【二】
「あ」
その時の事である。
道徳がテラス席から、入口の方を見て声を上げた。つられて視線を向け、太乙は何度か瞬きをした。そこには変わった帽子をかぶり、橙色の留め具がついた白い道服姿の人物が一人。道徳の声に、その青年は、丁度足を止めた所だった。外見年齢は、太乙と道徳よりも少し上に見える。
「雲中子!」
道徳が立ち上がった。そして太乙をチラリと見て苦笑してから、入口へと足早に歩み寄っていく。一方の声をかけられた雲中子は、道徳が正面に立つと、それまでの無表情から、ニヤリとした笑顔に変わった。黒髪が揺れている。
「やあ、道徳」
「珍しいな、玉?宮で会うなんて。今、忙しいか?」
「帰る所だよ。道徳は、何をしていたんだい?」
雲中子はそう述べると、太乙の方へと視線を投げた。初めて目が合った。その瞬間、咄嗟に太乙は視線を逸らしてしまった。柄でもなく緊張していた。あれが、雲中子――崑崙山にいる歴史も長いし、もっと老人然としているかと想像していた。仙力が強いのだろう、老化が遅いという事は、と、冷静に考える理性と、いつか会ってみたいと思っていた憧れの人物との急な接触に動揺する感情が、同時に太乙を苛んだ。そのどちらも、酷い焦燥感を太乙に齎したのだ。
「あー、友達とお茶を飲んでた。そうだ、紹介しても良いか?」
道徳は振り返り、窓の方を見ている太乙を確認して、苦笑を噛み殺す。逆の立場だったならば――というよりかは、元始天尊の直弟子であるという繋がりで、玉鼎に剣の稽古をつけてもらっていた際に、『燃燈を紹介するか?』と、告げられた時の事を思い出していた。
尊敬する相手には、誰だって会ってみたいものだろうと、人が良い道徳は考えていたし、根が明るい道徳は朗らかに、『太乙が変人でも受け入れられる可能性』を考えてもいた。所詮は、『変人』というのは、周囲の多くの評価に過ぎない。実物に会って、太乙がどう判断するかの方が重要だという思いもあった。
こんな風に通りかかるという偶然があったのだから、ここまで来たら紹介しても構わないだろう。
「あちらで君を待っているらしき人物かい?」
「そ。太乙」
「――太乙真人か」
雲中子がそう口にした瞬間、カッと頬が熱くなった気がして、太乙は俯いた。自分の名前を雲中子が知っているという現実が、信じられないくらい、嬉しかった。
「私を紹介するよりも、早く席に戻ってあげた方が良いんじゃないかい?」
「いや、丁度お前の話をしてたんだよ。ここに来てるらしいって聞いて」
「誰に聞いたんだい?」
「ん? いや、このテラス中で、お前の話してる奴、いっぱいいたけどな?」
道徳は悪気も無い様子で、先ほど太乙が声をかけた二人組へと視線を向けた。二人は噎せている。雲中子は、頷くと、腕を組んだ。
「それもそうかもしれないねぇ。元始天尊様からの呼び出しだったからね。ならば、この場の皆の好奇心を解消する為に発言するとしようかねぇ。元始天尊様が仙人風邪を罹患したから、診察に来ただけだよ。特命でも研究成果が上がったわけでも、なんでもない。付け加えるならば、軽症で念の為にと呼ばれただけだから、元始天尊様にも問題は無いよ」
雲中子がよく通る声で、そう述べた。仙人風邪とは、仙道がかかる特殊な風邪だ。仙人骨を持つ者だけがかかる、人間界の風邪とよく似た病である。
「殺しても死ななそうだしな。よし、太乙を紹介する。来てくれ」
「道徳がゴシップを話していた友達として認識しておく事にするよ」
「違う! 真面目に、お前の話してたんだよ。太乙の名誉の為に言っておくけどな」
