【五】
そして二人で玄関へと向かった。庭までついでに出ようと、雲中子は靴を見る。
すると、靴の底が磨り減っていた。
別段最近、長時間歩いたわけではない。単純に、長い間、同じ靴を愛用しているだけだ。
それはあるいは、燃燈との関係が始まってからよりは短かったかもしれないが。
「そろそろ、替え時かな」
雲中子が玄関で何気なく呟くと、帰ろうとしていた燃燈が振り返った。
「何を?」
「ん?」
「――私から乗り換えるつもりだというのならば、許容出来ない」
「何の話だい?」
不機嫌そうに眉を顰めている燃燈を見て、雲中子は首を捻る。それから足元に視線を戻した。
「雲中子は、何が言いたいんだ?」
「靴の話だよ」
「私との関係を断ち切りたいという意味合いかと勘ぐった」
「へぇ」
――今でも、二人は恋人では無い。だから、閨の睦言も無い。少なくとも、雲中子はそう考えていた。そしてその関係が気楽でもあり、自然でもあった。恋をした事の無い雲中子にとっては、この関係が、自然だったのだ。
「燃燈は、そうしたければ、ここへ来なければ良いだけで楽だろう?」
「許容出来ないと言っているだろう。尤も、関係性を変える事に異論は無いが」
「意味が不明瞭だねぇ」
「お前には、どう告げたら伝わるのかが分からない」
燃燈は嘆息すると、それから雲中子の足元を見た。
「一つの靴を愛用する人間は、浮気をしないと耳にした事がある」
「そうなんだ」
「雲中子、私以外と寝るなよ」
「私を抱こうという奇特な人間は、そう多くは無いよ」
「多くはないとして――無論、ひきこもりの高仙に、そう手出しを出来る者がいるとも思わないが、仮に誘われても、だ。断ると誓ってくれ」
「何を心配しているのかは知らないけど、性病?」
「空気をぶち壊すな」
「安心していいよ。面倒な相手を増やしたいなんて、微塵も思わないからねぇ」
「面倒、か。あれほど俺の腕の中では、啼くくせにな」
燃燈はそう言って意地悪く笑うと、それから目を伏せ吐息した。
「また来る」
――しかし、その『また』は、無かった。燃燈が地に落ちたからだ。
雲中子はそうなって初めて、燃燈の不在を実感し、研究中の来訪者が消えてから、漸く己の気持ちに気がついた。自分は、きっと、恋をしていたのだ。愛していた、燃燈を。
「失ってから気づくほど、愚かな事は無いよねぇ」
いつか、そう呟いて、涙を零した、そんな日もあった。
その後、太乙や道徳とお茶を飲む日々が訪れたり、弟子を得たりした。それらが、新たな平穏が、少しずつ雲中子の心の痛みを癒やしてくれた。研究には相変わらず没頭する事もあったが、平和が、愛おしかった。もう、愚行を犯す事の無いよう、毎日を覚悟し、その上で穏やかに。
そうは思ったが、金鰲島との諍いの気配を感じれば、弟子となった雷震子の身を案じずにはいられず、研究成果物を強制的に摂取させたりしてしまった。もう、何も失いたくは無かった。しかし仙界大戦では、払った犠牲も大きかった。
――それが。平穏が。
漸く戻ってきたのである。もう二度と、失いたくは無い。
「おい、馬鹿師匠」
「っ、ん」
「そんな所で寝てると、風邪ひくぞ」
雲中子が目を開けると、ソファに横になる彼を覗き込んでいる、雷震子の姿があった。既にそばの窓からは、陽の光が差し込んでいる。音を立てて白いレースのカーテンを雷震子が開けると、雲中子は眩しさに目を細めた。上半身を起こすと、研究書が床に落ちた。
「全く」
雷震子は本を拾ってテーブルに置く。その後、キッチンへと振り返った。
「今から作るから、着替えてこいよ」
「有難う」
雲中子は欠伸をかみ殺してから、一度自室へと戻った。そうして着替えて再度居室に戻ると、胡瓜の辛子漬けや、菠薐草のごま和えなどが並んでいた。二人での朝食は、穏やかだ。それこそが、雲中子の求めていたものに他ならない。
食後、雷震子は皿洗いをした。これは家事も含めて何事も修行であると、幼き頃に雲中子が叩き込んだ癖が抜けないからなのか、はたまた雷震子が案外几帳面な性格をしているからなのかは不明だ。言葉とは裏腹に、雷震子は相応に雲中子を敬っている。
「じゃあな。行ってくる」
「気をつけるように」
こうしてこの日も、雲中子は雷震子を送り出した。仕事へと向かう弟子の表情は、いつも明るい。それを目にするだけでも、過ぎたる幸福だ。これ以上を望むべきではない。雲中子はそう自戒する。
――それでも、燃燈の言葉の通りなのか、操を立ててきた己がいた。
――燃燈以外の誰とも、寂しさを覚えても、肌を重ねる事は無かった。
――ずっと、愛したままだった。
――再会したら、胸が疼いて、『好き』が溢れてきた。