【一】





 崑崙山2――最後の戦いを終え、蓬莱島において新たな洞府を構えてから、雲中子には平穏な日々が戻ってきた。無論、終南山ほどとまではいかないが、新たな玉柱洞の周囲にも自然はあるし、何より地表に近い蓬莱島の生態系は興味深いものが多い。

 雷震子は、新しい仙人界の見回りを担当している。そして変化として、新しい洞府に帰宅するようになった。雲中子が出した食物に手をつける事はあまりないが、代わりに……寧ろ食事の用意をしてくれる。

 そんな、日常。


「ん」

 ある日雷震子が帰宅すると、誰かの気配がした。独特の仙気とでもいうほか無いから、その来訪者が誰なのかはすぐに悟った。

 燃燈道人。あっさりと敗北した記憶は、まだ古くは無い。少なくとも、雷震子の中にあっては。しかし、何故ここに? 己に用件だろうかと思案しながら、雷震子は玄関を抜けて、居室へと向かった。

「ああ、おかえり」

 姿を現した雷震子に気づいた雲中子が顔を上げる。その場には豆の良い香りが漂っていて、珈琲の浸るカップが二つある。雲中子とテーブルを挟んで対面する席には、雷震子の予想通り燃燈が座っていた。こちらも雷震子へと視線を向ける。

「おう、ただいま――で、なんでここに?」

 率直に雷震子が問いかけると、燃燈がチラリと雲中子を見てから、再び雷震子に視線を戻した。

「雲中子と私は、旧い友人なんだ」
「へ?」

 意外な言葉に、雷震子は驚いて目を大きく開いてから、緩慢に瞬きをした。

「今日は、午後から時間があったから、訪ねてきたんだ」
「本当に懐かしいねぇ」
「私は雲中子に忘れられているかと考えていた」
「――忘れていたけどね、私こそ驚いているよ。燃燈こそ、私を記憶しているとはねぇ」

 二人のやりとりは、どこか和やかだ。普段とは異なる雲中子の柔らかな気配と、燃燈のいつもは見せない微笑に、雷震子は、本当に親しいらしいと判断する。

「では、私はそろそろ帰るとする。また来る」
「いつになるやら。覚えていたら歓迎するよ」

 立ち上がった燃燈を、雲中子が座ったままで見ている。

「では、な」

 燃燈は雷震子にもそう声を掛けると、その隣をすり抜けて、玄関へと向かっていった。
 その姿を見送ってから、雷震子は不思議に思って、雲中子を見る。

「馬鹿師匠、知り合いだったのか」
「少なくとも、嘗ての十二仙の筆頭を知らない崑崙の仙人の方が珍しいんじゃないかい? 長く暮らしていた私のような者であれば、その名前くらいは聞いた事もある。その当時にいた者であれば、私に限らず、顔見知りの仙道は多いと思うよ」

 ――名前くらい?
 そんな空気では無かったなと考えながら、雷震子は居室から通じるキッチンへと向かう。台の上には、雲中子が昼に摘んだらしき、アスパラがカゴに入って置かれていた。


 夕食後、雲中子は居室の、横長のソファに寝そべっていた。現在、午後十時。雷震子は、明日も早いようで、既に休んでいる。研究書を開いた状態で腹部に置き、その上で雲中子は手を組んでいる。

 思いだしていたのは、燃燈の事だ。
 実際には、片時も忘れた事が無かった相手である。あの頃――まだ、崑崙山が平和だった時分には、少なくとも『顔見知り』以上の関係であったはずだと、雲中子は思っている。

 けれど燃燈は何も告げず、戦いの末、地に落ちた……フリをしていた。そして現在の情勢になっても、雲中子の元へと訪れたのは、本日が初めてだ。己の優先順位は、燃燈の中で非常に低い。それは雲中子の中で、明確な真実だった。

 それでも、顔を出してくれるのでは無いかと期待し、確かに待っていた。それが叶った。嘗ての関係などまるで無かったかのように、近況を尋ね、元気かと問いかけてきた燃燈に対し、雲中子は気づけば頬を緩ませながら、世間話に応じたものである。

 戻ってきた穏やかな時間。
 それをもう、壊したくは無かった。


 ――そうでは無い過去が、確かにあったのだから。