【六】
次に燃燈が、雲中子の洞府に訪れたのは、それから三日後の事だった。この日は、雷震子が仕事の都合で泊まりがけで不在だった。迎え入れた雲中子に対し、燃燈が周囲を見渡す。
「今日は、雷震子は?」
「仕事だよ」
「そうか。ならば、存分に、ゆっくりと話が出来るな」
「私と君が、ゆっくりと話をした事が、過去に果たしてあったかな?」
雲中子が苦笑すると、燃燈が腕を組んだ。そして澄んだ瞳をした。
「そうだな。私は即物的で、いつもお前を求めてばかりだったからな」
「それは、お誘い?」
「そうしたいが――今日は、話をしよう。伝えたい事がある」
「何? 新しい研究の依頼でもあるのかい?」
「違う。ずっと言えずに後悔していた事がある。聞いて欲しい」
燃燈はそう告げると、珈琲の入るカップを持ち上げた。対面するソファで、雲中子はそんな燃燈の様子をじっと窺う。その精悍な顔立ちに、惹きつけられる。
「何故私は、あの頃、明確に伝える事をしなかったんだろうな」
「――何を?」
「好きだ」
「……それ、は」
「雲中子が困るだろうと、己に言い訳していた。愚かだったな」
苦笑した燃燈を見て、雲中子は目を見開く。汗が垂れてきそうになる。心拍数が上がり、動悸が酷い。胸騒ぎの激しさに、雲中子は唇を引き結んだ。
「それでも勝手に私は、雲中子が恋人であると考えていた。ただ、会えなくなってから、それを確認した事が無かった事に気がついたんだ」
「燃燈……」
「お前は、私の事をどう思っていた?」
静かな燃燈の声に、雲中子は長めに瞬きをした。
「当時は――それこそ友人だと思っていたよ。君がいなくなってから……ただ、気づいた事もある。一緒に在れて、幸せだったんだなって。好きだった、みたいだよ。私も、口約束をしなかった事を、その、後悔したものだよ」
ポツリポツリと雲中子が語ると、カップを置いてから、燃燈が頬杖をついた。
「『だった』――か。今は?」
「……言いたくない」
「どうして? 他に気になる相手でもいるのか?」
「違うよ。私は誓ったままだ。ただ、もう、次に君の不在なんていう出来事があったら耐えがたいんだよ。今の平穏に、私は満足しているんだ。これ以上は……もう、いらないよ。求めて失い、辛くなる事が、私は怖いんだよ」
本心を語った雲中子は、それから両手でカップを手にした。すると燃燈が姿勢を正して、改めて腕を組んだ。
「今度こそ、そばにいる。約束する。だから、やり直させてくれ。今度は……恋人として」
「そんな言葉が無くとも、寝室にはいつでも行くよ」
「そうじゃない。私は、雲中子の心が欲しい。平和になった、今だからこそ。雲中子は既に日常を新たに築いているのかもしれないが、私はまだその最中だ。私は、私の幸福のために、お前が欲しい」
燃燈の声は真摯で、その耳触りの良い声音を聞いている内に、雲中子は涙腺が緩みそうになった。だから天井を向いて誤魔化す。
「――相変わらず、自分勝手だね」
「そうかもしれないな。ただ、な。私は、欲しいものは必ず手に入れる」
そう言うと、燃燈が立ち上がり、雲中子の背後に立った。そして首の後から両腕を回す。懐かしいのに変わらぬ愛しい温度に、雲中子は耐えがたくなった。
「好きだよ」
そして堪えきれずに、本心を吐露した。
「私だって、燃燈が好きだよ。だから、もう、どこにも行かないで欲しい」
「約束する」
雲中子は首だけで振り返る。その唇を、燃燈が奪う。触れるだけのキスをし、その後、深く深く、互いの口を貪った。
――ドサリと音がしたのは、その時の事だった。ハッとして二人が顔を離して扉に視線を向けると、ポカンとしている雷震子の姿があった。二人は互いの本心を伝える事に夢中で、更にはキスをしていたから、通常であれば絶対に気がつく雷震子の気配にすら気づかなかったのである。
「え、え? え? え!? ちょ……馬鹿師匠? 燃燈様?」
呆気にとられている雷震子を見て、瞬時に雲中子が赤面する。白い肌をしているから、それがよく分かる。燃燈はその場で立ち直すと、まじまじと雷震子を見た。
「雷震子。昨日、旧い友人だと話したが――私達は、相思相愛でな。今、私達は、恋人同士なんだ」
「ちょっと、燃燈!」
慌てて抗議した雲中子に対し、チラリと視線を向けてから、燃燈が微笑した。
「違ったか?」
「……違わないねぇ」
雲中子は、叶った恋を、燃燈の言葉を、否定出来なかった。
そんな二人の間に漂う甘い空気に、雷震子は引きつった顔をしてから、曖昧に頷いた。
「そ、そうか。お幸せに、というか、なんというか。馬鹿師匠をよろしく頼む……俺、忘れ物を取りに戻っただけだから、じゃ、じゃあな。ごゆっくり」
そのまま雷震子は出て行った。それを見送ってから、雲中子と燃燈は再び視線を合わせ、どちらともなく微苦笑しながら吹き出した。
既に、空には星が輝いている。この日は、言葉通り燃燈は帰るそうで、雲中子は外まで見送りに出る事にした。見上げれば、オリオン座の星々が輝いていた。
「また来る」
いつかと同じ言葉だった。
そして――その『また』は、実際にやってくる。
キスをして分かれる時、燃燈が言った。
「愛している」
これは、新しい言葉だった。
そして――その後、何度も繰り返される言葉に変化する。
燃燈が新しい日常を築いた中には、確かに雲中子が存在し、そうして雲中子の取り戻した平穏の中の風景にも、燃燈が戻ってきた。雷震子は、温かく……時に、生温かく、そんな二人を見守っている。こうして訪れた日々の名は、あるいは幸せなのかもしれない。
【END】