【五】





「そうか」

 燃燈は盃を手に取り、一口酒を口に含んだ。それからどこか遠くを見るような瞳をした後、雲中子に首だけで向き直る。ずっと会う事に怯えていたはずなのに、燃燈は言葉が溢れてきて止まらない事に、自分を制御出来ない事に、気づいていた。

「ならば、もう一度。始めさせてくれないか?」
「断るよ。生憎、私は現在平穏で、そこに恋愛感情や関係が入り込む余地は無いんだ」
「そうだとするならば、お前が再び私を見てくれるまでの間、何度でも伝える事とする」
「私のどこに一体惹かれているんだい? もう、昔の私と同一では無い。君の抱く私の姿は、あくまでも過去の存在で、幻想で美化でもされているのではないのかねぇ」
「いいや、雲中子の本質は、変わっていない」
「どうして言い切れるんだい?」
「この新しい洞府を見て、その空気感、気配、何もかもが、今のお前を教えてくれる」

 雲中子は口を閉じた。何も、言葉が紡げない。臆病で、会いに行かなかった事と、燃燈が来る日を想って洞府の様相を変えなかった事実が、胸の中に横たわる。燃燈に逢いたくて仕方が無かった感情と、再び失ったらと思い生まれる恐怖。

 雲中子から見ると、燃燈の道は、決して揺らがない。そうである以上、いつまた、『捨てられる』とも限らない。もう待つ事は、きっと出来ない。そうなれば、そんな日が訪れたら、きっと、壊れてしまう。歩みが停止してしまう。それらを思う限り、同じ土地で暮らし、同じ空の下にいる幸福だけを噛み締めている方が、ずっと心は穏やかで、幸せなはずだ。

「好きだ」
「っ」

 燃燈の率直な告白は、嘗てと変わらない。胸が揺さぶられる。
 息を呑んだ雲中子の肩に、盃を置いた燃燈が、そっと触れる。
 雲中子が視線を揺らして、燃燈を見た。その変わらぬ黒い瞳に、燃燈は真剣な顔をする。

 ――もう、手放しがたい。これまで、会いに来なかった己を呪う。

「本当は、私を待っていてくれたのではないのか?」
「自意識過剰なんじゃないかい?」
「ならばどうして、この酒からは、仙桃の味がしないんだ?」
「ああ、間違えたらしいねぇ」

 それは雲中子が用意していた嘘だ。蒟蒻の刺身とワカメの酢漬けの傍らに、そっとゼンマイを炒めていれた小鉢を置いたのも、ただの偶然であるフリをすると決めていた。

「やはりお前は、全く変わっていない。どうしてそう、気遣いをするくせに素直じゃないんだ?」
「買いかぶりだ」
「いいや、私には分かる。今お前が震えていて、泣きそうな顔を見ていたら、自分の行いを懺悔してしまった」

 燃燈がそのまま、雲中子を抱き寄せた。燃燈の腕の中に収まった時、ついに堪えきれなくなって、雲中子は瞳を潤ませた。

「馬鹿、馬鹿だよ、燃燈は。ずっと――待っていたに決まっているじゃないか」
「雲中子……」
「君が不在の間、何度探しに行こうか悩んだかも分からない。けれどねぇ、遺体を確認するよりも、どこかで生存している事を願っていたから、私は行動を起こさなかった。いつか君が、ひょっこり帰還するんじゃないかと、ずっと期待していたんだよ。けれどそれは夢想に過ぎなかったはずなのに、本当に帰ってくるとはねぇ」

 雲中子は燃燈の胸板に額を押し付けると、泣きながら唇の両端を持ち上げる。

「だというのに、これまで私を忘れてしまっていたように、一度も会いにも来ない。けれど私も会いには行けなかったから、おあいこかな」
「会うのが怖かった。私は怯えていた」
「それは私も同じだよ」

 根底が似ている二人。恋して脆くなった心も、同一だったらしい。

「新しく始め、前に進みたい。既に私達は、自分の手で未来を構築出来るのだから」
「そんな世界を創ってくれた燃燈を、私は誇らしく思っているよ」
「やり直したい。再び、私の恋人になってくれないか?」
「元々、別れたつもりなんて無かったよ」
「お前が先ほど、終わったと言ったんだろう?」
「燃燈が、そう考えていると思っていたからねぇ」
「私も終わったつもりは無かった」

 そんなやりとりをしてから、燃燈は、雲中子の白い顎を持ち上げて、その顔を覗き込む。あまり日に当たらない雲中子の白磁の肌をじっと見てから、唇を近づける。そして雲中子の薄い唇に、触れるだけの口づけをした。

 こうして、二人の新たな関係は、始まった。それは、再開では無かったのかもしれない。二人の心は、離れている間も、確かに繋がっていたのだから。



    【END】