【三】
実験室には、割れたアンプルの破片などが散乱していた。
その後片付けをした後、雲中子は実験台の上に広げられたままになっていた、ところどころが焦げている巨大な紙を見た。太乙の手による付箋が貼られていて、『私には解読できなかったよ!』と書いてあった。
「……うーん」
しかし自分の文字や、思考を図で記す事に慣れていた雲中子は、すぐに爆発をもたらした実験の内容を悟った。
――燃燈関連の感情と記憶の操作。
――寂しいという感情のみの封印実験。
「私は寂しかったのかな……? 燃燈は、あんなに優しくて、かいがいしくて、甘い言葉を吐いてばっかりなのに……? こちらが照れるほどなんだけどな」
現在知っている燃燈と一致しない、『寂しい』という想い。
雲中子は首を捻りつつも、振り返って、無事な薬品庫を見た。特殊な宝貝製の金庫じみた鍵付きのその品は、被害も無く無事な様子だ。
「爆発の衝撃による記憶障害では無さそうだねぇ。この図式なら、すぐに治療薬も作れそうだ。試す価値はある」
つらつらと呟いてから、雲中子は薬の生成に取り掛かった。爆発した原因も特定済みだったので、今度は安全だと考えつつ、完成したアンプルの中の、緑色の薬液を見据える。片手でガラスに触れ、雲中子はそれを口に含んだ。燃燈にもう、辛い思いをさせたくないと、どこかで考えてもいた。
「――!」
そして目を見開いた。燃燈との改めての出会い、親しくなった契機、付き合い始めるまでの記憶、恋人同士となってからの情動、様々な思い出が、一気に脳裏を駆け巡る。信じられない思い出冷や汗をかきつつ、雲中子はそれが現実であると、確かに記憶を取り戻しながら考えた。周囲の言葉に嘘は無く、己と燃燈が確かに恋人同士だったのだと思い出した。
「……会議が終わって時間が出来たのもあるんだろうけれどねぇ、今の燃燈は、ちょっと優しすぎるほどだというのは、やっぱり変わらない感想だ。マンネリとでもいうのか、ちょっと前までの燃燈は、本当にそれこそ即物的すぎるきらいがあったじゃないか。変わるものだねぇ。怪我の功名かな?」
思い出した記憶を噛みしめながら、雲中子は一人苦笑する。
優しくなかった燃燈も、今の燃燈も、どちらも好きだ。
「まぁ、今の方が……私は、好きかもしれないねぇ」
そんな事を呟いて、雲中子は双眸を伏せた。今の燃燈は、自分に寂しさを感じさせたりしない。もう、作ろうと実験して失敗した薬は、不要だ。再実験の必要性も無い。
「燃燈には、悪い事をしてしまったねぇ」
雲中子はそう口にしてから、天井を見上げ、細く長く吐息したのだった。
――さて。
ある種の退院を果たした雲中子であるが、この日も燃燈は玉柱洞へと訪れた。
燃燈が来るだろうと考えて、酒の肴を無意識に用意して、冷蔵用の宝貝の中に入れておいた雲中子は、どのように結果を告げよう考えていた。
寂しかったから、薬を作って、そして失敗した。
事実を抜き出すならこうなるが、正直に告げるのは照れくさい想いと申し訳なさがある。
「雲中子、もう大丈夫なのか?」
玉柱洞の居室に顔を出した燃燈の言葉に、長椅子に座っていた雲中子が頷く。
「うん。平気だよ。今、お茶の用意を――」
「構わなくて良い。身体が快癒した事が何よりだ。だが、無理はするな」
「燃燈は、過保護だね」
雲中子はそう述べつつ、勝手知ったる調子でお茶の用意を始めた燃燈を、ぼんやりと見ていた。記憶に関して伝える言葉を思案していた。そして――ちょっとした悪戯心が湧き上がる。今の優しい燃燈が好ましいのだから、このままもう少し、その優しさに浸っていても許されるのではないか。ある種の悪魔の囁きでもある。恋人同士としての記憶をきちんと保持している状態で、燃燈に優しくされてみたいという気持ちが、雲中子の心の中で、大きくなった。もう少しだけで良いから、愛されている実感を得たい。そんな感覚だ。
