【二】
「雲中子? おい?」
研究書の渉猟に没頭していた雲中子は、声を掛けられたその時まで、来訪者の存在に気がつかなかった。肩にそっと触れられて、ビクリとした瞬間、現在軸がいつだったのかを想起した。
研究漬けの毎日の中にあると、変化は乏しく、妖怪仙人の脅威もあまり感じない。
終南山は平和で、現在は弟子も取っていない雲中子は、たまに時間の流れを忘れがちになる。それを思い返させるのは、現在肩を叩いてきた、時折訪れる――『特別な友人』だ。
「燃燈……」
「その集中力は、賞賛に値するが、自分の洞府に他者が入っても気づかないというのは不用心極まりないな」
「それ、勝手に入ってきた張本人が言う事なのかい?」
顔を上げて振り返り雲中子が苦笑すると、立っていた燃燈が腕を組んだ。
「すぐに欲しい」
「――そう。じゃあ、寝室に行こうか」
特別な……それは、肉体関係にある友人だという意味合いだ。二人は、恋人では無い。少なくとも、そうなろうという口約束をした事は一度も無い。
契機は、玉虚宮の宴に雲中子が呼ばれた帰りだった。
本来は十二仙の宴であるからと、途中で座そうとした雲中子が立ち上がった時、燃燈もまた席を立ったのだ。暫く二人で道を歩いていると、燃燈が言った。
「飲み足りない」
「それなら、もっとあの場にいれば良かったのに」
「私がいれば気を遣わせる」
筆頭という燃燈の存在は、確かに他の十二仙を引き締め――同時に圧迫する事もあるのかもしれない。漠然と、雲中子はそう考えた。
「大変だね、君も」
「そう思うなら、酒の一杯でも振る舞ってくれ」
喉で笑った燃燈を見て、雲中子は何気なく同意した。こうしてこの日はその後、終南山へと二人で向かったのである。最初は縁側で、月と星を見上げながら、並んで座って盃を手にしていた。甘く強い米の酒は、舌触りが良い。飲み直しながら、ポツリポツリと言葉を交わす。宴の席では離れた場所に座っていたから、『普段は何をしているのか』といった雑談に興じた。
雲中子の回答は、研究であり、燃燈の答えは明瞭で、仕事だった。酒を注いでいた急須が空になったので、雲中子は静かに立ち上がる。
「空になってしまったから、用意してくるよ」
そう述べてキッチンへと向かい、酒瓶を見ていた。すると――不意に背後に燃燈が立った。気配が無かったが、燃燈が立てた足音で、雲中子はすぐに気づいた。そして振り返ろうとしたその時には、抱きしめられていた。
「何?」
「随分と痩身だなと思ってな。きちんと食べているのか?」
確かにここの所、研究ばかりしていたから、ろくに食べていなかったのは事実だ。実際、少し痩せたように自分でも感じていた。
「だからって、自分の腕で普通……確かめるものかい?」
「そうだな。目視した方が確実だろう」
「後から抱きすくめていたら、上手く確認出来ないんじゃないかい?」
「脱がせたい」
「医学は私の方が長けていると思うけどねぇ。健康管理くらい自分で出来るよ」
「違う。誘っている。酒はもう良い」
燃燈は、率直だった。雲中子は、当初、何を言われたのか、意味を理解しかねた。
「酔って昂ぶった。お前が欲しい」
燃燈の両腕に力がこもる。そして雲中子の服の留め具を静かに外すと、後から首筋をなぞり、鎖骨に触れた。ここまで来れば、雲中子とて、燃燈が本気らしいと認識した。
――別に、良いか。
昂ぶっているのは己も同じらしいと、雲中子は燃燈の指先の温度を感じて考える。
「さすがにここではちょっとねぇ。寝室は奥だよ」
「そうか」
これが、始まりだった。