X:終焉はHappy end<2>




 ――燃燈が『殺界』を齎す術と宝貝を破壊したのは、残暑が厳しい頃だった。
 雲中子と話してから、一ヶ月にも満たない間の行動だった。

 その間、雲中子と燃燈は顔を合わせなかった。理由は、無論燃燈側が多忙だった事もあるが……どちらかといえば、雲中子が研究に打ち込んでいたからだという理由の方が大きい。寝食を惜しみ、雲中子は、第一の研究テーマに取りかかっていた。

 ヒート抑制剤とラット抑制剤の改良、まさにそれを完成させたその日、偶然にも燃燈もまた行動を起こした。

「早いねぇ」

 それまで崑崙山に流れていた仙術の気配が途切れたのを、実験室で確認した雲中子は、改良した錠剤を片手に、燃燈の事を想って苦笑した――いいや、本人は苦笑したつもりだったが、その表情から滲んでいたのは、優しい笑みだった。


 それから数日して、雲中子は玉虚宮から呼び出された。頭を垂れながら、もう薬の存在を秘匿する事は決して無いと考えていた雲中子に対し、呼び出し主である元始天尊は、静かに伝えた。

「薬を量産してもらいたい」

 燃燈の説得が上手くいったのだろうかと、顔を上げながら雲中子は考える。それとも、一定数の仙人骨を持つ者が生まれたから、もう構わないという判断なのかとも推測する。しかし元始天尊は、雲中子を見ると、どこか苦しそうな色を瞳に浮かべた。

「悪かった」
「……元始天尊様?」
「言い訳じみて聞こえるであろうが、決して現状は、わしの本意では無かった。お主には、苦しい思いをさせてしまったな」

 それを耳にした時、雲中子は言葉に窮した。だが、何も言わずに、その後も続いた元始天尊の悔恨を聞いていた。第二性別が齎した混乱に、元始天尊は元始天尊なりに、元首として対応し、けれど手を離れて拡大していく喧噪に様々な決断を迫られていたのだという事を、雲中子は冷静に受け止めた。

「――私は構いません。ただどうか、抑制剤を」
「分かっておる。隣室に、太乙を呼び出しておる。既に設備は整っている。太乙もまた、この期間、何度もわしに同じ進言をしておった」

 事実だろうと感じながら、雲中子は頷き、退席した。
 そして太乙の元へと向かった。そして懐かしい顔を目にした時、どんな表情をすれば良いのか一瞬だけ分からなくなって、雲中子は曖昧に笑った。

「雲中子!」

 気付いた太乙が、椅子から立ち上がる。そしてこちらは、雲中子の双肩に手を置くと、涙ぐんだ。

「なんというか、本当にごめん」
「何がだい?」
「元はと言えば、私が変な雑談さえしなければ――」
「済んだ話だよ。太乙が悪いとは思わない」
「……でもねぇ、今、君の評判は地の底に落ちてる。私、都度都度キレてるけど」
「良いんだよ。別に」

 それは本心だった。
 その後二人はすぐに、抑制剤の量産の為の打ち合わせに入った。

 結果、更に二ヶ月も経たない内に、崑崙山中のΩやαの元に無事に抑制剤が届く結果となった。尤もその配布自体は玉虚宮側で太乙が先導して行った為、雲中子はその時には、洞府に戻り――第二のテーマに取りかかっていた。

 だから、運命の番い研究に邁進していた為、崑崙山全体でどのような話が成されているのかは知らなかったし、興味も無かった。人嫌いが快癒したとはいえ、人付き合いを再開したわけでは無かった。

 研究が落ち着いたら、会いたい相手は沢山いる。例えば、愛弟子、例えば道徳。
 太乙から進捗だって聞きたいし――何より、燃燈に会いたかった。

 燃燈は、事後処理が忙しいらしく、あまり顔を出さない。それが無性に寂しくはあったが、雲中子は研究に打ち込んでいた。体調管理に気を遣いつつ、それでも暇を見つけては訪れる燃燈を出迎える。

 そんな雲中子が次に玉虚宮に呼び出されたのは、丁度次の夏だった。

「雲中子様!」

 すると道士に声をかけられた。見覚えがあると思ったら、いつか燃燈が連れてきた道士だった。振り返った雲中子に対し、その道士が述べる。

「薬の開発、本当に有難うございます!」

 その声が響き終わる前に、雲中子は足を止めたその場の人々に囲まれた。

「雲中子様が抑制剤を開発して下さったおかげで、楽になりました」
「Ωが劣等種ではないという研究論文、拝読しました。泣きそうになりました」
「これからは、自信を持って修行に再び励みたいと思います」
「――俺なんかは、運命の相手と会えたから、第二性別の研究自体にも大感謝ですよ!」

 意外な言葉の数々に、雲中子が息を飲む。言葉に迷った結果、雲中子は唇の端を持ち上げた。

「私はただ、研究したに過ぎないんだけどねぇ」

 既に、雲中子に対する悪しき噂は払拭されていた。それらは、太乙や道徳、何より燃燈が事実の一部を公表した結果だったが、雲中子はそれを知らない。同様に、多くの仙道も、殺界に関する詳細は知らなかったが、今では雲中子に対して向けられる悪意は激減していた。

 そこへ――歩み寄る気配があった。雲中子が振り返る前に、その肩に燃燈が触れる。

「待ち合わせ時刻が迫っているが?」
「へいへい」

 久しぶりの再会に、雲中子が両頬を持ち上げる。雲中子を玉虚宮に呼び出したのは、燃燈だ。その後二人で、会議室へと向かって並んで歩き始める。

「順調か?」

 気遣うように、燃燈が小さな声で尋ねた。
 Ωの妊娠期間は、人間とは異なり、十月十日では無い。
 無意識に腹部に手を当てた雲中子は、笑顔を返す。

「私を誰だと思っているんだい?」

 宿っている二人の間の愛の証が生まれるまで、あと少し。最近では、番いがあるのだから、人間界の制度に則って、結婚制度が合っても良いのでは無いかと、崑崙山では囁かれる事が多い。家族という新たな関係性が、生まれつつもある。

 なお、雲中子と燃燈が番い関係にある事を知る者は、この時点では非常に少なかった。だから、近い将来二人の関係が公になってから、崑崙山には激震が走る事となる。

 玉虚宮の回廊にどこまでも伸びる二人の影。
 今、新たに訪れた幸福を、雲中子は噛みしめる。その手を、不意に燃燈が握った。

「ちょ、燃燈……誰かに見られたら……」
「何か問題があるのか?」
「……無いけどねぇ」

 燃燈はそれを聞いて、破顔する。
 このようにして、この年も一つの夏が終わったのだった。





      【完】