【四】







 翌日。
 決意して待っていた雲中子は、しかしながら――結局その日も、記憶が戻っているという真実を伝える事が出来なかった。それは、燃燈が甘い言葉を吐くからではない。その幸せに浸っていたからではない。別の理由があった。

 二人でこの日も卓を挟んで、雲中子が用意した料理や酒を楽しんでいた。
 すると、燃燈が静かに述べたのだ。

「雲中子」
「なんだい?」

 名前を呼ばれたので、雲中子が顔をあげる。
 そこには、真剣な表情の燃燈の顔があった。

「もう理解していると思うが、私は雲中子が好きだ。それは、お前に私に関する記憶がない状態でも変わらない」

 それを聞いて、雲中子は息を飲んだ。今こそ、伝えるタイミングなのかもしれないと、最初は考えていた。だが、燃燈が続けた言葉に、虚をつかれた。

「ある意味で、今のお前に、私は惚れなおしたとも言える」

 ――記憶がない(と、考えられている)己に?
 ドクンと、雲中子の胸に嫌な動悸が響き渡った。

「私は、今の雲中子が好きだ」
「……」
「雲中子。私はお前に、もう一度――私を好きになってもらえるよう、努力する。誓う」

 燃燈はそう言うと、真摯な眼差しを雲中子に向けた。そこに嘘は見て取れない。
 雲中子の心拍数が、次第に速さを増す。それは、決して嬉しさからでは無かった。

 ――燃燈は、現在の……今の己の事の方が良いと思っているのだろうか、好きだと思っているのだろうか。そんな疑問が、雲中子の胸中を駆け巡る。

 だとすれば、記憶が元に戻っていると知られたならば、それを隠していた事以前に、現状だと燃燈が信じている自分は偽りであるのだから、今が好きだというのだから、元に戻った己は嫌われてしまうのだろうか? 嫌な汗が浮かんできて、雲中子は平静を保つべく酒を一気に飲みこんだ。

 もし今の方が良いと燃燈も望んでいるのならばと考えた結果、結局雲中子は、この日も真実を告げる事が出来なかったのである。

 こうして燃燈が帰って言った後、雲中子は憂鬱な気分になった。
 洞府の外では、この日は雨が振っていた。闇夜の雨音が、遠くから響いて聞こえる。

「今、燃燈が優しいのは……私も前と違って、素直になって……私自身も変わったからなのかもしれないねぇ……」

 呟いてみた雲中子だったが、胸が痛む。疼く心を抑えるべく、胸元の服を掴んで、雲中子は嘆息した。

「そもそも、私は愚かだねぇ。変な薬に頼らずに、最初から燃燈にきちんと……自分の気持ちを話すべきだった。今の燃燈を見ている限り、燃燈なら、しっかりと私の言葉を聞いて、受け止めてくれたんだろうに……私は、本当に馬鹿だなぁ」

 自嘲した雲中子は、それから長い間目を伏せていた。

「でも――やっぱり、騙しているのは、辛い。私自身が耐えられない。その事で、仮に嫌われたとしても、自業自得だよねぇ。きちんと私は言うべきだ。それが、恋人としての、真摯な対応のはずだ。私には、燃燈を裏切り続けるのは無理だ」

 こうして雲中子は、明日こそ伝えようと、再度決意をしたのだった。



 決意して迎えた翌日。
 この日も燃燈は、玉柱洞へと訪れた。燃燈が持参した手土産の仙桃を受け取ってから、雲中子は意を決して声を放った。

「燃燈、話があるんだ」
「なんだ?」

 対面する席に燃燈が座った直後、雲中子は勇気を出した。

「実は」
「ああ」
「私は記憶が戻っているんだ」

 伝えたい事を、明確に雲中子は述べた。
 するとじっと雲中子を見ていた燃燈が、右手の親指で唇を撫でた。
 それを見てから、雲中子は顔を背ける。燃燈の反応が、怖くて仕方がない。

