【三】
さて――燃燈が玉柱洞へと訪れたのは、それから三ヶ月が経過しての事だった。雲中子は、檸檬味の薬を少し改良しながら過ごしていた。効果時間が一時間に伸びた。燃燈を呼び出してもらった事は覚えていたが、十年以内に来れば良い程度に考えていた為、意外と早かったなと言う感想を抱いた。寧ろこの三ヶ月の間に、道徳と太乙は何度も終南山へと訪れたものである。
「いらっしゃい」
燃燈が玉柱洞のエントランスに姿を現した時、仙気ですぐに気付いた雲中子は出迎えに出た。考えてみると、この姿を見るのは久しぶりだなと思う。
「邪魔をする。私に用があると聞いた」
「うん、ちょっと実験に付き合って欲しいんだ。実験と言っても、簡単なアンケートに答えるだけで、そう時間は取らせないよ」
「そうか。実は私も雲中子に話がある。終わったら聞いて欲しい」
「良いよ」
同意し、雲中子はリビングへと燃燈を促した。そして燃燈の前に質問紙ではなくお茶を置いた。まだ薬の効果が発動していないので、時間稼ぎだ。
「なんなら燃燈の話を先に聞くけど?」
「長くなる」
「竜吉公主の具合が悪いとは聞いていないけど?」
「異母姉様の話ではない」
それ以外に長くなる話があるとすれば、それこそ研究の依頼くらいしか思い付かない。だとすれば、実験が終わってから聞く方が得策だろう。雲中子は時計をチラリと見た。その時、檸檬味の薬が効き始めた。
『私の会話の印象は、やはり異母姉様という事か』
燃燈の心の声が聞こえた。その通りである。
「燃燈、やっぱり先にこちらの実験への協力を頼むよ」
雲中子は質問紙と鉛筆を、燃燈の前に置いた。
「回答を始めて。答えたくない場合は無回答で構わないから」
「分かった」
こうして計画上、最後のサンプルである燃燈に対しての実験が始まった。
【問1:貴方の名前は?】
それを見た燃燈は、『燃燈道人』と達筆な字で綴った。書く速度と思考の速度が完全に一致していて、一文字綴られるごとに心の声が響いて聞こえた。
【問2:最近あった幸せな出来事は何ですか?】
燃燈の双眸が細くなった。表情からは、何を考えているかは読み取れない。ただ心の声として、『修行の成果を体感している事だ』と聞こえてきた。
【問3:最近あった不幸な出来事は何ですか?】
燃燈が目を閉じた。第二の問いに記入するようには見えないが、全ての設問を確認してから回答する可能性もある。順番は特に指定していない。雲中子がそう考えていると、燃燈の心の声が聞こえてきた。
『率直に言って、お前に忘れられていた事以外に挙げろというのか?』
雲中子は思わず顔を背けた。確かに忘れていたのは事実だ。燃燈はその問いにも何も記入せず、次の設問を目で追っている。
【問4:貴方に好きな人はいますか?】
これは竜吉公主で決まりだなと、雲中子は確信していた。しかし燃燈の目が据わった。
『お前がそれを聞くのか?』
……。
意味を図りかねて、雲中子は何度か瞬きをした。
【問5:貴方に嫌いな人はいますか?】
続いての質問を目にした燃燈が深々と吐息した。
『いっそ嫌いになってしまいたいと強く思っている』
雲中子は誰の話だろうかと考えつつ、これにも記入する様子が無いのを見ていた。
【問6:もしこれらの質問の本心からの回答を、読み取られているとしたらどうしますか?】
最後の質問に対し、『やはりそうか』と燃燈の内心が聞こえてきた。狼狽えたのは雲中子だ。ピクリと動きを止める。太乙が喋ったとは思えないので、だとすると燃燈は自力で気付いたという事だ。
『私には、特に仙気に干渉して心を読まれるような術は効かない。今、雲中子からは独特の仙気の感覚がする。それに即座に気付けた自分の修行の成果を私は誇っている所だ』
完全にバレている。なるほど、仙気側からの応用は、燃燈クラスの手練れには気付かれるという事か、改良の余地があるな、と、雲中子は現実逃避気味に考えた。
「燃燈、回答は――」
「全て無記入とする。私が相手では、参考にならないはずだからな」
「――そうだね。いいや、でも、結果としては改善点が見つかって有意義だったとも言える。協力有難う、茶菓子を持ってくるよ」
雲中子はさらりとそう述べた。燃燈は実験の内容を確信しているのが明らかなので、少しだけ気まずさを覚えた。恐らく名前の時点から、燃燈は気付いていたのだろうと雲中子は判断する。とすると、心の声として聞こえはしたが、燃燈は普通に話していたに等しい。
「それで、燃燈の話というのは?」
「最後に会った時、何を話したかお前は覚えているか?」
「ええと……竜吉公主の新しい薬の話じゃなかったかい?」
「確かにその話をした日だが、その後だ」
燃燈は不機嫌そうだが、それは実験が理由では無さそうだ。しかし二百年近く前の雑談を覚えているかと言われても、正直困ってしまうと言うのが雲中子の本音だった。
「申し訳ないけど記憶に無い」
「だろうな」
「一体どんな話だったの?」
