【二】






「ん……」

 薄っすらと瞼を開けた雲中子は、白い天井を見上げた。あまりこの角度から見る事はないが、そこが己の診察室である事は、理解出来た。頬にはガーゼの感触がある。ゆっくりと上半身を起こすと、白いシーツに皴がより、掛け布団が見えた。左手の甲には、三本足の点滴器具があり、半透明のチューブが伸びている。

「雲中子!」

 声をかけられて視線を向けると、太乙が振り返った所だった。

「良かった! 三日も目を覚まさなかったから心配していたんだよ。そもそも、急に終南山から爆発音が響いてきたから、何事かと思った。崑崙中が大騒ぎになったんだよ! ただ本当に、命に別条がなくて良かったよ!」

 その言葉に、雲中子は、意識を喪失する直前に、己が何らかの実験をしていたような気もすると、おぼろげに思い出した。だが、何の実験をしていたかまでは思い出せない。とはいえ、記録を残さずに実権をする事は少ないので、落ち着いたら爆発の原因を究明しようと考える。恐らくその衝撃で、己は短期の記憶障害にでもなっているのだろうと、正確に状況を判断した。

「燃燈もさっきまでいたんだけど、元始天尊様の急な呼び出して、今丁度外してるんだ。早く安心させてあげて。体には、頬の傷以外の怪我も、幸いないし、私が診察した限り、問題はないからね!」
「燃燈……?」

 太乙の言葉に、雲中子は首を傾げた。

「君がいるのは、医学知識があるからだろう?」
「うん? そうだね。雲中子ほどではないけど、私が適任だという自負はあるよ」
「燃燈はどうしてここに?」
「どうしてって?」
「十二仙の筆頭として、原因の調査や事情聴取に来ていたって事かい?」

 純粋に疑問だという顔を、雲中子がした。逆に、太乙が首を捻る。

「? いや、私だって恋人が意識不明になっていたら、付き添うけど?」
「恋人?」
「え?」
「何の話だい?」

 目を見開いた太乙を、首を傾げながら雲中子が見る。
 ――雲中子の中で、燃燈道人という人物は、古くから崑崙山にいる十二仙の筆頭であるという知識はあったが、そう関わりの多い人物ではないという記憶だ。それはまるで、燃燈と付き合い始める前に、直接会話をするようになる以前に、雲中子が抱いていた感想に近しい。つまり……親しくなってからの記憶が、欠落しているのだが、雲中子にはその自覚が無い。

 これは爆発の衝撃のせいではなく、実験の失敗により、燃燈に寂しさを抱くようになった一連の流れ――恋人同士となった最初の記憶から、爆発直前までに抱いていた燃燈関連の記憶が消失しているからだった。確かに寂しさが消えるという効果は発していたが、ミスにより記憶ごと消えてしまっている。

「えっと……雲中子、君は燃燈と付き合っていたんだけど、それは分かる?」
「――え? 私と燃燈道人が、かい? 冗談だろう?」

 雲中子が胡乱な眼をした。雲中子の中で、燃燈は特に交わる事のない存在と言えたし、硬い人物という印象だった。恋人を作るような性格にも思えず、燃燈にとって大切な存在は異母姉の竜吉公主くらいだろうという感覚だ。

 一方の己も、実験に邁進しているのが常であり、他者に恋情を抱く事が想像できない。
 だからこの状況で放たれるにしては奇怪な冗談だとは思いながらも、雲中子はそう言った。診察室の扉が開いたのは、丁度その時だった。入ってきた燃燈の耳には、直前からしっかりと、雲中子と太乙のやり取りが入っていた。

 焦ったような顔をした太乙と、困惑した眼差しの雲中子が、それぞれ燃燈を見る。燃燈は花束を持っていて、無言のまま中へと入ると、空の花瓶に花束をいけた。険しい顔をしていた燃燈は、それから長々と瞼を伏せた後、目を開けてから、まず雲中子を見た。

「意識が戻ったんだな。本当に良かった」
「ああ、私は意識が無かったようだけど……その……」

 困ったように雲中子の声が小さくなっていく。それを一瞥した燃燈は、太乙に声をかける。

「少し二人にしてもらえるか?」
「う、うん。そ、その――雲中子は多分爆発の衝撃なんかが理由で、記憶が曖昧な部分があるんだと思う。多分」

 客観的に太乙はそう述べてから、席を外し、診察室から外へと出た。
 パタンとその扉がしまった音がしてから、丸い椅子に燃燈が座る。上半身を起こしたままで、雲中子はそれを眺めている。

「雲中子、どこまで覚えている?」
「どこ? ここは崑崙山で、私は実験中にミスをして爆発に巻き込まれたようだという記憶はあるよ」
「――私の事は分かるか?」
「十二仙筆頭の燃燈道人を知らない仙道は少ないと思うけどねぇ……」
「……」