「そうか」

 直後、そう言ってから、燃燈が吹き出す気配がした。その明るい気配に驚いて、雲中子が視線を戻す。すると燃燈が、少しだけ顎をあげて、楽しげな瞳をしていた。

「やっと話してくれたな」
「どういう意味だい?」
「――お前に記憶が戻っている事に、私はとっくに気づいていたという話だ」

 燃燈のそんな言葉を聞いて、呆気にとられて雲中子は目を見開いた。

「え? ど、どうしてだい? 一体いつから?」
「お前は、私の好きな酒の肴ばかりを用意してくれたな? 私はその一つ一つを覚えている。初めて食べた時の記憶がある。雲中子が作ってくれた品だからな」
「……」
「記憶が無ければ出てこないような、手に入れるのが困難であったり、変わった味付けの品も多い。私のためにわざわざ用意してくれたのだとしか思えない品であり、仮に記憶が無かったら、絶対に出ては来ないだろうと考えていた」

 燃燈が緩慢に瞬きをしながら、悠然と笑っている。
 雲中子は、そこまで考えていなかった己に気づき、冷や汗をかいた。唖然としてしまい、言葉も見つからない。だが、少し間を開けてから、雲中子は肩眉だけを下げて、思わず問いかけた。

「燃燈は……でも、今の私の方が好きなんだろう? 前の私よりも」

 不安に思っていたせいで、雲中子の声はわずかに震えていた。対する燃燈は、喉で笑うと、両頬を持ち上げた。

「雲中子は、雲中子だ。全て、お前だ。私は、雲中子の全てが好きだし、記憶の有無を問わない。それだけ、雲中子の事を大切に思っている」
「燃燈……」
「正直、愛を囁く事を許してくれるお前は、愛おしい。が、いちいち照れていた雲中子も好きだし、私が時に好きだと言えば真っ赤になって、言わなくて良いと訴えるお前も嫌いではない」

 燃燈はつらつらと語ってから、少し意地の悪い顔で笑った。

「ただ記憶に関して、お前が言い出してこないから、反応見るために嘯いた」
「っ」
「どんな反応をするかと思っていたが――雲中子は、正直者だな」

 燃燈の言葉に、思わず雲中子は呆気にとられた後、両頬を朱く染めながら、燃燈を睨んだ。

「気づいていて、からかったという事か」
「黙っていた雲中子には、責められたくないが」
「……ごめん」
「ああ、存分にこれに関しては、謝罪してもらいたいな。私がどれほど心配していたか、伝え足りない」

 冗談めかしてそう述べてから、燃燈が立ち上がった。そして雲中子の隣に座りなおすと、視線を合わせながら、その頬に触れる。

「愛している」
「……私も……同じ気持ちだよ」
「知っているし、信じているし、それ以外は許容できない」

 そう言って笑ってから、燃燈が掠め取るように雲中子の唇を奪う。
 そしてそのまま、絨毯の上に押し倒した。今回は、欲しいという合図であるようだ。

「雲中子、抱いても良いか?」
「それ、服を開けながら聞くのかい?」
「我慢が出来ない。お前の無事を、体で確かめたい」

 こうして、二人の情事が始まった。



 性急に挿入した燃燈の瞳は、獰猛だ。ぺろりと唇を舌で舐めてから、深々と雲中子を穿った燃燈に、雲中子は両腕をまわす。汗ばんだ二人の肌が密着している。

「あぁ……ッく、うあ」

 久方ぶりに受け入れる剛直の熱に、雲中子が快楽と悦びから涙ぐむ。やはり、燃燈が好きでたまらない。溢れてくる愛に心が占められ、雲中子は思わず告げた。

「大好きだよ」
「私も雲中子が好きだ。大好き、では、足りないほどに。愛しているんだ、本当に」

 応えるように燃燈が、じっくりと陰茎を進める。最奥を穿たれ、雲中子の体が震えた。既に雲中子は、一度果てさせられている。しかし硬度を取り戻した雲中子の陰茎は、今も燃燈の引き締まった腹部に擦れていて、先端からは透明な蜜が溢れている。

