【四】
燃燈が新しい玉柱洞へと訪れたのは、白い月が顔を覗かせた頃の事だった。
「やぁ」
雲中子は内心の葛藤など何も無い顔で、へらりと笑い、燃燈を出迎える。その昔と変わらぬ表情に、燃燈は細く吐息した。いいや、変わったのかもしれない。雲中子の表情は、少なくとも恋人だった時分に見せてくれていたような、甘さが欠落している。
まだ出会ったばかりの頃の、切磋琢磨しぶつかりあっていた頃のような、対角に位置する眼差しだ。根底の信念こそ通じていても、表面上の性格が、二人は根本的に異なる。
「邪魔をする」
「美味しい仙桃の酒があるんだ。太乙がくれたんだ」
「親しいようだな」
「昔は、私と道徳と、三人でよくお茶をしたよ」
その『昔』は、燃燈が地に落ちた後だ。燃燈が知らない雲中子の過去だ。
「この前、海藻を取りに行ったから、ワカメの酢漬けと蒟蒻の刺身を用意してる。燃燈と飲むのは久しぶりだねぇ」
「そうだな。いつも雲中子は、私が顔を出すと酒を振舞ってくれたものだな」
「忘れてしまったよ、私は何を用意していたっけ? 純粋に、仕事終わりだろうから、気付けに一杯と考えたのだけど、お茶の方が良かったかい?」
「酒で良い」
雲中子は、全てを忘れたフリをしようと決めていた。しかし燃燈が過去を覚えているという事実が、無性に嬉しくて、涙ぐみそうになる。
「玉柱洞の風景は、変わっていないんだな」
「元々、好みの造りにしていたからねぇ。実験設備も含めて、忠実に再現したんだ」
「ならば、二人で眺めた池もあるのか? 縁側に座り、月や星を見ながら、水の音を耳にし、楓を見た庭も」
「――庭も含めて再現したよ。しかし君も、よく覚えているものだねぇ」
燃燈の声に、雲中子は騒ぐ内心を抑える事に、必死になった。既にその場所に、座る布と酒盃は用意済みだった。二人でリビングを通り抜け、廊下に出る。何一つ、過去と変わらぬように見える風景が、そこにはあった。
「それで? 話って?」
揃って座して、少しの沈黙を挟んでから、雲中子が正面を向いたままで口を開いた。
「覚えて、いるか?」
「何をだい?」
「こんな風に、二人で酒を飲んでいたあの日、私が告げた言葉を」
「残念ながら」
雲中子は、本当は覚えていた。燃燈が指す『あの日』とは、二人の始まりの言葉だという確信があった。燃燈の声の調子は、普段は凛とし、毅然としているのだが、その時も今と同じ調子で、僅かに心細さが滲んでいるようだった事を強く記憶していた。
それは、告白の言葉、だった。
あるいは、その事であれば良いというのは、己の願望かも知れないと雲中子は思う。
しかし確かに、燃燈はその日の事を想起していた。
二人の始まりは、燃燈の告白からだった。
『好きだ』
と、簡潔に燃燈が告げたあの日も、月が白かった。
「では、また言わなければならないようだな」
「――燃燈。今更、何を私に伝えたいと?」
「怒っているか?」
「何に対してだい?」
「何も言わなかった事を。姿を消した事を。そして――これまで会いに来なかった事を」
「いいや、全く。全然気にしてもいなかったよ。なにせ、君の事は忘れていたからねぇ」
本当は。
確かに傷つき、悲しみ、惨めだと感じ、辛かった。だが、怒りが無かったのは、事実だ。ただ己の事を不甲斐なく思っていただけだ。
「私は、雲中子が怒りであっても、私について考えてくれていたら良いと、ずっと思っていた」
「自分勝手だねぇ。私の頭を占める自信があったというのも、驚きだよ」
嘘だ。ずっと燃燈について考えていた。今も、考えている。しかし、これ以上傷つく事は、怖い。もう、終わった関係なのだと、知りたくない。耳を塞いでしまいたい衝動が、雲中子を苛む。
「もう、私達は」
けれど、雲中子は震えそうになる声を必死で制しながら、自分から告げる事を選んだ。
「終わっているだろう?」