【5】僕は、ニコを失いたくない。



 ――まさか、バジルさんに断られるとは思わなかった。
 僕は道を歩きながら、今後の方策を練る。

 そうして、次に足を踏み入れた街でも、僕はいかにもバジルさんの配下の者がいそうな宿へと入った。すると、荷物を寝台に下ろしながら、ニコが僕を見た。

「なぁ、もう出てから一ヶ月近いけど……あと二ヶ月以内に到着するのか? まだ半分も行ってないんだよな……?」

 不安そうなニコの声に、僕は努めて笑顔を浮かべた。
 距離を取ろうとしていた街とは異なり、僕は今、無表情よりも笑顔を頑張っている。

「距離なら半分以上来てるよ」

 これは事実だったが、我ながら気休めに過ぎないと感じた。
 ニコも、恐らくは納得しない。僕の弟子は、非常に聡明だ。
 魔術樹の街にいた際、僕がそう言うと『弟子バカだな』と周囲に言われた記憶がある。。

「ただ、今度は出口側に敵密集地帯があるから、そこだね」

 僕は、事実を織り交ぜた『嘘』をつく事にした。問題が、『そこ』にあると、偽りを口にした。実際、敵の数は桁違いに多いが、僕から見れば、どうという事は無い。

「今までみたいには、通れないのか? 最初の感じでも……そんなに……」
「最初はまだ僕達が下にいるか定かでは無かったし、各地の通り道に分散していたけど、僕達が大陸を移動しているようだと言う判断はもうなされているだろうし、その際にローゼンクォーツで潜伏しなかったんだから、目的地は魔術湖の島――あるいはその向こうの可能性を多くの人々が考えているはずで、そうなってくると、帝国からの出口だけ見張れば良いから、分散しないで、帝国から出る場所に一括配置されてるはずなんだ」

 一気に僕は、そう続けた。決してこの旅路は楽なものでは無いのだと、そういう意図を込める。だから――緩慢な移動速度で、仕方がないのだと、そこまで言おうか思案したが、あえてそれは言わなかった。ニコの表情がどんどん青ざめていったからだ。

 少し、言いすぎてしまったのかもしれない。ニコは、常に自分が僕の足でまといだと感じているらしい。そんな事はありえないのに。ニコがいなければ、とっくに僕は生きてはいないだろう。俯いているニコを見据え、僕は細く吐息した。

「街……どうなってるんだろうな」

 呟いた弟子を見ながら、僕はそれとなく話を変えた。ここまでの旅における、戦闘の話に矛先を向ける。ニコは疑うでもなく、その流れに会話を乗せた。そういった素直な部分は、僕の中で、ニコを可愛いと感じさせる一要素だ。相変わらず僕は、ニコがまだ幼いように感じている。

 その後僕は、いつもより明るい口調を心がけて、街について語る事にした。立ち寄った穢痴族の者の家で、その時点ではまだ、魔術樹の街が無事だと聞いた話を思い出しながら、静かにニコに向かって、僕は笑う。

「――一週間持ちこたえていると言う事は、少なくともその時点で均衡状態だったんじゃないかと僕は思ってる。二・三日で攻略出来ないと判明して、対策と再投入の検討を一時的にしたはずだ。その後、僕達の目撃情報が出たから、今度は捜索側に一定数回されたと思う。僕達が移動して囮になる事でも、街は少し安全になる」

 すると、小さくニコが頷いた。ただ、少しだけ大人びた表情をしているように感じられて――けれどその理由が分からず、僕もまた頷くに留める。

 こうして、その夜は休む事になった。

 少しの間、ニコが寝入った後も、僕はバジルさんの配下の者が来ないかと、待っていた。しかし夜の十一時を過ぎても、来訪者がいない。自分から動くべきだと判断し、零時丁度に、僕は部屋から外へと出た。

 あるいはこの街には、バジルさんがいないのかもしれないが――いたとしても、まだ僕は、彼を説得する方法を、思いつかないでいる。

 ――僕は、ニコを失いたくない。

 それが叶うならば、何をしても構わない。ニコの寝顔を思い起こす。健やかな寝息をたてて、今もまだ、宿で眠っているはずだ。安眠の魔導をかけてきた。防衛面も万全だ。とはいえ、比較的安全なこの街にいる内に、手を打っておきたい。

