【三】





 手土産は何が良いのだろうか。
 悩みすぎて昨日は、上手く眠れなかった。午前九時、夜型の太乙は珍しく気合いを入れて早く起き、身支度を整える。道徳の忠告――飲食物を口にするなという言葉を漠然と思い出す。ならば、茶菓子と茶葉ならば、迷惑にもならないだろうし、角が立つ事も無いだろうか?

 そう考えて、用意した品々に振り返ってから、太乙は改めて鏡を見た。変な所は、無い。艶やかな黒い髪、形の良い瞳、長い睫毛。太乙を美人だと評する人間は多い。そしてその自覚は、太乙にもあった。

 ――嫌われたくない。心象を良くしたい。

 太乙にとって、雲中子はある種のレジェンドといえる存在だった。雲中子が生み出してきた数々の論文が、好きで好きでたまらない。

 その後は、ゆっくりと終南山へと向かって、歩き始める。黒い布が、風で揺れている。爽やかな風が崑崙山に吹いている。終南山に太乙が到着したのは、午前十時半を少し過ぎた頃の事だった。いつもそのくらいに、道徳は終南山を訪れていると聞いていたから、それに合わせた形だ。本日、道徳は不在であるが……。

 太乙が終南山に足を踏み入れ、道を進んでいくと、洞府の前に広がる庭に、昨日初めて遭遇した雲中子が立っていた。雲中子は、視線を下げて、無花果の実に手を添えているようだった。

「おはよう」

 太乙の気配に気がついたようで、するりと雲中子が顔を上げた。どこか切れ長に見える黒い目に、太乙は唾液を嚥下してから、努めて両頬を持ち上げる。

「おはようございます」
「道徳は仮病のようだね」
「――え?」
「白鶴童子が伝言を持ってきたんだ。実に明るく楽しそうに道徳が、『風邪をひいたって伝えてくれ』と白鶴に口にしたみたいだよ。実際に仙人風邪ならば、それこそ私のもとに来るべきだろうにねぇ」

 雲中子がスっと目を細めた。それから腕を組むと、まじまじと太乙を見た。

「君が本当に私と話をしたいわけではないのならば、帰って構わないよ」
「っ、その……」
「私は高仙と言われる事もあるけれど、ただこの崑崙に長くいるだけに過ぎないし、君を誰かに紹介するような人脈も無い」
「そ、そんなの求めてないです」
「そう。ならば研究成果物についてかい? 残念ながら、私は自分の導出した見解に絶対的な信念を持っているから、他者からの注意に耳を傾ける度量も無い」
「私も完璧だと思っています」
「――では、その『完璧』の著者に会いたかった?」
「……、……はい」
「君の中のイメージに応えられるような演技も、私には出来ない。それでも構わないのならば、幻想上の私と話がしたいわけではないというのならば、歓迎するよ。太乙真人」

 雲中子はそう述べると洞府へと振り返った。そして静かに歩くと、扉に手をかけた。

「どうぞ」
「お邪魔します……ええと、これ」

 太乙は玄関に入りながら、雲中子に手土産を差し出した。すると雲中子が少しだけ驚いた顔をした。

「太乙真人は、礼儀正しいんだねぇ」
「……いえ」

 単純に心象を良くしたかっただけだとは言い難く、太乙は微苦笑した。その表情を見据えた雲中子は、どこか考え込むように、受け取りながら瞬きをする。

「気を遣ってくれなくて構わないんだよ? 私達は、対等だ」
「ですが――お言葉ですが、雲中子様は、ただ長くいるだけの仙人とは一線を画すと私は思っています」
「買いかぶりすぎだ。私は決して自己評価が低い方では無いけれど、そのように畏まられると、対応に困ってしまうよ。君にとって有意義な話が出来る事を、私は約束は出来ないけれど、ただねぇ……私も一度、話がしてみたいと思っていたから嬉しいよ」

 初めて足を踏みれた玉柱洞は、無味無臭だった。無機質で人間味を感じさせない。そう思いながら、促されるがままにリビングへと通された太乙は、そこにある観葉植物を見て、ようやく肩から力を抜いた。漸く人間味が見えてきたからだ。

「早速、君に貰ったお茶を淹れさせてもらうとしようかねぇ。私の出した飲食物であっても、比較的それならば安心できるだろう?」
「え、ええと……」
「私の噂は聞いていないのかい?」
「あまり」
「――本当に、私の出した文献についてのみの感想を伝えに来たのかい? それはそれで珍しいな」

 雲中子が破顔した。その表情に見惚れてから、太乙は俯いて赤面した。

「どうぞ」

 雲中子が、茶葉を蒸らしてから、ティポットを傾けた。とくとくと注がれるお茶の良い香りに、太乙は上目遣いでちらりと雲中子を見る。そばには、太乙が持参した饅頭が置かれている。

