【五】
――翌日。
この日も太乙は、終南山へと向かう事にした。洞府の鍵は開いていて、雲中子は実験室にいるようだった。当初は必ず、雲中子は太乙が足を踏み入れると庭に立っていた。それは昨日と同じだ。だが、今では出迎えは無い。それがそれだけ親しみを覚えられているからなのか、警戒心を持たれていないからなのか、はたまた蔑ろにされているからなのか、太乙には判断がつかない。個人的には、安心されているのだろうと前向きに考えて、嬉しくなっている。
「おはよう、雲中子!」
「もう午後の三時だけれどねぇ」
太乙が実験室に入ると、雲中子が口角を持ち上げた。独特の帽子の端についた装飾具が揺れている。雲中子は意外と規則正しいため、太乙も以前よりも早起きになった。
「ねぇ、雲中子」
「なんだい?」
「――話があるんだ。聞いて欲しい事があってさ」
「それは実験をしながらでも構わない部類かい?」
「……雲中子にとっては、その程度かもしれない、っていうのが正直な所」
「太乙がそんな風に言うのは珍しいから、リビングに行こうか。少し待っていてくれ、今調合が終わるから」
それからほどなくして、雲中子は薄い手袋を外し、手を洗った。無言でそれを見ていた太乙は、深呼吸をしていた。言う。言おう。自分の気持ちに、嘘はつけない。
「それで?」
場所をリビングへと移動し、雲中子がコーヒーカップを太乙の前に置いた。それを一瞥してから、じっと太乙は雲中子を見る。
「私、さ」
「うん」
「雲中子の事が、好きみたいなんだ」
「それは、どういったニュアンスで?」
「多分……恋、してる」
「知ってるよ」
雲中子の言葉に、太乙が短く息を呑んだ。雲中子は己の分のコーヒーカップに手を添えると、静かに太乙を見る。
「どんな回答を期待しているの?」
「え?」
「恋愛は脳機能が喚起する幻想である。恋愛は錯覚である――今までの私達の間であれば、これらの答えが望まるように思うけれどねぇ」
「……」
「日増しに私を見て艶っぽい顔をする太乙みたいな美人を見ていたら、私は、そんな理論では抑えられなくなる。ねぇ、太乙。そんな事を言われたら、本気にするのが男だと私は思うよ?」
雲中子の黒い瞳が、その時、僅かに獰猛な色を宿した。太乙はそれに硬直し、唾液を必死で嚥下する。雲中子は薄い唇を舌で舐めると、唇の両端を持ち上げる。
「私は、太乙が欲しいよ」
「ッ」
「付き合ってから何ヶ月・何年は待ちますといった紳士な姿勢は、私には無い。私は肉欲にも率直だ」
「それは……私の気持ちに応えてくれるって事?」
「そうだね。君が言い出さなかったら、自分から言うつもりは無かったけれど」
「どうして?」
「――好きな相手とは、同じ空間にいられるだけで幸せだと私は思う方でね」
この日。
太乙は雲中子と寝た。
新たな関係の始まりは唐突だったし、雲中子は思ったよりも肉食だったが、太乙に後悔は無い。服を脱ぐとよく引き締まっていて綺麗に筋肉がついている雲中子の体。それが、太乙は好きだった。
このようにして、二人の関係は始まった。
【END】