 というのも、僕はもう、知っていたからだ。
 敵の会話を傍受し――既に、魔術樹の街が陥落している事を、僕は知っていた。
 ニコについた嘘は、ささやかなものではない。

「ラーゼ様」

 気配なく声をかけられたのは、その時の事だった。

 瞬時に僕は警戒し、いつでも武器を取り出せるよう一度目を伏せ準備をしてから、表情こそ変えずに、ゆっくりと振り返った。僕に気配を感じさせないというのは――相当な手練だ。だから、本来であるならば……敵であるならば、既にその人物は、僕を攻撃していたであろうし、僕は恐らく負傷していただろう。

 しかし現実はそうではないし、僕はその声に、聞き覚えがあった。
 だから、平静を装い、振り返ってから、まじまじと正面を見た。
 そこには、一人の青年が立っていた。

「何か?」

 口角を持ち上げている青年は、嘗ては僕も纏っていた、アメジストロゼリア帝国の皇帝陛下直轄部隊の正装姿だった。彼は、ラーゼに向かい、真っ直ぐに”刀”を突きつけている。これは――彼の出身集落で復古された、穢痴族の古い武器だと聞いている。

「用がなければ、会いに来てはいけませんか?」

 僕の声に、青年は右の口角を持ち上げた。
 スッと瞳を細めた少々釣り目の青年は、どこか狐に似ている眼差しで僕を見ている。

「お義父様でしょう? ラーゼ様は、俺の」
「――一歳しか、年齢が変わらない、元部下にそう言われても、実感はゼロだけどね」
「今は、副隊長の任にあります。今も、ラーゼ様の右腕として、働いていた時代が懐かしいですよ」
「ヒルト。君が、僕の右腕? 思い上がりも甚だしい」
「公的には、戸籍上は別として、現在僕はヒルト=クラインと名乗っています」
「興味がないよ」

 僕はそう告げたが、実際、当時の副隊長よりは、ヒルトの方が右腕と言えたなとは思う。言葉の通り、手足のように動いてくれた。尽くしてくれた。だからこそすぐに死ぬと思っていたが、随分と出世したものである。

 階級というよりも、クラインという名を聞いて、僕はそう思った。帝国の大貴族の名前だ。実際には僕の養子のままなのだろうが、公的には帝国貴族の縁者として過ごしているのだろう。外面的に、そういった声をかけ処遇をする貴族は多い。しかし本籍に、穢痴族の人間をいれる事は無い。

「皇帝陛下のご命令? 僕の暗殺が」
「いいえ。現在の俺の任務は別にあって、今は帰路の最中です。そうしたら、懐かしい気配を感じて――ここにいるのは、偶然ですよ」
「偶然再会した義父に、ヒルトは刀を突きつけるように、習ったの?」
「いいえ。自分より強いか同等の者に出会ったら、即座に首を落とせと習っています」
「……僕と同等? 僕については、当然、『強い』と認識しているよね?」
「まさか。僕よりも弱いと判断しているので、まだラーゼ様の首は繋がったままなんです」

 そう言うと、目を細めて、楽しそうにヒルトが笑った。
 僕は――この言葉が事実だと、今向き合って確信している。
 やはり、現役の人間と、街で長閑に暮らしてきた僕では、差がある。

 それも、ヒルトのような実力派が相手では、分が悪いのは当然僕だ。

 ヒルトの、サファイアのような青い瞳を見据える。僕にすら、穢痴族同士だというのに、姿を変えた状態に見せられるほどの腕前だ。黒い髪こそ自然のままだし、顔の造形も変わらないが、目の色だけでも、本来はこんなんだ。

 僕はそれをよく知っている。嘗て、彼の前で目の色を変えて見せていたのは、僕の方だからだ。今とは、完全に逆だった。

 背の高いヒルトは、僕の前に一歩進んだ。僕は動かない。動けないが適切だ。迂闊に動けば、僕の首が落ちる。それでは――ニコを守る事が出来ない。

 気づくと、僕は冷や汗を掻いていた。皇帝陛下からの接触がある可能性は考えていたが、ヒルトのような多忙な人物が直接顔を出すとは、微塵も考えていなかったのだ。僕は己の愚行を悔いた。

 隙はないかと考える。だが、黒い帽子をかぶったヒルトには、ブーツの爪先に至るまで、どこにも隙が無い。

 僕は、今のこの瞬間だけは、自分の命が惜しいと思った。
 ――ニコを、どうしても、絶対に、失いたくないからだ。