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 山口君の自殺から、一週間がたった。

 病棟は変わらない。僕は平静を取り戻した――のだろうか?

 わからない。ただ今日はいつもより遠出をしている。記録を書く手はやはり止まってしまった。ぶらぶらと歩きながら思案する。今日の行き先を。今後の行き先を。音楽を聴きながら。音楽機器はイヤホンがあるから、普段から夜には詰所預かりだった。現在の病棟では、日中でも禁止になった。外出時はOKだから、僕はボカロ曲を聴きながら、当てもなく歩いた。

 そして気づくと、例のカフェのある通りに辿り着いていた。通り過ぎようと思った時、中に知った顔を見つけた。如月さんか。そういえば昨日外泊に出かけていくところを見たな。考えながら立ち止まり、中を眺めていたら、如月さんの隣にいる森永刑事を発見した。きっと事情聴取じゃない。やはり二人は既知だったのだろう。その時、如月さんが不意にこちらを見た。気まずさを覚えた僕は、その場を立ち去ろうと足に力を込めた。だが、その瞬間お店の扉が開いた。狼狽えて息を飲む。すると黒いギャルソンエプロンをつけた青年が、微笑しながら出てきた。確か青井という名前だった気がする。僕が動揺していると、彼がこちらを見た。

「こんにちは」穏やかな声だった。だが僕の動悸は収まらない。一気に緊張した。
「こ、こんにちは」僕の声は、少しだけ震えてしまった。
「雨が降り出しそうですし、少し休んでいかれてはどうです?」
「いや、えっと……その……」どうしても口ごもってしまう。
「さぁどうぞ。如月もいますし」

 だからこそ気まずいのだと思う。だが僕は、繰り返すが、断れない人間なのだ。反射的に作り笑いを浮かべて頷いていた。

 そして中に入ると、当然の様に如月さんと森永刑事が座るカウンターの椅子をひかれた。店内には他にひと気はなく、店員は、青井さんと目つきの悪いタカノ君だった。

「座ったらどうだ?」

 突っ立っていた僕を見てから、如月さんが視線で座るよう促してくれた。おずおずと座った時、隣で森永刑事がネクタイを緩めた。

「確か君も、入院患者だよな?」
「はい……皐月と言います」
「そうそう皐月君だ。いつから入院しているんだ?」
「一月の二十一日から」
「――本当、如月の周りには、情報提供者も寄ってくるんだな」

 そういうと森永刑事が喉で笑った。如月さんは、彼の言葉に、眉間にしわを刻んでいる。何の話だろう? 首を傾げた僕の前に、青井さんがブレンドコーヒーを置いた。

「この前はこちらをご注文下さいましたよね? 砂糖とミルクは無しだった」

 覚えていたのかと思った時、如月さんが目を細めた。

「この前?」
「先日も一度いらして下さったんです」
「へぇ。道でカフェを見たら、俺に面会に来ていた青井が見えたから、興味本位で入ったのか」
「いただきます」図星だった僕は、そう告げ、コーヒーを飲む事で声を封じた。気まずい。すごく気まずい。
「皐月君、いくつか聞いてもいいか?」

 すでに聞いているじゃないかという屁理屈は飲み込む事にして、僕は静かに森永刑事に向かって頷いた。

「高遠ハルコという女性を知ってるか?」
「ああ、はい。一緒に入院をしてました」

 てっきり山口君の事かと思ったら、違った。

「話をする仲だった?」
「ええ、まぁ」山口君の死もそうだが、僕はまだ実感できていない。
「亡くなった事は知っていた?」
「新聞を見たので」そう、ハルコさんなど活字で見ただけだ。

 空虚感を覚えながらも素直に答えると、森永さんが如月さんを見た。

「何が聞きたい? 如月は」
「口の軽い警察官に、捜査協力する気なんて起きない」

 如月さんはそう口にすると、アイスコーヒーのストローを銜えた。

「まぁそう言うなって。新聞にも出てる事なんだから」

 それから森永刑事が真顔になった。

「被害者は高遠ハルコ。ベンゾジアゼピン系睡眠薬を大量服薬させられた後、死亡。直前に、こころの医療センター四階から電話がきてる。発信者は不明。誰がどうやって殺したか」

「え?」

 森永刑事の言葉に、僕は思わず眉を顰めた。

「殺人事件だなんていきなり聞いたら驚くよな」
「いえ。ハルコさん、薬変わってたんですか?」

 確かハルコさんは、ベンゾ系の薬は飲んでいなかったはずだ。正確にはネルボンを飲んでいると言っていた。薬をあまり変えない主治医は、僕と同じで水野先生だ。

「どういう意味?」

 森永刑事に問われて我に返った。まずい、なんて説明したら良いんだろう?

「そいつは犯人じゃないみたいだな」

 興味がなさそうに、如月さんが言った。

「ただ興味深いな。薬の話をする患者同士は多いのか? 商品名でなく、薬品名を知っている患者も」

 如月さんは、やっぱり口ではともかく、興味がなさそうに見える。本当に興味深いと思っているのだろうか……?

