【一】




 ――雲中子の事は、昇仙前から知っていた。太乙は道士時代から、何かと雲中子の記した巻物に目を通す機会があったからである。雲中子が玉?宮へと提出し、図書館に納められている文献群は、緻密で論理的であり、執筆者である高仙の知性の高さを伺わせるものばかりだった。

 著者としてしか知らなかった頃、太乙は、このように優れた先達が崑崙山にいる事が誇らしくもあり、いつか直接、一度で良いから話がしたいと考えていた。

 そんな風に、道士時代は熱心に勉学・修行に励んでいた太乙も、昇仙する頃には、持ち前の人当たりの良さで、相応な人間関係を構築するに至っていた。

「雲中子?」

 ある日の事。
 玉?宮の一階にあるテラスの休憩席で、同期の道徳と話をしていた太乙の耳に、『憧れの人物』の名前が飛び込んできた。

 何気ない風を装って、ちらりと振り返れば、崑崙山に古くからいる仙人が二人、椅子にせを預けて雑談をしている所だった。

「珍しい話だな」
「だろ? まぁ大方、定期的な研究報告か何かだろうけどな」
「元始天尊様個人の頼みごとかもしれないぞ?」
「かもな。ただ今朝早く白鶴童子が終南山の方角へと飛んでいった事と、さっき雲中子が玉?宮に来たというのは事実だ。俺も見たし、噂にもなってる」

 聞き耳を立てていた太乙は、この頃には、次期十二仙と杢される力を持っていた。だから躊躇う事なく、立ち上がり、くるりと振り返った。崑崙山にいる歴史は雑談している仙人達の方が長いが、力量と立場は明確に太乙が上である。

「雲中子様が来てるって本当?」

 笑顔で太乙が声をかけると、会話をしていた二人が目に見えて硬直した。

「た、太乙様」
「ご無沙汰しております……ええ、事実ですが……それが何か?」

 道徳は太乙の様子を、椅子に座ったままで眺めている。その視線を背中に浴びながら、しかし気に留める事もなく太乙は、続けて尋ねた。

「ね、ね? 私、雲中子様って会った事が無いんだけど、どんな方なの?」

 太乙の言葉に、二人が顔を見合わせた。それから、揃って引きつった笑みを浮かべた。目が泳いでいる。

「「変人」」
「へ?」

 返ってきた答えに、太乙がきょとんとした。すると片方が腕を組んだ。頬が引きつっているのだが、かろうじて口元だけには笑みが浮かんでいる。もう一方は黙り込んでしまった。

「ええと……よく言えば、研究熱心な人物で……馬鹿と天才は、その、ほ、ほら……」
「……? お会いしたいんだけど、知人? 紹介してもらえない?」
「「やめておいた方が良い!」」
「?」

 すると二人がヒソヒソと顔を寄せ合って囁き始めた。

「太乙様が汚れてしまう」
「あの変人に染まったら終わりだ」
「あのさ、二人共、何が言いたいの?」

 太乙は笑顔を取り繕ったままでそう聞いた。しかし二人はそれぞれ沈黙するばかりだ。その時の事である。

「太乙、ちょっと」

 それまで放置されていた道徳が、太乙を呼んだ。今、忙しい上に折角話を聞けそうなんだけどなぁと思いつつ、太乙は振り返る。すると手袋をはめた手で、道徳が手招きをしていた。

「何?」
「お前こそ、何?」

 太乙が座ると、テーブルの上で、道徳が身を乗り出して、両肘を机につき、顔に手を添えた。楽しそうな笑顔をしている。

「雲中子に興味があるのか?」
「ちょ……あんな高仙を呼び捨ては、まずくない?」
「良い奴だから、怒らないって。というか、俺は、『雲中子で良いよ』って言われてるからな」
「――え?」

 太乙が目を見開くと、道徳がニッと両方の口角を持ち上げた。まさか、道徳が知り合いだとは考えた事もなく、太乙は唖然とする。なにせ、体育会系の道徳と研究者である雲中子では、畑違いも良いところだ。