 雲中子の言葉に、燃燈が沈黙した。それから腕を組むと、探るように雲中子を見る。

「私とお前の関係は?」
「太乙が言うには、恋人だったという話だけれど」
「ああ」
「まさか、事実という事は無いだろう?」
「……いいや。確かに私と雲中子は、恋人同士だ」
「え」
「もう付き合って長い」
「な」
「兎に角無事で良かった。だが……そうか。私との事を覚えていないのか」

 ポツリと独り言のように燃燈が、抑揚のない声音で述べた。
 なんだか申し訳なさを感じたものの、実際に記憶に無い以上、かける言葉も見つからなくて、雲中子は何も言えない。だからシーツを両手でギュッと握り、静かに燃燈を見ていた。

「思い出してくれる事を祈る」
「……私達が恋人だったって、事実なのかい?」
「事実だ。そして過去形ではなく、現在もお前は私の恋人だと、私は考えている」
「……」
「記憶が戻るまで、出来る限り毎日顔を出す。雲中子、まずは体を癒せ」

 燃燈は、そう口にすると立ち上がった。雲中子は見上げながら、燃燈の瞳がどこか寂しそうなのを確認し、より一層申し訳ない心地になった。

「……ごめん」
「何に対する謝罪だ?」
「覚えていないんだ。本当に。それに対する謝罪だよ。事実として恋人同士だったのなら、私だったら辛く感じるように思うから」
「……兎に角、雲中子が無事で良かった。謝る必要は無い」

 そんなやり取りをしてから、この日燃燈は診察室を後にした。太乙と話をしてくると言って、出ていった燃燈について、暫くの間雲中子は考えていた。だが一向に、燃燈に関する記憶は想起できない。一人唸りつつ、雲中子は改めて寝台に横になった。雲中子本人も、太乙の診察同様、爆発の衝撃で記憶が飛んでいるのだろうと判断していた。薬のせいだとは、考えていない。

「戻ることを祈るしかないな」

 そう呟いてから、雲中子は瞼を伏せ、少し眠る事にしたのだった。



 ――燃燈との関係を半信半疑に思ったまま迎えた翌日。
 この日も燃燈は、寝台のある診察室へと顔を出した。丁度新しい点滴を始めた所で起きていた雲中子が驚いた顔をすると、太乙が微笑してから気を利かせて席を外した。残された燃燈と雲中子は、視線を合わせる。

「本当に来たんだ」
「時間が許す限り、毎日来る」
「……忙しいんじゃないの?」
「玉柱洞が爆発したその瞬間、まさに十二仙会議が終了した所だった。元始天尊様がいち早く気づいて、私達も事態を知った。幸い会議は終わっていたから、駆けつける事が出来た」

 燃燈の言葉に、短く雲中子が息を飲む。

「燃燈が駆けつけてくれたのかい?」
「ああ。太乙もすぐに来て、その後ここへと運んで、治療をした。お前を失うかと思って、私は怯えていたぞ」
「燃燈も怯える事があるんだ?」
「当然だろう。愛しい相手を失う恐怖は、誰にだってあるはずだ」

 さらりと言われて、雲中子は当初、その『愛しい相手』が誰をさすのか理解できなかった。だが、理解した瞬間、思わず視線を逸らした。恋人同士であり、いち早く駆けつけてくれたというのだから、流れからしてその相手とは己だと、すぐに悟った。

「燃燈は……私の事が本当に好きなんだ?」
「ああ。伝えて良いと言われたならば、数日が簡単に潰れる程度には、私の愛は深く重い」
「確かに燃燈って情熱的そうだものねぇ。私と付き合っている時、燃燈は今のように、愛を囁いていたのかい?」
「――いいや。だが今は、もっと伝えておくべきだったと感じている」
「ふぅん。私達は、どのように付き合っていたんだい?」

 何気なく、純粋な好奇心から、雲中子が尋ねる。すると燃燈が苦笑した。

「それは、是非思い出してほしい事柄だ」
「……そうだね」

 忘れたのは己であるし、これでは燃燈をより傷つけると思いなおして、雲中子が困ったように瞳を揺らす。記憶を失う前の自分を、燃燈がこんなにも愛していてくれたらしいと知ると、胸が痛い。何故忘れてしまったのかと、己を糾弾したくなる。

 するとその時、気を取り直したように、燃燈が組んだ手を膝の上に置いてから、微笑した。

「早く良くなってくれ。雲中子、お前が元気ならば、それで構わない」

 雲中子は返答を見つけられなかった。

 なお――以後も、毎日燃燈は、見舞いに訪れ、時間が許す限り診察室にいた。
 そこで様々な話をしながら、雲中子は思い出せない自分を不甲斐なく感じた。
 燃燈の優しさに触れ、愛されていた事を思い知らされるような時間が続く内、雲中子の頬からはガーゼがとれたし、もう点滴は必要なさそうだという太乙の判断も聞いた。

「……」

 こうして、雲中子には、記憶こそ戻らないものの、日常が戻ってきた。