【一】
「あー、道徳が何を考えてるのかさっぱり分かんない」
契機は、太乙のそんな何気ない一言だった。試験管を揺らしていた雲中子は、その時になって漸く太乙へと視線を向けた。
太乙と道徳が付き合いだして、早三ヶ月。
仙道にとっては瞬きをする程度の時間のはずだが、絶賛恋愛中の太乙にとっては日々が貴重で大切らしい。
付き合い……仙人としての付き合いはそれこそ道士時代からある二人だが、先日恋人同士になったと、聞いてもいないのに雲中子は報告を受けた。その際も試験管を揺らしていた事は覚えているが、話の内容の方は『漸く両片思いが終わったのか』程度の記憶しか無い。
「例えば何が分からないんだい?」
「気持ち。私の事をどう思っているのかとか、全部!」
他者が他者の全てを分かる事は困難だ、と、一般論として雲中子は思う。ただ同時に、ふと道徳について考えた。確かに道徳は、一見単純そうだが、その実話に良く耳を傾ければ暗愚で無い事は瞭然であるから、どんな思考回路を持っているのかというのは、雲中子も興味があった。
いいや、道徳に限った話ではない。他者が他者を分かる事が叶わないのは、相手の気持ちを推測できても、直接的に知る事が不可能だからだ。だが、不可能を可能にするのが、研究というものだ。
――もしも他者の気持ちや思考を知る事が出来たならば?
――そうだな、例えば聴覚的に聞こえるような感覚で……。
「雲中子? 聞いてる?」
「ごめん、新しい研究の草案を思い付いたから帰って」
「友達甲斐が無さ過ぎる、知ってたけどさ! じゃあね。頑張って!」
口ではそうは言いつつも、研究の邪魔をされるのを厭うのは太乙も同様であり、素直に太乙は雲中子の洞府から出て行った。見送るでもなく、雲中子は思索を再開する。
「他者の心の声が聞こえる薬」
一人きりになった洞府で、雲中子はポツリと呟いた。脳波などから読み取る手段と、仙人骨を持つ者が放つ仙気を利用する手段を検討し、その複合形態の飲み薬を試作した頃には、三年が経過していた。その間、何度か太乙か道徳、あるいは両方が訪れたが、『集中しているから』と洞府に上げる事もしなかった。
完成したのは、檸檬味の薬液だ。
「成功しているかの確認も取りたいから、質問紙と併用して……」
臨床実験について雲中子は考える。人体に直接的な害は無いが、人の心の声を聞くというのはプライバシーの問題や、他に実験台を用意してその人物が精神的打撃を被っても困ると判断し(誰かに嫌われていると知る事など)、雲中子は自分自身で試すと決めた。
「とりあえず、端緒は太乙が道徳の気持ちを知りたがっていたんだし、道徳の気持ちでも『聞いて』みようかねぇ」
一人呟いてから、雲中子は道徳を呼び出す事に決めた。通りかかった白鶴童子に伝言を頼んだ形だ。内容は、『暇な時に、研究に付き合って欲しい』というものだ。
「雲中子!」
さて、道徳はなんとその日の内に、終南山へと訪れた。玉柱洞のリビングに通した雲中子は、たった三年しか経過していないため、いつもと同じように口角を持ち上げた。
「やぁ、道徳。早速だけど――」
「研究は終わったのか!?」
「うん? 今、最終調整段階だよ。あ、このお茶は無関係だから、良かったら飲んで」
「おう」
道徳は頷くと、湯飲みを片手に取った。本当に無関係の玄米茶だ。走ってきたらしい道徳は、美味しそうに冷たいお茶を一気に飲み干した。
「それより雲中子。あ、あのな」
「なんだい?」
「……本当に研究だったんだよな?」
「どういう意味だい?」
「……」
雲中子が純粋に首を傾げると、珍しく道徳が沈黙した。それから僅かに苦しそうな色を瞳に浮かべた。あまり見た事の無い表情だったが、理由が分からず雲中子は腕を組む。白い袖が揺れている。言い渋る道徳も珍しいなと思ったが、それよりも雲中子は、研究の成果に興味があった。檸檬味の薬は既に摂取済みだ。効果は飲んで三十分後から発動し、一回につき二十分程度であるから、早く成果を知りたい。後三十九秒で、その三十分目となる。