「あ、っ……燃燈、もっと――っン」
「私も全然足りない」

 燃燈は薄く笑ってから、腰を激しく揺さぶった。内部に感じる衝撃に、雲中子がより高く啼く。

「ああ、ァ! んア! ああ! あン、ん――や、ぁ、気持ち良、っ、うあ」

 涙ぐんでいる雲中子の綺麗な瞳を見据え、燃燈はより激しく責め立てる。結腸を刺激される感覚に、雲中子が仰け反る。巨大で長い燃燈の陰茎が、雲中子の体を貫いている。

「あ、あ、あ――あああ! んン、っ、ひぁ」
「もっともっと、お前が欲しい」

 燃燈の動きが激しくなり、雲中子は快楽が背筋を走り抜ける感覚を思い知らされる。稲妻のように鮮烈な感覚に、思考が白く染められていく。

「あ、あ、出る、ァ、イく! うあ、ぁァ、ああああ!」

 そのままドライオルガズムを促され、雲中子は目を伏せてすすり泣いた。全身を漣の陽に快楽がからめとっている。脈動する雲中子の内部の感触を味わいながら、燃燈もまた放った。その時一際強く貫かれ、追い打ちのように感じる場所を突き上げられたものだから、雲中子は声を上げた。

「ああああああ!」

 呼吸ができないほどの快楽に、そのまま雲中子は、意識を飛ばす。
 凄艶な雲中子の痴態に、燃燈は満足げに微笑を零したのだった。

 ――事後。
 目を覚ました雲中子は、己の体が清められている事に気が付いた。燃燈が後処理をしてくれたのだと理解する。燃燈は、寝入っていた雲中子を抱きしめていた。

「無理をさせてしまったな」
「ううん」

 答えた雲中子の声が、少し掠れていた。燃燈は卓の上に用意していた水を、雲中子に渡す。受け取り、雲中子は喉を癒した。するとその耳元に唇を近づけ、囁くように燃燈が言う。

「今後は、私は愛情を隠さない」
「え?」
「照れもあったのだろうが、これまでの雲中子は、あまり私がベタベタするのを好まなかっただろう?」
「そ、それは――」
「だが今回の一件で、伝えてこなかった事を自戒したし、告げても雲中子は嫌がらないと気づいた。お前に嫌われたくない一心で、愛をささやく機会を減らして距離を取っていた私としては、こうして素直に気持ちをつら得られる事が純粋に嬉しくてならない」
「燃燈……」
「愛している。何度告げても足りないな」

 燃燈の優しい瞳の色を見て、雲中子は微苦笑しながら涙ぐむ。
 愛の比重は、実は変わらなかったのかもしれないと、改めて感じた瞬間だった。



 ――その後。
 ある日の朝、雲中子はいつかと同じように玉柱洞の外で、終南山の自然に触れていた。いつか頬を怪我した時にも薬草から作り出してストックしておいた傷薬を、適切に太乙が使ってくれたようであったから、やはり今季も生成しようと考える。

「雲中子」

 そこへ、以前と同じように訪れた燃燈が、静かに声をかけた。

「やぁ、燃燈」

 答えた雲中子の声音も変わらない。双方に笑顔が浮かんでいる。
 けれど、違う言葉が、そこに響く。

「愛している。会いたかった。時間を作るのに、毎日難儀している。だが、お前に会うためならば、苦にはならない」

 燃燈のそんな甘い言葉に、頬と耳を赤く染めつつ、雲中子は微笑する。

「私も、愛しているよ」

 燃燈はそれを聞いてから、掠め取るように雲中子の唇を奪ったが、その後向かった先は寝室ではなく居室で、二人は暫しの間会話を楽しんだ。甘い声をかけあう。距離が近づいたのは明らかだ。いいや、最接近と言えるのかもしれない。ただ少しだけ、雲中子は考える事がある。

「ねぇ、燃燈」
「どうかしたのか?」
「最近の君は、ちょっと溺愛が過ぎるよ」

 嬉しさ半分、恥ずかしさも綯い交ぜの心地で、雲中子が述べると、燃燈が喉で笑った。

「愛しているのだから、仕方が無いだろう?」

 今では、燃燈の愛の方が大きいかもしれないとすら、雲中子は感じる。
 それがとても嬉しい。
 このようにして、終南山には、亜幕間に溢れた、幸せな空気が溢れかえった。

 以後も二人は、愛の言葉を交わしあう。
 紛れもなく、幸せだった。






    ―― 了 ――