09




 そこにちょっとした変化があった。

 週末、いつものごとく僕は外出した。ただし、家計簿をつけ始めて節約を考え出した僕は、カラオケに行くのをやめて、散策する事にしたのである。

 そして奥まった場所に、一軒のカフェを見つけたのだ。節約中の僕に、入るつもりなどなかった。だが、ふと窓硝子越しに中を覗いて気が変わった。そこには、如月さんの面会にいつも来る青年がいたのである。黒いギャルソンエプロンをつけていた。働いているのだろう。正直、この時の僕は、好奇心の塊だった。
迷いなく中へと入り、ブレンドコーヒーを頼む。ネームプレートを見て、青井という名前を確認した。だが、だからといってどうするという事もなく、声のかけ方を思案した。繰り返すが、僕は軽躁状態だったのだ。自分にはある程度何でもできるはずだと思っていたのである。

 しかし、結局上手い言葉が浮かぶ前に、青井さんは奥へ消えた。入れ替わりにやってきたのは、僕よりも年若いだろう男の子で、十代後半からに十歳前後に見えた。長身で、あるいは如月さんよりも高いかもしれない。金色の髪に、ごついピアスをしていた。ネームプレートにはタカノと書いてある。僕がした事と言えば名前の確認だけだった。結局僕は、コーヒーを飲みほしてから、外へと出たのである。

 それから数日が過ぎたある日の事だった。

「皐月君!」

 その日も眠れないでいた僕は、声を掛けられ、横になったままで時計を見た。午前6時を回ったところだった。半身を起こしながら、廊下を走る音と放送を聞いた。

「ドクターハート、ドクターハート、至急心の医療センター四階――」

 ドクターハートとは、非常時の医師の招集だ。ベッドから起き上がり、僕は、「はい」と返事をして、ベッドの周囲にあるカーテンを開けた。するとそこには、急いでいる様子の相田さんがいた。

「ちょっと来て!」

 その言葉に、僕は走るようにして相田さんの後についていった。向かった先のネームプレートには、山口隆文の文字。山口君の部屋だ。開け広げられたその扉の向こうでは、看護師さんたちがせわしなく動いていた。首に、細い紐が見える。

「いつもなら起きてくる時間なのに、遅いから声をかけて扉を開けたら、もう……」

 もう『死んでいた』と相田さんは言いたそうだった。

「五時半に巡回した時は普通に寝ていて……鍵をしめて私が部屋を出た時には、何事もなかったのに」

 唇を抑えて、マサミさんが険しい顔をしていた。同時に涙を堪えているようにも見えた。ドクターたちが駆け付け、その場はどんどん騒々しくなっていく。汚物で染まったシーツ、飛び出した山口君の眼球――そして首に絡みついている紐。それを見てから、僕は相田さんに目配せして、その場を離れた。

 立ち去ろうとした時、意外な事に如月さんとぶつかりかけた。

 それでも必死で歩きながら僕は考える。あの紐は、山口君のスニーカーの紐だ。靴紐の規制が、現在の病棟では過去よりも緩くなっている。僕は相田さんをちらりと見た。

「相田さんが最初に見つけたんですか?」
「うん、六時になる十五分前だったと思う。ティサーバーが動き始めてたから。いつも俺と山口君が雑談を始める時間なんだ」

 それで呼びに行ったのだと、相田さんは続けてぽつりと呟いた。
 僕はふと、五時半から五時四十五分の間に、山口君は亡くなったのかと考えた。なぜその時間帯を選んだのだろう。それにしても、あの山口君が自殺するとは思えない。だが、他殺なんてまず起こりえないだろう。山口君の部屋へは、防犯カメラに映る事なく行く事ができるが。

 違う。そうじゃない。問題は、だ。
 山口君が死んでしまったのだ。
 もういないのだ。

 ――僕はこの記録の冒頭を、OTの他埼さんに読んでもらったのだが、その時に少し話をした。

「僕は、死んだ友人と、長らく連絡を取らない友人は、同じだと思うんです」

 元気にしているかなと、たまに思い出すが、連絡は取らない。そんな友人が僕には沢山いる。連絡が来ても、一読して頷き、返信せずに終わる事も多い。死せば連絡は取れないが、それは連絡を取っていない友達と変わらないのではないか。それは洋二さんについての話の時だ。記憶を回想して思い出を記録にする事、追憶にふける事は寂しくも優しい。

 だが眼前に生々しい死を見せつけられて、僕は記録を綴れるのか不安になった。そして無理だと悟った。いつか書ける日がきたら書こう。ここからは、それまでの間は、心の中のメモとする。これまで通り日常は記録に書きたいが、上手く書けるか不安になった。記録にしようと思い描く文章が、現実に浸食されていく。僕が書かなくても誰も困らないという事実以上に、僕にはそれが怖かった。記憶と現実と文章が混ざり合って壊れていく感覚だ。