「よく分からないけど、実験に協力してもらえるかい?」
「あ、ああ」
「この質問紙――要するにアンケートに答えて欲しいんだ」
自由記述形式の質問紙を、雲中子は道徳の前に置く。そして鉛筆を横にそっと並べた。道徳は頷きながら、すぐに鉛筆を手に取った。道徳には何度か被験者をしてもらった過去もあり、双方が慣れている。
『雲中子、いつも通りで気が抜けた』
その時、道徳の声音で、聴覚刺激とは異なる内容が雲中子の耳――どちらかといえば、脳裏に直接響いてきた。檸檬味の薬の効果が発動を始めたらしい。道徳の内心の意味は不明だが、実験を開始すべきなのは明らかだった。
「道徳、始めて。回答したく無い場合は無記入で構わない」
「分かった。終わったら――その、雑談に付き合ってくれ」
「良いよ」
雲中子は同意し、道徳を見る。真剣な眼差しで、道徳は質問を目で追っている。
【問1:貴方の名前は?】
その質問に、道徳は『清虚道徳真君』と記載した。心の声は、『俺の名前は道徳だけど、毎回最初はコレだな』と言っていた。確かにその通りだと雲中子は思う。
【問2:最近あった幸せな出来事は何ですか?】
回答は『紫陽花が綺麗に咲いた事』であり、心の声は『太乙とデートをした事』と返ってきた。意外と嘘を吐くんだなと、雲中子は素知らぬ顔で考える。とりあえず、太乙とは順調に付き合っているのだろうと思い、それは記憶しておいた。二人の関係に興味があるというよりは、次の被験者が太乙なので、その参考にするためだ。
【問3:最近あった不幸な出来事は何ですか?】
すると道徳の手が止まった。その為、先に心の声の方が聞こえてきた。『雲中子に避けられている事』――要約するとそうなる内容だった。雲中子は息を飲みそうになったが堪える。
避けていた記憶は無い。ちょっと三年ほど研究に耽っていただけだ。この研究が成功すれば、妖蘖未満の仙道候補の声を崑崙山の仙道も聞く事が可能になるから、人間出自以外の仙道も増える……かもしれないといった、当初のきっかけからは大分かけ離れているが、そんな夢想を抱きつつ、研究に邁進していただけだ。
なお暫く見守っていると、道徳が鉛筆を走らせた。内容は、『親友に避けられている事』と書いてある。そして心の声が再び響いた。
『雲中子を俺は親友だと思っているから、コレは嘘じゃ無い。実験には真剣に付き合いたい。けどな、直接聞くのは、この実験が終わってからにしよう』
そんな内容だった。雲中子は、思わず顔を背けた。気恥ずかしい。雲中子にとっても道徳は紛れもなく、大切な友人と言える。だが、本心から親友と思われていると知るのは、なんとも言い難い。
【問4:貴方に好きな人はいますか?】
続いての質問に、道徳は『はい』と記載した。胸中では、『太乙だ』と考えている。
【問5:貴方に嫌いな人はいますか?】
再び道徳の手が止まった。その結果、心の声が先に返ってくる。『尊敬もしてるけど、個人的には燃燈一択!』と考えている。意外な名前に、雲中子は驚いた。燃燈道人は十二仙の筆頭であるし、何か諍いでもあるのだろうかと、漠然と雲中子は考える。雲中子個人としては、長く崑崙山にいる同士なので、燃燈に対しては比較的好感を持っていた。
――熱血同士気が合いそうなのに意外だねぇ。
ぼんやりとそんな事を想いつつ、道徳が『特に無し』とまた嘘を記述したのを確認する。
【問6:もしこれらの質問の本心からの回答を、読み取られているとしたらどうしますか?】
最後の問題だ。雲中子は、道徳の横顔を見る。すると、道徳が目を見開いた。そして、すぐに心の声が聞こえてきた。
『燃燈だけはやめておけ! 俺、反対!』
……何が?
