08



 翌日僕には、カウンセリングの予定が入っていた。臨床心理士に憧れていた過去も僕にはある。アラキさんと名乗ったカウンセラーの先生は、二人で答えを見つけていけるといいと言った。

 それから昨年、ワーカーの阪田さんにも同じようにしたのだが、僕はインテークをやりやすいようにと意識してプロフィールを述べた。――本当はインテークを、僕自身が出来たらいいなと、いつか夢に見ていたのかもしれない。

 その時僕はふと、理由なしに死になくなる事を思い出していた。僕は尋ねた。

「唐突に意味もなく死にたくなるんです。やらないんですけど」
「どうして死なないの?」

 返ってきた言葉に、僕は羞恥と困惑にかられた。どうせ僕には死ぬ勇気など無いのだ。言い訳ばかりを考えて死なないのだ。そんな思いで言葉に詰まりながらも、僕は答えた。

「なんで死なないんでしょうね。あれこれ言い訳して、ただ――」

一つだけ決めている事がある。

「次にやる時は、完璧に死ねる方法でやります。首攣りか飛び降り」

 実行方法を無意識に呟いていた。そしてまずい事を言ってしまったと思ったその時、アラキさんに聞かれた。

「どうして死にたいの?」

 正直理由はない。だがその時、勝手に口が動いた。

「自分のいなくなった後の世界の事を考えるとわくわくするんです」

 きっと僕のいない世界は、平和だろうなと、漠然と思う。

「昔はこんなに辛い現実なら、死んだ方がマシだと思って、衝動的に色々やってたんですけど」

 この部分、現実の辛さの話には、アラキさんは頷いてくれた気がする。

 ――ただし改めて振り返った今ならば、死なない理由を即答できる。

 自殺に失敗した時のリスクが大きすぎるからだ。例えば手首に一本線を引くだけでも跡が残る。

 それはそうと、カウンセリングを受けるきっかけとなったのは、僕の認知の歪みが理由だ。アラキさんは言う。

「自分をダメだと思う人は、成功してはいけないと思っているような行動が多いみたいだよ」

 『ダメだから成功しない』という考えや、『やはり駄目だった』という再認識を求めるあたりが、認知の歪みという事なのだろうか。

「ただ年々、何事もどうでも良くなっちゃって」
「死ぬのもどうでもいいんじゃないの?」

 この日は、あっさりと、『どうでもいい』と思っている僕の内心を暴かれ、カウンセリングは終了した。死にたいと思う事自体は悪くないのだという。問題はそれを考えの中だけに留めておけるかで、現在の僕にはそれが出来ている。それを知りちょっとだけ気分がよくなった。

 OT室とPT室は、二階にある。ランク2だから僕は階下へ一人で降りる事も可能だ。カウンセリングルームの事はまだよく分からない。白が基調の落ち着いた部屋だった。OT室は作品が壁に展示されていたりと賑やかだ。ちなみにSW室は一階だ。

 そうだ、SWの阪田さんと、僕は先日グループホームの見学に出かけた。連れて行ってもらったのである。この事も後に記そう。

 とにかく僕は元気になり始めた。

 カウンセリングを受けてから、僕の気分は上がり始めたのだ。躁状態の予兆である。寝ずに、これからの計画を立てたり、家計簿を付けたり、掃除をしたり、洗濯物をたたんだり、ごみを捨てたり、苦手な事もすべてやった。本をきれいに整理整頓し、朝を迎えた。そんな日々が続いている。

 朝、電気がつくのは六時なのだが、この日は眠れないのもあって、朝の五時半には病室から出ていた。すると先客がいた。じっとカーテンを開けて、窓の外を見ている青年がいたのだ。こちらに気付いた様子はない。

 誰だっただろうかと考えながら、その端正な顔を一瞥する。

「何を見ているんだ?」

 その時不意に声をかけられて、僕は硬直した。名前は確か……如月さんだ。この地域では珍しい名前だ。まさか声をかけられるとは思っていなかった。なぜなら彼は、個室に引きこもって過ごしているようだったからだ。なる程、この時間帯は病室の外にも出るのか。僕は、折角の機会だから、会話を続けたいと思った。そしてその時の『元気』な僕は、それを実行するには十分な行動力を兼ね備えていた。鬱の時ならば考えられない行動だ。しかしこの時の僕は軽躁状態だったのである。僕の場合の軽躁は、人よりも少しだけ元気になるというのが正確だ。そしてこの期間が終わると疲れてしまうのだが……。

「雪がすごいなと思って」

 僕は静かに答えた。彼の黒い瞳を見上げる。

「もう三月なのに、こんなに雪があるんだな」
「この街の事は、僕もよく分からないんです。僕は奥会津の出なので」
「東京で暮らしていたのは、大学進学がきっかけか?」
「え?」

