【一】
「雲中子はさ、消えたいって思った事ある?」
太乙が不意に問いかけてきたものだから、試験管を振る手を、雲中子は止めた。
「どうしてだい?」
「それ、回答になってない」
じっと太乙が雲中子を見ている。
視線を背けた雲中子は、その時脳裏を過ぎった人物がいる現実に辟易しながら、試験管を解析装置に入れた。
「無いよ」
雲中子はそう答えた。正確には、そういう事にしておこうと決めた。
「身体を透過させるような宝貝は興味深いとは思うけどねぇ」
「そういう意味じゃなく! この世界からいなくなりたいって事!」
太乙の言葉に、分かっていると言いかけたが、雲中子はコーヒーサーバーの方向へ歩く事で誤魔化した。
「太乙は、いなくなりたいのかい?」
「私? ううん。私は、??がいる限り、ここにいるよ」
「じゃあ、どうしていきなり、そんな事を聞くんだい?」
「仮定の話だけどね、もし私に??がいなくて――そして、道徳もいなくなってしまったら、私も消えたいと思うのかなって感じたんだよね。だから、経験者に聞いてみようと思って」
「確かに雷震子は出て行って久しいけれどねぇ」
「麗しい師弟愛の方じゃなく、恋人の話について聞きたいなって」
研究台の上に両肘を置き、その手を頬に添えて、太乙が述べた。悪気がないのが伝わってくるだけに、雲中子は珈琲を二つ用意しながら、溜息を押し殺すしかない。普段の太乙はズカズカと心に入ってきて傷口を抉るような事はしないから、何か思う所があっての問いかけなのだろうなというのも理解出来た。
――恋人。
先程も脳裏を過ぎったその人物の事を、雲中子はゆっくりと瞬きをしながら改めて思い出した。快晴の空を見る度に、嫌でも忘れる事を許してくれない、蒼い瞳をしたその人物は、燃えるような赤い髪をしていた。燃燈道人。忘れがたい名前だ。
燃燈道人は、元始天尊との戦いに敗れて、崑崙山から墜ちた。生きているとは考え難い。それが客観的な事実であり、雲中子も生存を期待した事は無い。生きている悪夢を時に見て、起床し絶望して昏い気持ちになった過去はあれど、既に諦観している。
失った存在は、戻る事は無い。
確かに、燃燈は、雲中子をこの世界に繋ぎとめている存在ではあったが、既に亡い。
「私が今も呼吸し、研究をつづけ、ここにいて消えていない事が結果だよ。太乙」
「結果はそうだとして、例えばだけど、後を追おうとか、辛い世界からいなくなってしまいたいだとか、そう感じた事は無いのかい?」
「無いと答えたばかりじゃないか」
雲中子は、繰り返した。
そういう事にしておかなければ、己の心の外郭を保つ事が困難だからだ。
燃燈という人物は、停止など許しはしないはずだと、逃避など許容しないはずだと、確信に近い想いもあるからだ。仮に世界から消え去り、雲中子が生きる事を止めたら、きっとそれを不義理であると言うような、そんな人物だった。
「もう聞いているかもしれないけど、仙界大戦がある」
太乙がさも雑談であるという風に、情報を提供してきた。そういえば先日、十二仙会議があったらしいなと思い出しながら、雲中子は小さく頷いた。
「みんな、無事だと良いね」
そう言って太乙が笑ったから、雲中子はニヤリと笑って帰した。
――結果、十二仙の多くは封神され、太乙の恋人であり、雲中子の親友でもあった道徳は封神された。大戦後、太乙は雲中子の前で、呟いた。
「……再建、しないとね」
「ここから、崑崙山をかい?」
「うん。それが残された私に出来る事の一つでもあるし、私はいつでも??に帰る場所を保証したいから。ただ……雲中子は、強いんだなって、改めて思ってる。無理にでも目標を見出さなければ、私は道徳を追いかけたくなるし、辛い現実を見なくて済むように消えたいと願ってしまうよ」
苦笑しながら、薄っすらと涙ぐみながら、太乙は言った。
雲中子は何も言わずに聞いていたが、自分自身を冷酷だと、この時判断した。
――道徳は封神されたとはいえ、魂魄は封神台にいる。
見方を変えれば、『生きている』ではないか。
亡くなった燃燈とは違う。太乙が、羨ましい。そう感じる己を、雲中子は浅ましく思った。多くの者の封神は辛い。けれど、それでも、過去に失った燃燈の存在の欠如の方が、今もなお、自分の心を蝕んでいるように、雲中子は感じた。
その次に、自己嫌悪に陥ったのは、燃燈道人の生存を知った蓬莱島での瞬間だ。
純粋に喜んだ。
そんな自分が、許せなかった。
最終決戦の最中、燃燈の生存について喜ぶ理性と、肉体をもって魂魄がそこにある状態に歓喜する感情を、抑える事に必死になった反面――それこそ、消えてしまいたくなった。
もしもその後、封神台が解放されて、道徳らの姿を目にしなかったならば、いつか太乙を羨んだ己の醜悪さを、決して許容出来なかったかもしれない。