「念のため、明確にしたいから聞くけど、雲中子様と知り合いなの?」
「『友達』だぞ?」
「は?」

 同じ分野の自分でさえ、話すことも恐れ多いイメージの高仙として、太乙は雲中子を認識していた。顔が強ばった太乙を見て、道徳が小さく吹き出した。

「ほら、俺、慈航とかと一緒に、道士時代に、燃燈様に稽古をつけてもらった事があってさ。その時に、かなり本気で打ち合ったりしてたから、血を流す事もあってな。そうしたら、燃燈様が、雲中子の事を呼んだ事が何度かあったんだよ。医学に詳しいからってさ」

 燃燈と雲中子であれば、既知でも納得出来る。どちらも崑崙山で知らない者はいない名前だと、太乙は考えていた。

「それでさ、俺も手当をしてもらった事もあるし――雲中子、体術も宝貝の使い方も結構長けてる、って、燃燈様が言っててな。燃燈様と雲中子の練習試合を見せてもらったりしてて、その内に、思わず話しかけた。それがきっかけ」

 道徳は笑顔だ。楽しそうなその様子に、太乙は片手で頬杖をつき、身を乗り出した。

「まぁ、研究一本で、この崑崙山で、あんな風に高名になっているわけではないとは、推測できるよ? 私は完全に宝貝研究がメインだけど……そうは言っても、ある程度は自分でも使えるし。試用とかあるからね」

 もっと詳しく。
 そんな思いで、太乙はじっと道徳を見た。その真剣な瞳に、道徳は、太乙が本気で雲中子の事を特別視しているらしいと悟る。だから少しだけ困った。

「ただ……さっきの、そこでの話、聞こえてたけどな? 俺も紹介とか、してもらわない方が良いと思う」
「どうして? 友達なんでしょう? 道徳が友達の悪口? 君らしくなさすぎるよ?」
「悪口というか――事実でしかないっていうか、だな」
「どういう事?」

 声を潜めて太乙が問うと、道徳が目を伏せ、困ったような表情のままで、口元だけに笑みを浮かべた。先ほどの二人にそっくりの表情である。

「あいつはやめとけ」
「だから、なんで?」
「変人らしいんだよ」
「え?」
「――俺は、そうは思わなかったから、仲良くなれたんだ。けどな、燃燈様の所に稽古に行ってた奴らのほとんどが、ひいてた。だから俺だけ、雲中子と話をするようになって、友達になれたんだよ。太乙は、まともだろ? つ、つまり、俺と違ってそういうのに鈍くないだろ? 多分、実物に会ったら、イメージがぶち壊れると思う。雲中子を思うからこそ言う。会うのは、やめとけ」

 道徳の言葉に、太乙が眉を顰める。

「つまり、個性的って事?」
「う、うーん」
「私はあくまで研究やモティーフ、テーマに興味があって、そういう部分を憧憬しているだけだから、人柄で嫌いになったりはしないよ。確かに道徳は、誰の事であってもオープンに受け入れられる明るい――はっきり言えば、鈍くて傷つかない精神がある気はするけどさ」
「いや、はっきり言いすぎだろ」

 吹き出した道徳は、それから片眉を下げながら笑った。

「分かる。分かるんだよ。俺も燃燈様に憧れてて、実物に会って――イメージと違う! ってなったからな」
「燃燈様のイメージと実物って、どんなの?」
「厳格で厳しく冷静なイメージだったんだけどな、案外熱血だった。俺と慈航より熱いかもしれない」
「ほう。じゃあ、雲中子様のイメージは?」
「俺は、雲中子については、『筋肉のつくり方』の解説書的な巻物しか読んだ事が無かったから、特にイメージは無かった。だから初めて、バイオキシンを肌に乗せられた時は、妖怪仙人を連れてきたのかと思ったし、初めて不思議な杏β版を茶菓子として出された時は、あの世に逝くのかと悩んだ」
「茶菓子? 君、お茶を飲む仲なの? それとも燃燈様の洞府での話?」
「たまにお茶を飲んでる。終南山、いい感じに遠いから、走り込みの折り返し地点に使わせてもらってて、休憩させてもらう時がある」

 思ったよりも親しい。それが太乙の素直な感想だった。はっきり言って、羨ましい。