【三】






 ――結局その後、更に三十年の刻が経過する。

 蓬莱島に仙道が息づき、人間界へと干渉しなくなり、九十年。
 燃燈と雲中子が顔を合わせる事は、一度も無かった。あるいは互いに会いたいという思いがあるのに、無意識に避け合っていたのかもしれない。関係性が変わってしまっている事が、お互いに怖かったのだろう。

 自然消滅。
 そう表現するしかない過去を抱く二人は、それでも同じ空を見上げる日も多い。
 空は繋がっている、どの場所からであっても。

 原因は、明確に燃燈にある。だが、燃燈に、過去の選択への後悔は無い。それが、雲中子の生きるこの世界の自由の為にあると、感じている。大切な一人、大切な多く、大切な皆が、明日を己の手で切り開く事が出来る幸福への一歩だったのだから。

 雲中子とて、燃燈の選んだ道を、糾弾する気など無い。燃燈でなければ成せなかった事があるのだと、しっかりと理解している。

 そんな二人が顔を合わせるに至ったのは、実に偶発的な場面においてだった。その日、雲中子は、太乙に呼び出されて、新しい――と、言っても既に構築されてから暫くの刻が経過している洞府にいた。そこへ、始祖の残したスーパー宝貝を模した品の新規作成依頼に、燃燈が直接出向いて来たのである。アポイントメントが無かった事もあり、太乙は僅かに驚きながら、燃燈を迎え入れた。

 懐かしい仙気に、雲中子も燃燈が、太乙の洞府のリビングで一瞬、互いに硬直した。しかし雲中子はすぐに普段の飄々とした表情に戻ったし、燃燈も澄んだ瞳で用件を告げた。

「――という事で、年内には一定の成果が欲しい」
「う、うーん。約束は出来ないけど、私もその提案は魅力的だと思うから、取り組ませてもらうよ」

 そう答えた太乙は、それから資料を取りに行くと述べて、洞府の奥へと消えた。そうして、雲中子と燃燈が残された。何気ない風を装って、燃燈が雲中子を見る。視線に気づいた雲中子は、顔を上げると、ニヤリと笑った。

「相変わらず、多忙そうだねぇ」
「――ああ。まだまだすべき事は山積みだからな」

 燃燈の声に、雲中子は軽く首を肩へと寄せてから、小さく頷いた。
 なんという事も無い、ただの雑談。
 そこに二人が共に思い出している過去の気配は、どこにも無い。

「……」

 すぐ、目の前に、手の届く位置に、雲中子がいる。その事実に、燃燈は表情を硬くした。だというのに、どのように声をかけていいのか分からない。雲中子の世界に、己がまだ存在しているのかが、非常に怖い。

 一方の雲中子は、安堵していた。上手く、雑談が口から出てきた、その事に。
 過去、何度も繰り返し考えてきた。どのような顔で、再会すれば良いのか、それを。
 笑顔を浮かべる事が出来るのか、平静な対応が出来るのか。

「資料、あったよ!」

 そこへ太乙が戻ってきた。揃って二人が視線を向ける。それからすぐに、雲中子が珈琲を飲み干して、カップを置いた。そうして立ち上がる。

「そちらの大切な話は、長引きそうだねぇ。私はお暇する事にするよ」
「ごめんね、雲中子。また今度」
「ああ、私は大概暇だからねぇ」

 雲中子が太乙に対して、口角を持ち上げ頷いたのを目にした時、反射的に燃燈は唇を動かしていた。

「雲中子」
「なんだい?」
「お前にも話したい事があるんだ。今度、洞府へ出向いても構わないか?」

 燃燈の言葉の意味を、この時、雲中子は図りかねた。
 ――話?
それは、過去の事なのか。はたまた、太乙へと告げたような、事務的な用件なのか。後者であるならば、断る事は躊躇われる。漸く、己にも、出来る事、存在意義が生まれるのかもしれない上、燃燈と再び、それが知人や友人という名であっても関わる事が可能になるからだ。けれど、違ったら? 過去の清算をしたいという内容だったら? 今もまだ好きな、持て余しているこの気持ちの行き場は、果たしてどうなるのか。