「端的に言えば、私がお前に告白し、お前は承諾したぞ」
「何を?」
「私は好きだと伝えた」
「うん? 私も燃燈に対しては好意を持っているけどねぇ?」
気まずい空気だが、お互いがお互いを嫌いでは無いという話をしていて、そこは一致している。その為、雲中子には何故空気が気まずいのか分からなかった。
「付き合って欲しいと伝えて、雲中子は分かったと話していたが?」
「何処に? 竜吉公主に薬を届ける話をしていたのも記憶しているけど、確かに二人では行かなかったとはいえ、私は翌日一人できちんと届けたよ? 今も処方しているし」
「そうじゃない。告白して付き合うという話から、どうして異母姉様の話になるんだ?」
「燃燈の話の大半は、公主の話だからねぇ」
燃燈が重い息を吐いた。それからゆっくりと湯飲みを傾ける。静かにお茶を飲み込んだ燃燈は、それからじっと雲中子を見た。
「振るなら明確に振ってくれ」
「――要約すると、君は私の事が、太乙と道徳の間にある恋愛関係みたいな意味合いで好きで、恋人関係のお付き合いをしたかったと、そういう内容という事かい?」
まさかな、と、笑いながら雲中子は述べた。すると燃燈が少々乱暴に湯飲みを置いた。
『そうだ』
その時、不意に燃燈の心の声が復活した。驚いて雲中子は目を見開く。
「言葉で伝えても分からないらしいから、存分に心を読めば良い」
「え」
すると直後、燃燈の怒濤の感情が、雲中子に聞こえ始めた。聴覚的な音声とは異なる心の声だ。燃燈は目を閉じて、腕を組んでいる。その表情は険しい。
しかし感情は熱い。兎に角熱かった。好きだ、愛している、から始まり、何処が好きでいつ惚れたと自覚してといった熱烈な激情が響き始めた。呆気にとられた雲中子が、唖然とした顔をする。
長い生を送っているので、誰かに告白された事が無いわけではないが、こんなにもひたむきに、強く愛をぶつけられた記憶は、雲中子には無い。
それが五分ほど続いた所で、雲中子は時計を見た。薬の効果が切れるまで、後四十五分もある。
「ね、燃燈。分かった、君の気持ちは分かったよ。そ、そうだったのか。真面目に向き合わなくて、私が悪かったよ」
「……」
「もう十分だから」
「……」
「燃燈、待ってこれ以上聞いていたらなんて言うか」
しかし燃燈は沈黙したまま、思考を続けている。
いかに雲中子が好きか、どんなに好きか、会えない間の寂寞、振られる事は怖いが会いに行きたいと何度も思った過去、嫌われたのかという不安もあれば、避けられているという考えもあったし、『来訪の用件が異母姉様の事ばかりだったのが悪かったのだろうか』というような思考もあったが、それらはすぐにまた、雲中子への強い愛情の本流に飲まれて消え、兎に角好きだ愛していると当初に戻る。
好きで好きで好きで、雲中子が好きでたまらない。
兎に角そんな感情が、燃燈からずーっと響いてくる。
次第に雲中子は顔が熱くなってくるのを感じた。気付けば赤面し、それを見られたくなくて俯いていた。燃燈は熱い男だとは思っていたが、ここまで情熱的だとは誰も知らないだろうと思うくらいに、雲中子は己が愛されている事を知らされてしまった。
「燃燈、待って。これ、無理」
「……」
「もう聞いていられない、やめてくれ」
雲中子は無駄だと分かっているのに、両手で耳を覆ってしまった。しかし心の声は脳裏に直接響いて聞こえる為、止まる事は無い。
その後、薬の効果が切れるまでの間、雲中子は燃燈の熱烈な愛情を強制的に聞かせられ、最終的には完全に真っ赤になっていた。
「漸く私の気持ちが伝わったらしいな」
「十分すぎるほど伝わったよ」
「今後は、少しは私を意識してくれるか?」
「しない方が無理だよ。で、でもねぇ……ほら? 暫く会っていなかったし、思い出が美化されているとか、そ、その、今後また一緒にお茶でも飲んだら変わるかもしれないよ? 燃燈の側が」
「それはない」
断言した燃燈を見て、雲中子は頬を引きつらせた。しかしまだ、頬の紅潮は収まらない。鼓動が煩い。
「私と付き合ってくれるか?」
「すぐには思考がまとまりそうにないから、検討させてもらえない?」
「いつまで? 私は百八十二年と三ヶ月と十五日と四時間も待っていたが? それが三ヶ月前の時点で、太乙から伝言を受け取った時だ。その後は十二仙としての仕事があったから、落ち着いたらと今日まで苦しい日々を過ごしていた」
「う……――一ヶ月くらい」
「分かった。では、一ヶ月後に答えを聞きに来る。それまでの間も、お茶を飲みに来て、親睦を深めさせてもらう」
「う、うん。そ、そう。今は研究も落ち着いているしねぇ、お茶ならいつでも」
燃燈は頷くと、お茶を飲み干してから立ち上がった。
「私も丁度今は色々と落ち着いていてな。明日にでもまた来る。ではな。邪魔をした」
こうしてこの日、燃燈は帰って行ったが、気が抜けてしまって雲中子は見送りに出る事は出来なかった。