そんなやりとりをしながら、道徳と雲中子が、太乙の席へと歩み寄ってきた。
「太乙! 雲中子だ。雲中子、こいつは太乙。俺の親友」
「初めまして、太乙真人。雲中子という者だ。君が玉?宮に提出した文献のいくつかに目を通した事があるよ。完成度が高くて、非常に興味深いと思ったんだよねぇ」
「あれ、雲中子? 太乙の前だと、真面目?」
「煩いよ、道徳。初対面で心象を悪くしたら、不思議な杏を食べて貰えなくなるかもしれないだろう?」
「食べさせる前提なのかよ?」
「ダメ?」
「ダメだろ」
親しげな二人の様子に、太乙が顔を上げる。
「初めまして。太乙です。私も、雲中子様の論文は、ほぼ全てチェックしていて、目を通しています」
「残念ながら、私は全てには目を通していないから、『も』というのは、正確ではないかな。悪いね。興味が無いものには、手が伸びないんだ」
「失言でした。一つであっても、ご覧頂けた事が嬉しくてなりません」
「そう畏まらなくて良いよ」
雲中子はそう言うと、正面から太乙を見た。思わず太乙は立ち上がる。綺麗な太乙の黒い瞳と、烏の濡れ羽色の雲中子の瞳が、その瞬間、確かに交わっていた。それが太乙にとっては特別だった。
「いくつもお話したい感想があって、お伝えしたい私なりの見解があります。じっくりと、お話させて頂けたらと、そう思います」
「いつでも大歓迎だよ。私は大抵の場合終南山にいるから、太乙真人、よければ時間が空いた時にでも顔を出して欲しいものだねぇ。終南山は、杏が美味しいから、仙桃に負けない肴を用意できる」
「食べちゃダメだからな、太乙!」
「道徳、君は黙ろうか」
雲中子が道徳の肩を叩く。道徳は腹を抱えて笑っている。道徳からしてみれば、雲中子も太乙も、普段からは程遠すぎて面白かったのだ。
「じゃあさ、雲中子。明日走る時、太乙の事、連れてっても良いか?」
「――構わないけれど、太乙真人も走るのかい? 体育会系だという話を聞いた覚えはないんだけれどねぇ」
「いや。太乙は先に移動する形で、現地集合」
「なるほどねぇ。太乙真人がそれで良いのならば、構わないよ」
雲中子の返答に、ぎこちなく太乙が頷く。道徳に対し、『何を言っているんだ』と平手打ちしたい気分と、『道徳、有難う!』という気分が同居している複雑な内心だった。話をしたいのは事実だが、それを知られるのは気恥ずかしい。
「じゃ、よろしくな」
道徳がまとめると、雲中子が頷いた。そしてテラスの壁にある丸時計を見上げる。
「うん。何時でも構わないよ。では、そろそろ私は戻るとする。明日、また」
雲中子はそれだけ述べると、すたすたと踵を返して歩き始めた。立ったままで太乙がそれを見送っていると、道徳が自分の席に座り直した。
「明日、俺、元始天尊様から移ったっぽく、風邪ひいとくからな」
「――へ?」
その声に、ようやく力が抜けて座り直した太乙は、目を丸くする。
「俺が一緒にいても、お前らのしたいらしき難しい話は分からないからな。ゆっくりと話してみろよ、二人で。ただ、親友として忠告するけどな、雲中子の出す飲食物には手をつけるな」
「……道徳」
「ん?」
「……君にそんな気遣いが出来るなんて思ってもいなかったよ、ごめん」
「本当、謝れ。謝ってくれ。俺だって空気ぐらい読めるぞ!」
道徳が苦笑すると、太乙がやっと気を抜いたように細く吐息した。
明日の事を考えると楽しみでもあり――緊張もしていた。帰宅したら感想をまとめよう。伝えたい事を頭の中で整理して、特にお気に入りの文献は読み直そう。そんな事を考えながら、太乙はアイスティのストローを銜えた。氷が溶け始めていた。