【4】僕は、死んだ事が無い。
次の街において、僕はバジルさんからの接触を期待していた。
だが――何も無く、僕は結局、穢痴族の恩がそこそこある知人と刃を交えただけで、その場を通過した。
問題。そう、大問題だった。この街に、バジルさんがいないという事は、彼は恐らく、帝国に姿を現す予定は無い。つまりは、エメラルドグレイ連邦から、高みの見物をしているという事であり――僕が村の使用人に託した伝言は、無視されていると考えられる。
憂鬱な気分になった。ニコの事以外で、気分が落ち込むのは、僕にしては珍しい。
今後二週間前後は、僕にとっては他愛もないが、ニコにとっては危険が伴う、街から街への移動となる。無論どの街にも、バジルさんの関係者はいるであろうが、この件の詳細に関しては、そういった人々に言伝するのは心もとない。
直接、密室で、傍受を絶対にされない状況下において、僕はバジルさんに『依頼』したい事柄があった。
――ニコの亡命手続きだ。
ニコは、僕達の任務が、魔術湖の島に危機を知らせに行く事だと信じているが、僕の任務は違う。僕の使命は、ニコを守る事だ。女王国の王族であるニコを、エメラルドグレイ連邦に、僕は亡命させたい。そのために、僕は帝国を横断するつもりだ。
島には既に、ワークス教授を経由して、危機を伝えてある。簡素な報告しかしていないが、仮にも魔術専門の島なのだから、あの情報でどうにも出来ないとすれば、それは彼らが愚かなだけだ。僕は、島の住人の生死には興味がない。僕が興味のある命は、ニコのものと――己のものだけだ。
そう考えながら、僕は次の街では、宿を探した。大抵の場合、バジルさんの配下の者は、宿の従業員に紛れているか、堂々と新聞社の支店にいる。今回に限っては、新聞社に顔を出すのは、非常に危険だ。
それらしき宿を見つけ、手続きをしながら、僕はニコを部屋へと促した。安全のために、二人部屋を選択する。そうしてひっそりと、穢痴族が復古した古の科学技術で、僕は防衛面を整えた。魔術では、感知されてしまう可能性が高いからだ。
その後一息ついた時――僕達の部屋の扉の前に、誰かが立つ気配を感じた。相手は、気配を殺しているつもりなのだろうが、僕にはすぐに認識できた。この甘さは、玄人では無い。気配を探り、僕は嘆息した。バジルさんの魔力がこもった魔導書を持っているのが分かったからだ。僕が探していた人間が、向こうから出向いてくれたというわけである。
見れば既にニコは寝入っていたし、この部屋に――いいや、宿に少しでも異変があれば、僕は気づく事が出来る。だから、僕もまた気配を消して、扉の外へと出る事にした。
「――どうぞ、こちらへ」
受付の所で見かけた店員の青年は、僕の姿を捉えると、微笑しながらそれだけ言った。確かに立ち話もなんなので、ついていく事に決める。バジルさんの配下らしき青年は、そのまま階段を下って行き、地下まで降りた。
そして――貧相な宿には不似合いな、豪奢な扉の前で立ち止まった。
明らかに密談用の部屋といった空気を醸し出している。
「どうぞ、中へお進み下さい」
「僕が先に? 君は?」
「私はこれにて」
……。
なかに、他の人間がいるらしい。耳を澄ませば、ワイングラスを置いた音が響いてきた。しかし、こちらにいるのは、中々の玄人らしく、気配が読めない。バジルさんに、売られた可能性を、真っ先に考えた。
仮にそうであるならば、誰に売られたのかを特定しなければならない。
僕はそう考えて、迷わず扉を開けた。
そして目を見開いた。そんな僕の後ろで、扉は勝手にしまり、ガチャリと施錠音が響く。
「やぁ、ラーゼ君」
正面の高級そうなソファに座って、膝を組んでいる人物を見て、僕は言葉を探した。そこにいたのは――来ないと確信していた、バジルさんだったからだ。
「来てくれたんですか」
「まぁねぇ、ちょっとした空き時間ができたものだから、プライベートで久方ぶりに観光でもしようかと思ってね。島を経由し、魔法陣で移動してきたんだがねぇ。ワークス教授は何やら多忙そうで、会う機会は無かった。それだけが残念でねぇ」
「へぇ、そう」
「それで、直接私に依頼したい事とは、なんだね? 念のため、聞くけれど」
バジルさんはそう言ってから、喉で笑うと、ワイングラスを手にとった。
歩み寄り、僕はその正面に座る。
「ローゼンクォーツ女王国の王族、ニコ殿下の亡命手続きを手伝って欲しいんです」
僕の言葉に、バジルさんが、小さく吹き出した。
ここまで足を運んでくれたのだから、同意だと既に僕は思っていた。
「存在しないはずの、女王陛下の双子の兄殿下の亡命ねぇ」
「帝国からの脱出が難題で。僕の魔力は探知されているだろうし、ニコを単独で魔法陣移動させる事には抵抗があるんです」
――島からの魔法陣は、帝国の内部では、黙殺されてはいるが、いつでも行き先変更の魔術を発動させる用意が、この国にはあると、僕は知っていた。バジルさんもそれを知っている。
「いくらでやってくれます?」
「――ラーゼ君」
率直に僕が聞くと、再びグラスを置きながら、バジルさんが静かに僕の名前を読んだ。首を傾げていると、口元には笑みを浮かべたままなのに、スッと目を細めて、バジルさんが僕に言った。
「悪いけど、その依頼は引き受けられない」
正直、予想外の返答だった。思わず硬直してから、僕は改めてバジルさんを見る。
「どうして? 亡くなったはずの王族についての記事なら、新聞だって相当売れると思いますけど」
すると、フルフルとバジルさんが首を振った。そして再度言う。
「断るよ」
僕は思わず眉を顰めて、腕を組んだ。
「何故ですか? 既に他――例えば、女王国から、暗殺依頼でも引き受けているとか?」
「いいや。私は、この件には、まだ一切関わっていないよ」
「じゃあ、どうして?」
怪訝に思って尋ねると、バジルさんが不意に顔を背けた。
「ラーゼ君、君ならニコ殿下を逃がすために、敵を攪乱するといった行動に走るように、私は思うんだがね。どうだい?」
「……それが、最善ならば、そうすると思うけど。それが?」
「私はもう、君の死を見たくないんだ」
「あの、僕、生きてますけど?」
「――それは、非常に幸運だっただけだ。それも、再びローゼンクォーツ女王国の王族に纏わる事象で、君が無謀な行為をし、死を覚悟の上で動くと想定した時、私は、私が協力しなければ、それを阻止出来ると考えている。だから、断る」
バジルさんはそう言うと、じっと僕の目を見た。相変わらず口元には笑みが浮かんだままなのだが、先程までよりも、その眼差しは真剣だ。
「では、また。私はこの後、ちょっとした食事の約束があってね」
「――待って下さい」
「いくらラーゼ君の頼みであっても、それは聞くことが出来ないね」
そう口にし、引き止めるまもなく、バジルさんは部屋を出ていった。残された僕は、しばしの間、思考停止状態で、ぼんやりと正面のテーブルにある、ワインの空き瓶を見ているだけだった。