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 帰宅し、食後、部屋に戻った。部屋割りは、僕とロボットとソラネだ。ロボットがいるし、三人だ。ソラネはかなり安心しているようだった。旅疲れもあったのだろう、その日はすぐに眠った。本来は明日から研究で良かったのだが、あんまりにもソラネがやりたそうだったから、試しにやってみた結果である。また、本来ならば、余裕で一人一部屋取れるのだが、研究旅行未経験のソラネを言いくるめるのは、とても簡単なことだった。研究費に注ぎ込むから滞在費は安く済ませるのだという言葉を、素直に間に受けていた。このあたりも子供である。

 それから数日すると、ソラネが夢でうなされて、時に声を上げて泣いていることに気づいた。寝言を聞いてみれば、完全に逆レイプのPTSDだった。ある日、あんまりにも辛そうだったから、揺さぶって起こしてあげたら、目を開け呆然としたような顔で僕を見て、涙をこぼして、すぐにまたソラネは眠った。ドキリとした。怯えた子供の瞳だった。無垢で何も知らない目。それが、僕を見て、安心した姿。何度かそういうことがあったが、僕が起こしているのも夢だと思っているようで、かつ泣く方の夢は覚えていないようで、そのせいなのか、翌日のソラネはいつも、自信家の俺様で周囲に命令をしまくりながら、研究を熱心に続けている。驚かされるほどの集中力と頭の回転の速さだ。

 そして次第に、ソラネが僕に対して、気を許し始めた。
 おそらく注意していなければ、変化に気づかないだろう。
 同時に――徐々にソラネに対して、本格的に虫が集まり始めた。案外女のかわし方は、ソラネは上手かった。しかし男の性的視線には全く気づかない。予想通りだったが。仲良しになりたいのだと勘違いしているようだ。僕と父とロボットは、虫除けスプレーよりは効果がある。だからソラネには気づかせずに追い払った。

 そんな中、ある朝、シャワーあがりに、上半身裸の僕を、ソラネがまじまじと見ていた。

「どうかした?」
「――ああ、いや。背が高くて、筋肉もあって、羨ましいなと思っただけだ。顔もいいし」
「人種が違うからね。顔なら、僕には東洋人はみんな同じに見えるけど、ソラネのほうがいいんじゃないの? みんな言ってたよ」

 実際、みんな言っているが、僕にだってわかっている。抜群の美だ。
 しかしソラネは苦笑した。最近、時に苦笑とはいえ、笑う場合が出てきたのは進歩だと思っている。

「いいや。兄弟の中で一番背が低い。姉妹を入れても、双子の妹も俺より高い。唯一低いのは、姉だ」
「そうなんだ」
「ああ。それに――……俺以外の兄弟は、みんなどちらかといえば父親に似てる。母も美人だと言われはするが、どうやら俺は母似で、かつ両親の悪い部分の造形を引き継いだみたいで、ほかの兄弟と違って、一番顔が悪い」
「――は?」
「人間顔じゃないとは言うけどな、せめて俺も、お前くらいかっこよければな……」

 そう言ってソラネがまた苦笑した。思わず思考停止しそうになって、僕は冷や汗をかいた。何を言っているのか、最初は理解に苦しんだ。逆だ。ソラネが一番綺麗だ。これは僕だけの評価ではない。彼の家族ですら、そう考えている。しかし、冗談には聞こえない。

「――どうしてそう思うの?」
「みんな、俺の顔を見るとヒソヒソするんだよ。あれだな、なんで俺一人だけブサイクなのか話してるんだろ」
「ありえないだろうが! 逆に決まってんだろ! 君が良すぎるんだよ!」

 思わず素で突っ込んでしまった。
 すると、きょとんとした顔をしたあと、相変わらず苦笑交じりだがいつもより優しくソラネが微笑んだ。

「お前は優しいな」

 ――僕は言葉を失った。ソラネは、本当にそう思っているのだ。
 その後も時折家族の話をする機会があったのだが、ソラネは、たまにポツリと、どうして俺だけできないんだろうな、と言う。そして焦ったように、冗談だと言って話を変える。自分の研究の凄さに気づいていないのだ。実際調べた限り、彼の兄弟姉妹は皆優秀だ。しかしソラネが引けを取っているとは思わない。

 ただし別段、ソラネは評価されるために研究しているわけではないようだった。そしてしばらくして、対処薬がまず出来上がった。治験をして、本格的に製造を開始することになる。わずかながらの延命と、場合によっては一命を取り留めることが可能だと期待できる。そして無事に治験は成功し、同意を得た内の三名中、二名は、これまで発症後平均五日で死亡していた感染症なのであるが、二ヶ月程度、長らえた。さらに一名は、生還した。

 その知らせに、僕は大歓喜した。ソラネの実績と、僕の会社の利益が増したからだ。ソラネも大歓喜していた。しかし彼は、一名だけでも命が救えたといって泣いていたのだ。それを見たとき、また僕は冷や汗をかいた。外面では、僕こそが人の死を悼んでいるが、普段決して見せないソラネが一番、命の心配をしていたのだ。

 ――優しい。

 それはこれまでも度々感じてきたことではある。人の顔色を窺う部分もかなりあるとは言える。そのうえで、自信家な振る舞いをしているのだ。だが、そういう意味合いではなく、根が非常に優しく、呼吸するように気遣いしているのだ。実験動物にウイルスを注射する時に、一瞬苦しそうな顔をしたのをよく覚えている。放置されていた観葉植物が、枯れかかっているのを見て、水をあげていた。現地の人々の風邪や、たかだか転んでできた擦り傷の治療をしてあげたり、食事代がなくて困っていた同僚に、別のものが食べたくなかったから食べておけといって、そしらぬふりでおごってあげたりしていた。ひっそりとだったり命令口調だったり、何かと理由をつけはするのだが、僕にはただの優しい人にしか見えない。それも偽善ではないのだ。まさに純粋培養されたおぼっちゃまとしかいえない。子供といってもいいのかもしれないが、あざとさもなにもないのだ。少しだけ不器用だけど、その不器用な優しさが、いじましくてならない。

 僕は嫌な予感がしてきた。深くはまり込んでしまいそうな予感だ。
 これではまるで、恋だ。
 しかし――そう気づいたときには、もう手遅れだった。

 なにせ距離を取ってみようとしても、もはや無理だったのだ。ソラネを視界に入れておかないと、気がおかしくなりそうなのだ。無論、研究は真剣にしている。それでもどうしても、常に頭のどこかにソラネがいる。初めからソラネの外見には興味があったし、当初から機会を見て手を出す予定だった。しかしもう、そういう段階ではなくなっていた。

 治験が成功したので、一週間ほど休暇となった。
 ロボットを移動させておいた、二人きりの部屋。無防備に無邪気に、笑顔でソラネが言った。

「アルトは、休暇はどうするんだ? 帰国か?」
「ううん。ここにいるるもりだよ」
「そうか、じゃあ一緒だな」

 シャワーあがりで、髪を乾かし終わったソラネは、壁際に立っていた。
 気づくとほぼ無意識で、僕は歩み寄っていた。

「アルト?」

 ソラネが僕を不思議そうに見上げている。
 僕は右手を壁につき、左手で彼の頬と耳に触れた。

「?」

 そのまま唇に触れるだけのキスをした。

「!」

 一気にソラネが硬直し、その後我に返った様子で僕を押し返し始めたが、彼の腕力では無理だ。僕は、もう取り繕ったものではなく、普通の笑顔を浮かべていた。冷たく意地悪そうだと評判の笑みだ。