雲中子は口走りそうになったが、堪えた。それから道徳は、チラリと雲中子を見た後、鉛筆を紙に走らせた。
曰く――『俺は、雲中子には幸せになって欲しい』と書かれていた。
だから、どういう意味なのかねぇ? と、雲中子は首を捻る。
「終わった」
道徳がその時言ったので、雲中子は頷いた。
「有難う。これで実験は終了だよ。茶菓子を持ってくる」
「おう。お前の普通のお菓子は美味いから、俺は好き」
「お褒め頂き光栄だね」
雲中子はニヤリと笑ってから、一度キッチンへと向かった。そして用意していた饅頭を皿に載せてリビングへと戻る。すると質問紙を片手で読み返している道徳がいた。
「このアンケートからは何が分かるんだ?」
「結果が出てから話すよ。今は秘密だねぇ」
「そっか」
「それで、雑談って?」
饅頭の載る皿を道徳の前に差し出し、お茶のおかわりを注いでから、雲中子は質問紙を回収した。既に心の声は聞こえなくなっていた。檸檬味の薬の効果が切れたのだと分かる。
「あー、うん。あのな、その」
「煮え切らない道徳というのも珍しいねぇ」
道徳は、いつもはっきりとした物言いをする。それは一見何も考えていないようにも見えるが、それだけ思考の回転が早く、的確に言葉を導出出来るからだろうと雲中子は考えている。その程度の付き合いはあるという自負もある。
「……俺と太乙、付き合ってるだろう?」
「幸せそうで何よりだよ」
「……でも、その途端に、雲中子は『研究がある』って言って、俺達とお茶を飲まなくなっただろ?」
「そうだったかい? そんな記憶は無いけど」
雲中子は素直に答えたが、確かにタイミングとしては合致するかと思い直す。何せ太乙の一言が契機だったからだ。
「もしかして、気を遣わせてるか?」
「私が? 気を? 私にそんな愁傷な心がけや気遣いがあるとでも?」
「あるだろ。お前、気配り得意だろ」
「初めて言われたねぇ」
本心から雲中子はそう考えたが、道徳の瞳はどこか不安そうだ。
「俺は太乙が好きだ。でもな、友達としてだけど、雲中子も好きだ」
「うん」
それは檸檬味の薬の効果でもよく理解した。逆にそちらに照れてしまいそうなほどだ。
「また三人で、前みたいにお茶を飲みたい」
「――たかが三年、研究に集中していただけじゃ無いか。これが一段落したら、またいつでも遊びにおいで。多忙で無ければ、実験しながら話は聞くよ」
雲中子がそう告げると、道徳の表情が、目に見えて明るくなった。
「本当に、実験だったんだな?」
「嘘を吐く必要性を感じないねぇ」
「信じる。でも釘を刺しとくけどな、余計な気遣いは不要だからな?」
「分かったよ」
頷いた雲中子を見ると、道徳が両頬を持ち上げた。
さて、次の被験者は太乙だ。
「所で道徳。悪いんだけど、太乙にも協力を頼みたいから、暇な時に玉柱洞に来てくれるように伝えてもらえないかい?」
「おう、分かった。すぐに伝えてくる!」
そう答えてから、勢いよく茶菓子を口に放り込み、道徳が立ち上がった。雲中子は帰る道徳を見送りに出る。
「またな」
「うん、またね」
雲中子が微笑すると、道徳が笑顔を返してから走り始めた。
色々と有意義な時間だったなと雲中子は考える。質問紙の内容自体は、あくまで心の声との一致を評価するための材料であるから、あまり気には留めていない。
「まぁ燃燈の事が意外だったくらいかなぁ」
遠ざかっていく道徳の背中を眺めながら、雲中子は一人呟いた。