05
ところで、僕が入院して最初に考える事は、どうやって死ぬか、だ。
あてがわれた病室を見て、最初にカーテンとベッドの柵、シーツを確認する。すべてそろっていると、とりあえず安堵するのだ。いつでも、やろうと思えば死ぬ事が出来るという安堵だ。やらないが。
さてアヤノちゃんが、先日の面会時に、ペンケースを持ってきてもらった。
中には、始めから用意してあったのだという、カミソリが入っていた。二本だ。
せっかくリスカを止めようと思っていたのに、どうしてチェックの時に引っかからなかったのだろうかと嘆いていた。
ちなみにアヤノちゃんはカミソリの一本を相田さんに、自発的に渡したのだという。しかし相田さんは、ペンケースの中身を全て見せるように要求した。そして更に一本見つけたそうだ。
僕はその事を相田さんから聞いた。煙草の煙を吐きながら、僕はどこかで、やっぱりなと思っていた。アヤノちゃんの症状――パーソナリティ障害は難しい。友人に何人かいたのだが、切りたくなると聞く。そして自傷行為は、僕自身がした過去がある。危険物の持ち込み方を考えた過去がある。
当時の僕とアヤノちゃんの違いは、カミソリを自発的に渡すか渡さないかだろうか。僕の場合、切りたいと人に訴える事も無かった。だが気持ちは痛い程わかる気がした。誰にも理解されない感覚がして、世界と自分が隔絶されている気がして、衝動的に切りたくなるのだ。赤い血を見ると、生きていると実感する事もあった。痛みなど無い。あるいは、痛みを感じた時は、それが生の実感となり嬉しいのだ。
「俺がカミソリを管理しようと思うんだ」
「僕は処分すべきだと思います」
僕はきっぱりと告げた。絶対に切りたくなる。その時、相田さんにカミソリを求めるだろう。そしてその際に相田さんがカミソリを持っていたら、口論になるのではないか。リスカを止めてくれる他者。その愛しい恋人に泣きながら「刃物が欲しい」すがる光景が頭をよぎった。僕の実体験ではないが、嘗てそうしていた友人がいたから。重なった。
「たぶんカミソリを持っていたら、『どうして私の事を思うのに、カミソリを渡してくれないの』と、なる気がします」
「そっか」
「同時に我に返った時に、『どうして私の事を思うのに、カミソリを渡したの』と、なると思いますよ」
自由にさせてくれなかったという思いと、(仮に渡した場合には)死んでもいいという意味なのかという疑いが、アヤノちゃんの中でせめぎ合うんじゃないだろうか。そんなアンビバレントな考えが、本当に彼女の中にあるのかなど知らない。ただ僕の友人はそうだったなと思い出しただけだ。イオリ君という名前だった。
ともかく僕には意見を伝えることしかできない。後は、相田さんの選択次第だろう。
これこそ病棟の看護師さんに報告すべき事だろう。しかし僕は、そうはしなかった。そしてその日の夜、やはりアヤノちゃんは相田さんにカミソリを要求した。衝動が収まらないのだという。彼女は相田さんが唯一渡した蛍光ペンで、手首を切るかのように、何度も腕に線を引いていたらしい。相田さんは「捨てた」と伝えたそうだ。事実は知らない。ただアヤノちゃんに、「捨てた事を皐月君に聞いてみろ」と言ったそうだ。僕は「捨てたはずだ」と告げた。その夜は暫らく、捨てたのか僕の元に聞きに来た、アヤノちゃんと話をしていた。そうしたら、「落ち着いた」と言ってくれた。「ありがとう」とも。僕がした事はと言えば、ただ分かったふりをしていただけだ。僕は彼女の救いにはなれない。
そんなアヤノちゃんは、今日は外泊(外泊訓練)だ。
僕は何事もなく帰ってくるとは思っていないが、何事もなければ良いなと思っている。僕はアヤノちゃんの事を信じていないのだ。それでもカミソリの事を看護師さんに言わなかったのは、どこかで、彼女は死なないと信じているからでもある。あの程度の傷で死ぬわけがないとすら思っているのかもしれない。その程度のOD(大量服薬)で死ぬはずがないと思っているのかもしれない。
半面、アヤノちゃんに、そういった自傷行為がいかに心臓に負担をかけるのかを話したりもする。
ああ、また僕の中で矛盾が始まる。
人は簡単に死んでしまうのだ。だけどアヤノちゃんは、きっと死ぬ事の困難さを知る側の人間だと思う。勿論こんなものは僕の一感想にすぎない。きっとアヤノちゃんの主治医の先生が、なんとかしてくれる。そう信じるしかない。
――ちなみに、相田さんに後で聞いた。カミソリ類は破棄していないのだという。
そして本日、アヤノちゃんは帰ってきた。何事もなかった。すべては僕の勝手な空想だったのである。