【二】
さて、太乙が終南山を訪れたのは、その翌日の事だった。こちらも行動が早い。事前に連絡があったため、雲中子は約束の時間に合うように檸檬味の薬を服用した。
「今度は何の実験なの?」
訪れた太乙は、最後に会った時と変化が無いように見えた。
「内容の開示は、研究終了後に希望者だけに行いたい」
「ふぅん?」
質問紙を受け取りながら、太乙が小さく首を傾げた。
『という事は、研究内容を知ると、この質問の回答に影響が出る場合があるのかな』
太乙の心の声が聞こえてきた。雲中子は表情を変えない。素知らぬふりだ。
『雲中子が心理学的な実験っていうのも珍しいけど』
実際それはその通りだった。医学や生物学とは異なり、心理学は推察が多いので、雲中子が主要な位置づけで研究をする事は少ない。
「太乙、始めて」
「分かったよ。終わったら惚気て良い?」
「好きにして良いよ」
雲中子が頷くと、太乙が小さく吹き出した。
『冗談だったんだけど、普通に流された。雲中子って、本当に雲中子だよね』
集中しろと言いかけたが、雲中子は平静を装う。
【問1:貴方の名前は?】
最初の問いを見た太乙は、くるりと鉛筆を回してから、『太乙真人』と記入した。心の中でも同じ事を思っている。
【問2:最近あった幸せな出来事は何ですか?】
それを見ると、太乙は流れるように『道徳との仲が順調である事』と書いた。しかし、心の声は違った。
『道徳情報で、雲中子に避けられてないって分かった事に決まってるじゃないか! こっちがどれだけ心配してたと思ってるんだよ! 本当に良かった。そして雲中子はやっぱり雲中子だった。研究って聞いて死ぬほどホッとしたよ!』
つらつらと聞こえてきたその内容に、雲中子は思わず腕を組んだ。そんなに心配されているとは、全く考えてもいなかったからだ。
【問3:最近あった不幸な出来事は何ですか?】
太乙は『特に無し』と書いた。雲中子はその後、『道徳にアイスを食べられたのは許せないかな』と続いた太乙の思考を聞いた。
【問4:貴方に好きな人はいますか?】
即座に、『道徳』と、太乙が記入した。そして『,』と書くと『雲中子』と記し、その後も『,』をつけて数人の名前を書いた。友人の名前が続いていく。確かに一人とは指定していないので、問題は無い。好きの種類も指定していない。
なお太乙は、内心では『まぁ道徳は恋人、雲中子は親友だから、この二人は別格だけどね』と考えていた。人付き合いを怠らない太乙ではあるが、意外とドライな側面もあるらしい。それは雲中子も常々感じていた事なので、特別視されて悪い気はしない。
【問5:貴方に嫌いな人はいますか?】
太乙がスッと片目だけを細くした。『基本的には興味を失うタイプだけどね、私も』と考えているのが分かる。
『雲中子もそうだと思うけど、またどうしてこんな質問を? 質問全体がそもそも幼稚というか……何の実験なのかな、というか、本当に実験なのかな? やっぱり実験だったというのは嘘で、私と道徳の事を避けていたのかな?』
そう考えながら太乙は、『燃燈』と記入した。考えている事とは著しく違うが、何故なのか道徳の回答と内容が同じである。
【問6:もしこれらの質問の本心からの回答を、読み取られているとしたらどうしますか?】
最後の問いを見た太乙が、ピクリと体を動かした。硬直し、数度質問文を読み返している。
『そういう事? それが実験の内容? 真面目に?』
完全に動揺しているのが分かる。太乙に隠し通すのは難しいかもしれないとは思ったが、雲中子は沈黙を貫く。
『だったら言わせて貰うけどね、心の中でだけど。本当に心配してたんだからね? それとこの後、失敗に終わってる場合に備えて口頭でも言うけど、私も道徳と同じ意見で、燃燈は反対だからね!』
