【二】





「燃燈様」

 楊戩が燃燈に声をかけたのは、執務が一段落した時の事だった。先に書類仕事を終えていた燃燈は、窓際に立ち、外を見ていた。

「いつも、同じ方角を見ておられますね」

 そんな楊戩の指摘に、燃燈は僅かに息を呑んでから、微苦笑した。珍しい表情を見たなと楊戩は考える。既に新教主となり相応の時間が経過していたから、雑務にも慣れてきた所だった。

「少し……会いたい者がいてな」
「今は急ぎの仕事もありませんし、そう言う事でしたら、午後から休暇を取られては?」

 日常的に燃燈は同じ方角を見ているから、急な用件では無いのだろうと楊戩は判断する。だが、きっかけが無いという事ならば、促すくらいは良いだろうと考えていた。楊戩のそうした計らいに、燃燈が目を伏せる。

 率直に言って――顔を合わせる勇気が無いのだ。
 その相手は、この蓬莱島で、同じ場で暮らすようになってから、一度も己を訪ねてきた事すらない。あるいは、その相手……雲中子にとっては、自分はその程度の存在であり、過去、共に過ごした事など、忘れてしまっているのではないか。燃燈にしては珍しい躊躇い、戸惑い、それらが胸中にある。

 恋人だった、そんな相手。
 しかしながら、顔を合わせようにも、用件が無い。理由をひねり出さなければ、ただ邪魔をするだけの結果となるかもしれない。しかし嘘はつきたくなかった。単純に、純粋に、言葉を交わしたいだけだという感情に。

「気遣いは有難いが、火急の用件があるわけでもない。午後は、明日の分の書類に取り掛かる事とする」