 なにせ、疑問形だ。大切な用事があるならば、燃燈は『行く』と断言するはずだ。

「断るよ。私も、これでも多忙でねぇ。太乙とはその研究成果について語り合うという関係にあるけれど、君に話しても理解してもらえるとは、到底思えない。燃燈道人、実験の邪魔をされる事を、私は厭う。太乙に対して伝える『暇』は、一般的な意味合いじゃないんだよねぇ」

 雲中子はいつもよりも口早に、冷淡な声音で、そう述べた。ただ話す事が怖いだけだというのに、我ながら冷ややかすぎる言葉となってしまった事に、内心で動揺していた。

「そうか」

 燃燈は、雲中子の返答に、目を伏せ、小さく頷いた。覚悟していた言葉だったから、納得も出来るという理性、諦観を抱く感情、それらが浮かび上がってくる。

 そんな二人のやりとりを見ていた太乙は、小首を傾げた。
 太乙は、燃燈と雲中子の過去を知らない。だから、単純に、雲中子は燃燈を嫌いなのだろうかと思案した。だが、これまでに雲中子がこのように、明確な拒否を示した姿を見た記憶も無い。ならば、逆に執着している可能性。

「雲中子。多忙な燃燈が、お伺いを立ててるんだから、ちょっとくらい良いんじゃないのかい?」
「太乙……」

 余計な事を言い出したなと、雲中子は片目を細める。しかし太乙は、それには構わずに続ける。

「大体、私と雲中子だって、確かに実験の話もするけど、ほとんど雑談じゃないかい?」
「それは……」
「あと、燃燈も燃燈で、燃燈らしくないよ。行きたいなら、行けば良いのに」

 太乙の声に、燃燈は長めに瞬きをすると、溜息をついた。恋は人を臆病にする。恋情は、時の経過と共に、薄れる事もある。けれど燃燈が内に秘めた想いは、未だ強すぎる。それを雲中子が受け止めてくれるとは、限らない現実が怖いのだ。だから、簡単に言ってのける太乙に対し、溜息しか出てこない。

 だが、そうであるからこそ、雲中子を目にした現在、声をかけてしまったのだ。

「雲中子、今日は一日中暇だって言ってたじゃん? 燃燈、私に対する用件が終わったら、そのまま雲中子の洞府に行ったら? 思い立ったら、即実行!」

 太乙の声に、二人が押し黙る。そんな二人の間に漂う空気に、太乙は何か重要な会話が成されるのだと推察していた。仮にそうでなくとも、二人の間には、何か深刻な話題があるのでは無いかという直感があった。

 ――先に洞府へと戻った雲中子は、眉を顰めて、テーブルを無駄に殴りつけていた。鈍い音がした。痛むのは己の手であるのだから、馬鹿げている。

「太乙も、本当に余計な事を……何を話せば良いっていうんだろうねぇ」

 現在、雷震子は一人で暮らすようになったから、この新しい玉柱洞には、雲中子しかいない。つまり、今宵は燃燈と二人きりで会話をするという事だ。

 先日太乙にお裾分けされた仙桃から精製された、甘い果実酒の瓶を見る。他の酒は、燃燈が嘗て好んでいた、少し辛口の米の酒だ。今もなお、来ないと、来て欲しくないと、そう考えているのに、雲中子はその米の酒を切らせた事が無かった。どこかで本当は、待っていたのだから。

「燃燈は、ゼンマイが好きだったけれど、今も私がそれを――同じ味がする山菜を、この山に群生させていると知ったら……なんて言うかなぁ。未練、たらったらだよねぇ、私は、それじゃあ。好みなんて忘れてしまったフリをするべきなのか、それとも変わらない私を演出すれば良いのか――どちらにしろ、もうそろそろ、終わらせるべきなのだろうねぇ」

 想いに終止符を打つべきだという考えを、雲中子は数年前から抱いていた。それでも、燃燈の事を想い、同じ土地で過ごしているだけで、嬉しくてならない。

 雲中子は、確かに傷ついた。燃燈が不在の期間、何も無くなってしまったかのような喪失感に苛まれ、何度も苦しくなった。それでも忘れず、どこかで生存を望み、そしてそれが叶った――だというのに、素直に会いに行く事も出来ずにいた、惨めな自分。