられたと思ったら、目を覚ましたら現実では五分も経過していなかったという修行の思い出が、雲中子には存在している。
「違う文化があるのだな」
「そうなるね。私がそれを持ち込むよりも、こちらの空気を良く知る燃燈が、舵を取る方が、崑崙山は上手く進むように思う」
「……結論を、この場で出す事は出来ない」
「そう。じっくり考えると良いさ」
「雲中子、お前は絶対にやらないのか?」
「ああ、私はやらない」
この夜、燃燈は雲中子の決意を確認する事を、成果とした様子で、以後は茶菓子と珈琲の感想を述べていた。ほぼ初めてに等しい雑談に興じつつ、雲中子もまた、燃燈が結論を保留にしているという考えを知って事で、一定の成果を得たと考えていた。
そのまま二人は暫しの間、何処か探るように、けれど内容としてはたわいもない話を重ねて、そうして別れた。帰路につく燃燈を玄関で見送った後、雲中子は雨があがっている事に気が付く。
「傘を貸す必要が無くて良かったのか、悪かったのか」
仮に貸していたならば、取りに行くという名目で、次に顔を自然と合わせる事も出来ただろう。そんな風にも考えた雲中子だったが、必要ならばまた約束を取り付ければよいと判断し、リビングへと戻った。
――以後、二人は頻繁に、十二仙の選定の件で話をする事になる。
次に時間の捻出を持ち掛けてきたのは、燃燈の方だった。