 如月さんは、なぜ僕が東京にいたと知っているのだろう。――そう、僕は昨年の四月まで、池袋のすぐそばに住んでいたのだ。最寄駅は千川だった。

「訛りが無い。しいて言えば、東京訛りだ」
「ああ……そうですか? 自分じゃよく分からなくて」
「大学卒業後、就職。その仕事はやめた」
「あはは、そうです」

 僕は空笑いして、本当に、あははなんて言っていた。まぁ僕のありふれた軌跡など、簡単に想像できるか。しかし、あまりにも唐突だ。ドキリとしてしまった。

「動揺しても顔に出ないんだな」
「そんな事ないですよ。今なんて吃驚しすぎて声が出なくて」
「嘘だな」

 僕は、普段よりもゆっくりと瞬きをした。視線も動かさなかったし、表情も変えずに笑っていた。だが、きっぱりと断言された。

 精神科には、わざと煽ってくる患者もいる。だが僕は、無駄な争いは嫌いだ。それよりも、いきなり如月さんは何を言い出したのか。なぜ僕に絡んできたのだろう。あれか、入院して知人もおらず、そわそわしているのか。そういう人も多いからな。

「鋭すぎですよ!」

 僕はとりあえず、大げさに笑って見せた。そして話を変える事にした。

「そういえば如月さんは、どうして入院を?」
「言いたくない。俺はプライバシーをペラペラ喋ったりしないんだ。お前は鬱か?」

 自分の事は言わないのに、人には聞くのか。何だか面白い人だな。こういう、感じの悪い人間が、僕は嫌いではない。

「躁鬱です」

 名称がどのように変わろうとも、結局、躁鬱は躁鬱と説明するのが一番わかりやすいのではないだろうか。やはり名称が変わった統合失調症は、すでに認知されて久しい。精神分裂病よりも統合失調症という名前が一般化されている。ただ、『統合』だとか『統失』だとか言われている。略されるようになるのはスティグマのはじまりだと、専門学校時代に先生が言っていた事を思い出した。

「軽躁か?」
「はい。ちょっと人より元気になりすぎる程度なんですけどね」
「そうか。お前が一番まともそうに見える」

 それだけ言うと、如月さんは踵を返した。まとも、か。まともの定義はなんだろう? 全てを定義づけて生きていくのも退屈だろうなとは感じるけど、少し気になった。

 それから僕も部屋へと戻り、起きたまま朝を迎えた。

 ただこの会話を機に、時に如月さんの姿を目で追うようになった。僕の中での如月さんは、他の患者さん同様、眺める対象となったのだ。如月さんには日に一度、面会に来る青年がいる。

 さてその日はその後朝食をとり、そして詰所の申し送り後、僕は外へと出た。いつも通り相田さんと共に外に出た。

「アヤノと住む家を建てたいんだ。犬も猫も飼えるような」
「素敵ですね」夢が広がっていて良いな。
「子どもは多分女の子だと思うんだ。名前は決めてる」
「何にするんですか?」
「花音」相田さんの頬が緩んでいる。
「可愛いですね。じゃあ双子だったら?」

 僕らはそんな幸せな雑談をしていた。アヤノちゃんと相田さんの恋は順調だ。
 ――質問されたのは、その時だ。実に何気なく聞かれた。

「皐月君は、自殺願望ある?」
「あはは、秘密です。相田さんは?」
「俺はある」

 そんな話をして、僕らは笑いあった。こんな雑談、きっとありふれている。
 さてその日は、それからOTへと出かけた。今では午前午後ともにOTをしているのだ。そしてまた、今後の予定をたてた。

 僕の毎日は決まりきっていると思っていたのだが、そんな事は無かったのかもしれない。毎日塗り絵をする計画もたてた。少し前だったら、この時間を僕は、文章を書く事に当てたいと願っただろうが、今はそんな気も起きない。問題は塗り絵以外だ。

「調理でもしてみようか?」
「はい」

 笑顔で頷いた僕は、それから簡単に料理を作る計画を立てた。メニューは焼きそば。単純にレシピを検索するのが面倒だったから、頭に作り方が入っているものから選んだ。そして毎週月曜日には、掃除の成果を見てもらう事にした。僕は日曜日に掃除をする事にしたのだ。実際に先週掃除をしたら、看護師のマサミさんにも褒めてもらった。

 そんな午前中を終え、病棟へと戻る。そして煙草を吸いに出ようかと考えた時、ふと面接室が目に入った。如月さんが入っていくところだった。一緒に、僕と同年代だろう青年が入っていく。面会だ。友人か、同僚か、兄弟か。茶髪の青年は、猫のような目をしていて、実に柔和な笑みを浮かべていた。兄弟だとしたら、まったく似ていない。僕は如月さんが笑う顔をうまく想像できなかった。

 僕の両親は奥会津、弟は埼玉にいるから、面会にはなかなか来ない。友人も皆遠方だ。別に寂しくはないが、たまに自分は独りだなとは感じる。ただそれが嫌ではない。気が楽なのだ。僕は、人との上手い距離の取り方が分からない。

 さて――夜がくるたび、最近の山口君は浮かない顔をしている。

「國岡さんがいないとさみしいですよね」

 山口君は國岡さんに懐いていた。確かにホールのヌシと化していた國岡さんの不在は、特に夜は、ぽっかりと隙間ができたようだった。ただ、それ以外はいつもの通りに一日が進んでいく。特に何事もなく。