太乙はそう考えた後、『成功していたら雲中子は天才だと再認識する』と記入した。
「終わったよ」
「お疲れ様。茶菓子を用意しているから持ってくるよ」
「その前に作用時間と、どの程度の効果なのか聞きたいんだけど」
「お茶でも飲みながらゆっくりと話そう」
「待って! 私、思い出したよ。雲中子は友達甲斐がありすぎた。私が言ったんじゃないか――『道徳の心が分からない』って。あの直後だ、君が研究の草案を思い付いたのは。つまり、雲中子の引きこもりは私がきっかけだったっていう事で合ってる?」
太乙はよく覚えているなと、雲中子は微苦笑しながら考えた。ただ答える事はせずに、キッチンへと向かって茶菓子と珈琲を持ってくる。そしてそれらを並べてから質問紙を回収した。
「雲中子、どうなの?」
「効果は二十分。あと一人くらいサンプルが欲しいから、この研究内容は口外しないでもらえるかな?」
「分かってるよ。言わない」
クッキーを手に取りながら、太乙が頷く。計量自体が得意であるから、雲中子はお菓子作りが上手いのだが、その中でも太乙は特にクッキーが好みらしい。心の声は既に聞こえなくなっているが、好きな茶菓子の種類は長い付き合いであるから熟知している。
「二十分っていうと、そろそろ効果が切れた?」
「うん。切れたみたいだねぇ。それで? 燃燈の何が反対なんだい?」
「――念のために聞くけど、被験者の予定に燃燈はいる?」
「別に誰でも構わないから燃燈でも良いけどねぇ。暫く会ってないし、呼び出す理由が無いのが難点だねぇ」
「暫くってどのくらい?」
「二十年くらいは顔を見ていないと思うよ。最後に話したのは、ええと……二百年は経っていないと思うけど、まぁ記憶が定かじゃないくらい前だよ」
寧ろ今回の実験が無かったら、その事実も忘れていたかもしれないし、燃燈を思い出す事も無かった気がした。雲中子は自分のカップに手を伸ばしつつ、そんな風に考える。
「燃燈さ、私と道徳が『雲中子に避けられてる』って言ったらさ」
「うん」
「『自分もだ』って言い出してさ」
「え? 私が燃燈を避けている? どうして?」
予想外の言葉に、雲中子は驚いた。素直に聞き返す。
「燃燈は、『異母姉様について語りすぎたせいだ』って言っていて、その後も三時間くらい竜吉公主について私と道徳に語っていたよ。雲中子の話だったはずが、九割公主の話にすり替わっていたかな」
太乙は遠くを見るような顔をしている。目が虚ろだ。
「いつも通りじゃないかい? 逆に燃燈が公主の話をしない方が私は不自然だと感じるけど」
「それはそうだけどね、私だったら、道徳に仮に姉妹がいたとして、ずっとその話をされたら嫌だし避けるよ。私といる時は、私だけを見て欲しいしね」
「それは君達の場合、恋人同士だからだろう?」
そもそも出発点が異なると感じ、雲中子は首を捻った。
「……」
すると太乙が沈黙した。そして探るように雲中子を見た。
「……雲中子ってさ、燃燈の事をどう思ってるの?」
「そうだねぇ、家族思いだとは思うけどねぇ」
「そうじゃなくて!」
「? 竜吉公主の話をしていたんだろう?」
「それはそうだけど!」
太乙はその後、非常に複雑そうな顔をした。
「私は反対だけど邪魔をする主義ではないから――っていうか説明がしがたいから、次の被験者には燃燈を推すよ!」
「そう? よく分からないけど、だったら呼んできてもらえる?」
「決して私はキューピットではないけど、感謝はしてね! 行ってくる!」
その後珈琲を飲み干して、太乙が立ち上がった。見送りに出た雲中子は、飛び去る黄巾力士を暫くの間眺めていた。