「と、言っても、君のお土産だけれどね」
「どうぞ、召し上がって下さい」
「うん。頂くよ」

 雲中子はそう言うと、己の湯呑を茶で満たしてから、柔らかく笑った。その表情が太乙には、酷く大人びて見えた。

「それで? どんな話がしたいんだい?」
「――鏡像段階論についてなんですが」
「ふぅん。私の希望とは異なるねぇ」
「え?」
「私は、太乙真人の人となりを知る事が出来るような雑談を希望するよ」

 雲中子が湯呑を両手で支えている。太乙は赤面しそうになった。ここまでの所、雲中子が特異な人物には見えない。寧ろ狡い。尊敬していた相手に、このように優しくされたら、気分が盛り上がってしまう。

「私は、その……宝貝が好きで」
「そうみたいだねぇ。私は興味の対象が揺れ動く事があって、ある意味器用貧乏だから、一つの物事に熱中出来る事は素晴らしいと思うよ」
「器用貧乏だなんて――抽斗の広さに敬服してばかりです」
「世辞は好かない、けれど、太乙真人の言葉は本音に聞こえるから照れるね」

 そうは言う割に、雲中子には照れた様子など無い。言われ慣れているのだろうと太乙は考える。雲中子がそこに、それとなくアイスボックスクッキーの入るカゴを引き寄せて、卓上に置いた。一つ摘んで口に放り込んでから、雲中子が太乙に対して微笑する。

「良かったら」
「あ、有難うございます」

 手作り、だろうか。そう思いつつも、何気なく太乙は手を伸ばした。雲中子に対する警戒心など全く無かった。口にしたクッキーは適度な甘さで、非常に美味だ。

「美味しい……」
「それは良かった。作り甲斐があるねぇ」
「手作り……?」
「家に長くいると、一通りの事は出来るようになるものだよ」
「私は研究に没頭してしまうので、手が回らなくて」
「今は、頭の方が回っていないんじゃないかい?」
「――え?」
「道徳は、太乙真人に適切な忠告をしなかったのかい? 私から提供された飲食物を口にするべきではないという、この崑崙で多くの者が知る話を」
「!」

 その言葉で、太乙は漸く思い出した。だが、クッキーはごく普通に美味だ。

「ええと、美味しいですけど……どういう事なんですか?」
「私は人体実験が趣味でね」
「え?」
「臨床試験とも異なる。思いつきで作ってみた薬物を、さらっと試したくなる悪癖があるんだ。尤も自分では、それが悪い事だとも特段考えてはいないけどね」
「……え? そ、それって、このクッキーにも何かが入ってるって事……?」
「そうかもしれないねぇ。いいや、そうだねぇ」
「……」

 太乙は硬直した。しかし端緒、雲中子自身もクッキーを摘んでいた。無論、何も混入していない品をより分けておく事は可能かもしれないが。

「当てます」
「――おや」
「ココアパウダーと砂糖、小麦粉、卵」
「正解だよ。一応聞くけど、根拠は?」
「雲中子様も食べていましたからね!」

 力を込めて断言した太乙を見ると、虚を突かれたような顔をしてから、雲中子が楽しそうに笑った。

「君を安心させるための演技だったんだけどな」
「そうじゃないかとも考えました」
「へぇ。私の気に障る事が無いように、君も食べたのかと思っていたんだけれどな」
「そこは無意識でした」
「無防備なんだな。少しは気をつけた方が良い。私が言えた事では無いけれどねぇ」

 両頬を持ち上げた雲中子は、それからクッキーを更に一つ手に取る。そして口の中へと放り込んだ。

「雲中子で良いよ」
「それは、恐れ多いので」
「私達はお互いに、崑崙山の仙人であるという点で、同じ立場だ。あんまりねぇ、好きではないんだよ。畏まられる事が」

 それを聞いて、太乙は、口の中で反芻してみる。
 ――雲中子、と。
 すると胸がドキリとした。本当に、良いのだろうか?

「私も太乙と呼ばせてもらうよ。私達は、対等だ」
「……雲中子」
「うん、それで良い。それで、鏡像段階論だったかい? 何が聞きたいんだい? それとも、伝えたい?」
「いつか私は宝貝人間を生み出してみたいと考えていて、その場合の乳幼児期の身体的統一性について考えさせられて」
「それは壮大な考えだね。師弟制度があるこの崑崙山で暮らす上で述べるのも滑稽かもしれないが、師と弟子の結びつきと、母性や父性との交わりは、私は異なると考えている。そうであっても乳幼児期の発達に関わる他者は――」

 そこからは、ひとしきり二人は雑談するかのように、雲中子の記した論文について話していた。まるで、話が上手い先生――そんな印象を太乙は当初受けたが、すぐに熱がこもって、気づけば太乙もまた熱く語っていた。

 この日を境に、太乙は雲中子の洞府の玄関をくぐるようになった。
 適切な表現をするのであれば、入り浸り。
 雲中子と話をする事が、楽しくて楽しくて仕方が無かった。