「雲中子? どうかしたのか、ぼんやりとして」
「ん? いや、別に」
正面の椅子に座した燃燈に対し、雲中子が軽く首を振って答えた。
――燃燈を騙す事は心苦しいが、もう少しだけ。
雲中子は内心でそう繰り返してから、この日も優しい燃燈との雑談に興じた。
その結果、この日雲中子は、記憶が戻った事を伝えられないままで、帰っていく燃燈を見送る形となった。雲中子が用意した酒は空になり、つまみも綺麗に片付いている。それは、雲中子が望んだ状態であったし、虚しさでは無く嬉しさを齎してくれる状況でもある。
「……」
美味しいと話しながら、食べてくれた燃燈の顔を思い出した。
浮かんでいた笑顔に、胸が疼く。望んでいた関係が訪れている事を、雲中子は悟った。
「このまま……」
会話を楽しむひと時が、続いたら、それは幸せなのではないか。
考え込んだ雲中子は、その後どこか自嘲的に口角を持ち上げて笑った。
「私は浅ましいねぇ」
そして翌日も、その翌日も。
燃燈は玉柱洞を訪れたし、雲中子は笑顔で出迎えた、が――記憶が戻った事について、口に出す事が出来ないでいた。雲中子は日々、燃燈の来訪を待ちながら、燃燈の好物だと知っている料理を用意し、酒を卓に載せて待っていた。
「今日も美味だな」
燃燈は酒を飲んでから、箸を手に優しい眼をする。
ただ時折、燃燈の瞳には、切なさと寂しさが滲んでいるように、雲中子には思えた。自分は現在の状況が心地良いが、燃燈はやはり辛いのだろうか。客観的に考えて、恋人に忘却される事は辛いだろうとは、雲中子も思う。これは記憶の有無に関わらず、理性的に考え導出した結論だ。
「燃燈」
「なんだ?」
「――本当に美味しいかい?」
雲中子が小声で訊くと、やはり燃燈がどこか寂しげでもあり、同時に懐かしそうな顔をして、頷いた。
「ああ。嘗て雲中子は、私が来ると、いつも私の好物を用意してくれていた。その時の事を思い出して、懐かしくてたまらない」
確かに付き合った当初は、燃燈は酒の肴を楽しんでくれていた。だが、記憶が戻ってきて振り返る限り、ここ最近はそのような時間は無かった。雲中子は胸に棘がささったような気持ちになる。燃燈の言葉には、嘘も含まれている。しかしそれは、優しい嘘だ。
「……」
やはり、記憶について告げるべきだ。罪悪感に押し潰されそうになりながら、言わなければと雲中子は考える。けれど何も言えないままで、この日も洞府の玄関まで、帰宅する燃燈を見送りに出た。
思わず俯いた雲中子に対し、振り返った燃燈が息を飲む。
慌てて雲中子が顔をあげた瞬間、正面から燃燈が雲中子を抱きしめた。
「すまない。お前には記憶がないというのに。ただ、そんな顔をしないでくれ。辛そうなお前を見たくない。見てしまうと、抱きしめずにはいられない――悪いな、雲中子」
燃燈は何も悪くないというのに、苦笑しながらそう言った。抱き寄せられている雲中子は、言葉に詰まりながら、燃燈の熱い胸板に額を押し付ける。暫くそうしていると、不意に燃燈が雲中子の肩に右手を置き、もう一方の手で雲中子の顎を持ち上げた。
「雲中子」
「何?」
「キスをしても構わないか?」
「っ」
答える前に、燃燈に唇に触れるだけのキスをされ、雲中子は目を見開く。
以前であれば、キスは情事をしたいという暗黙の言葉に等しかった。だが、触れるだけの口づけをしてすぐ、燃燈は微苦笑すると、雲中子から手を離し、玄関の扉を見た。
「では、な。また明日」
「……っ、気を付けて帰ってね」
「ああ」
そのまま燃燈は、帰っていった。暫くその場で燃燈についてぐるぐると考えていた雲中子は、その後片手で唇を覆い赤面した。嬉しさで、感極まっていた。だが、だからこそ。
「明日こそ、きちんと記憶については無そう」
そう決意し、この夜雲中子は、早めに眠りについたのだった。