「鍵はかかっていたのか?」

 その時後ろから声がした。振り返ると如月さんだった。

「開いていましたよ」

 相田さんが言う。相田さんは人見知りをしない。

 それよりも僕は怪訝に思った。寝る時も山口君は戸締りをして寝るから、巡回の度に看護師さんたちは扉の開閉をしているはずだ。その彼が、よりにもよって自殺する時に限ってドアを開けておくのか? 看護師さんの閉め忘れという事もないだろう。先程マサミさんは、怒るような、泣くような顔で、鍵は閉めたと口にしていた。だとすればやはり山口君は、自殺するというのに、わざわざ自分で鍵を開けたのだ。

 きっと誰かに気付いてほしくて。
 僕にそれは出来なかったし、相田さんも一歩遅かったのだ。
 鍵をあけたのはきっと、昔僕が大量服薬した時に電話したのと同じで無意識に助けを――……。

「自殺じゃない」

 ぽつりと、しかしはっきりと聞き取れる声音で、如月さんが言った。僕の思考が途切れた。

「巡回時間は深夜にもっと間が空くし、鍵を開けて自殺するなんて変だ」

 僕が意識的に脳裏から締め出していた事を、如月さんがはっきりという。相田さんは、山口君の部屋とそこへ至る通路を眺め、それから角度的にその付近を映す事が決してない監視カメラを見上げた。相田さんが腕を組む。

「じゃあ誰が殺ったんすか?」

 その後現場を見た僕達三人は、詰所に呼ばれた。他の患者さんの動揺を防ぐためにという理由で、今回の件を口止めされたのだ。山口君の事は、入院患者には、退院したと伝えられる事になったそうだ。その日は警察もやってきた。詰所にいた僕の耳に漏れ聞こえてきたのは、耳触りの良い低い声音だった。先程森永と名乗った刑事さんの声だ。

「自殺で決まりだろうな。その方向で話を進める」

 しかしその内容は、あまり気分の良いものではなかった。僕は……やはり自殺と聞いてもピンとこない。

 さてその日は、現場を見た僕ら三人も事情を聞かれる事になった。山口君と比較的仲が良かった事も手伝っているのだろう。待ち時間、僕は山口君の事を思った。山口君は、いつも音楽を聴いているのに、音楽依存を心配していた。老人に優しかった。夢があると言っていた。青春を取り戻すはずだった。もうすぐ二十歳になるはずだった男の子。

「どうぞお入りください」

 その時声をかけられた。入れ違いに相田さんが出て行った。僕が中へと入ると、二人の刑事さんがいた。現在は、面接室が、取調室と化している。

 僕は質問に一つ一つ答えた。何を聞かれたかは、当たり障りのない事ばかりだったので、あまり覚えていない。ただ強く、一つ告げた。

「山口君が自殺するなんて、とても思いませんでした」

 もちろん病状だって関係しているかもしれないが、本当にそんな風には見えなかったのだ。僕はまた、人は簡単に死んでしまうのだという事を忘れかけていたのかもしれない。じくりと胸が痛んだ。事情聴取が終わり部屋から出ると、ちょうど隣の、もう一つの面接室の扉も開いた。

「話す気にもならない」
「待てって如月。悪かったよ、お前が殺人事件を引き寄せるなんて言って。本当に悪い。ただの冗談!」

 森永刑事が頭を下げていた。如月さんは不機嫌そうだ。何となく二人は知り合いなのだろうと分かった。それにしても――殺人事件を引き寄せる? 一体どういう意味なんだろう。

 その日から変わった事はと言えば、紐類の持ち込みの規則が改めて厳しくなった事だった。

 新聞のお悔み欄にも、記事にも、この閉鎖病棟での自殺は取り上げられなかった。

 理由は分からない。親御さんが許さなかった、病院が圧力をかけた、など、僕と相田さんは数日後の朝、喫煙所で語り合った。相田さんは外泊に行っていたのだ。この頃にはお悔み欄と事件欄を見る事が、僕の日課になっていた。

 そしてその日の事件欄を見て、僕は唖然とした。そこには、ハルコさんの死亡記事が出ていたのだ。まさか、山口君の後追い? いやそんな馬鹿な。死因は? 胃の中から多量の睡眠薬が見つかったらしい。事故と自殺の両面から捜査していくらしい。

 やはり人は簡単に死んでしまうのだ。
 まさか今回の入院中に、二人もの人の死に関る事になるとは思わなかった。

 自殺の一番多い理由は、健康問題だというが、精神病はどうなのだろう。病気を苦にした自殺。精神病になったから死にたいというよりも、死にたいと思って精神科へ連れてこられる人が多い印象だ。