「ベンゾ系は、依存性があるから、好きな人は大好きで調べつくしてる人がいます。例えば七緒君とか」
「誰だ、それは」
「最近入院してきた、僕とタメの子です」
「へぇ。で、お前も依存してるのか?」
「そんな事は無いと思います、多分……ええと、患者同士で薬の話は、する人としない人にきっぱり別れる気がします」
「高遠ハルコはする側の人間だったんだな?」
「はい」先生も同じだし、薬の話題で盛り上がったことがある。
「お前も」如月さんの目が、あからさまに細くなった。
「まぁ」事実なので頷くしかない。
「皐月」不意に名前を呼び捨てられて驚いた。
「はい?」必死で返事をした僕は、それから首を傾げる。
「思った事を言ってみろ。一分時間をやる」

 思った事? そんなものは一つだ。僕は、疑われているのかもしれない。外出もできるし、薬も自己管理だから手持ちがあるし。勿論薬に減りが無い事は、すぐに証明できる。そして夜の外出は、僕は家族同伴でなければできないから、ハルコさんの死亡時刻には病院にいたわけで、アリバイと俗に称されるようなものだってある。何よりも、僕は、僕がやったのではないという事を知っている。そして僕の病気に、健忘はない。

 では誰がハルコさんを殺した?
 本当に殺人事件だとすればの話だが。
 間違えて薬を飲ませた? ハルコさんの本来の薬と間違えて。多分そういう事を、如月さんは言いたいのだろう。

 飲ませる方法はいくらでもある。摂食障害でもあったハルコさんは、目の前にあれば飲食物を手に取ることが多かった。それを知っていれば、接触さえすれば、自ずと事が運んだだろう。ただ、薬の種類が違っていた。

 間違えるのは、薬の知識が半端だからで、その上で薬を手に入れる事が可能な人物――やはり患者だと言いたいのだろうか? 何となく僕は違うと思う。

 確かにハルコさんは、恋愛関係ならば、いくらでも確執があったかもしれない。だけど、僕は医療従事者が犯人である気がする。患者の犯行に見せかけるために、そうするのが一番いいと推測できる人々だからだ。だけど、何の為に?

「恋愛関係の確執?」
「え?」僕は思わず声を上げた。如月さんは、今何と言った?
「詳しく話してくれ」

 僕は考えを口に出していなかった自信がある。

「一分経ったら、思った事を話せと言っただろう? 僅かでもお前は考えた」
「待ってください。僕が何を考えたかなんて、そんなの……」

 分かる筈がないではないか。

「如月には聞こえるんですよ。心の声が」
「は?」青井さんの言葉に、僕は思いっきり声を上げてしまった。

 ――他人の思っている事が聞こえる?
 それは即ち幻聴だ。如月さんは統合失調症で入院しているのだろうか?

「そう思ってもらって構わない」
「まさか」気づけば呟いていた。すると森永刑事が腕を組んだ。
「俺もまさかって今でも思ってる」

 森永刑事が苦笑した。その時それまで黙っていたタカノ君が咳払いした。

「試しゃぁいいだろ、如月君の能力は本物だってわかるように。確かにその力はわけわかんねぇけど」

 確かにタカノ君の言うとおりだ。
 僕は頭の中で、ハルコさんの恋愛関係、例えば山口君との事などを思い出した。一通り回想した。それがひと段落ついた時だった。

「病院の自殺も関連事件だろうな。連続殺人だ。俺も『皐月と一緒で』医療従事者の犯行だと思う。まだ続くかもな」
「如月、どういう事だ?」
 森永刑事が頬杖をつく。すると如月さんが片目を細めた。
「山口と高遠は、肉体関係があったらしい」
「なる程な。そんな話は初耳だ」

 森永刑事がわざとらしく口笛を吹いた。如月さんは再び僕を見る。

「それで、皐月。医療従事者が犯人だとして動機は?」

 本当に如月さんには、僕の考えが分かるのだろうか? どんな風に? 嘘を考えれば、それが聞こえるのだろうか? まぁいい、僕は幻聴だと思う。きっとどこかで情報を、例えば森永刑事から事前に聞いていて、僕をからかっているのではないか。そう思う方が、精神的に健康だ。

 しかし、動機か。秋江君の言葉がよみがえる。チヤホヤされたい。ハルコさんを好きな誰かが嫉妬した、という動機ではない気がする。チヤホヤされたがるハルコさんに嫌悪を抱いていた人物の仕業なんじゃないだろうか。それこそ連続殺人だとすれば、ハルコさんの相手をした山口君の事も嫌悪した。あるいは、もっと単純なのかもしれない。恋人がいない誰かが、肉体関係を持つ擬似的にでも恋人関係だった二人を忌まわしく思ったのかもしれない。もし今後も続くのならば、危ないのはアヤノちゃんと相田さんじゃないのか。

 あれ、どうして僕はこんな事を考えているのだろう。すべてただの推測だけど。
 ため息が漏れそうになったので、押し殺す。そんな僕を、如月さんがじっと見た。

「そうなると、あの病棟にいる人間の犯行という事になるな。薬を手に入れられる立場という事は医師か?」
「患者の薬は金曜日に一括処方です。紛失した記録は無いんですか?」
「薬の管理をしているのは看護師だな」
「病棟の事を一番知っているのも看護師さんかもしれません」

 実際には、病棟の事をもっとよく知るのは、入院回数や入院歴が長い患者かも知れないし、ほかのスタッフの人たちだって詳しいとは思うが。

「誰が犯人だと思う?」
「山口君の部屋を最後に巡回したのは、マサミさんです」

 たった十五分しか遺体発見までに時間が無かった。ドクターが呼ばれたという事は、たぶんまだ温かかったのではないか?

「証拠は?」

 無い。全部僕の思い付きだ。そして普段の僕は、こんな事は考えないし、考えたとしても口には出さない。

「新しい名探偵ですね」

 青井さんが微笑を崩さぬまま、そんな事を言った。僕の思考が途切れた。

「今度のは、随分頼りねぇな」

 タカノ君がため息をついている。
 僕には話が見えなくなった。すると森永刑事が言った。

「如月は、『助手』なんだよ。殺人事件はおろか、証人まで引き寄せるうえ、名探偵まで引きずり出す。大抵の事件でいるんだよな、犯人の想像がついてる『名探偵』が」

 僕は唖然とするしかなかった。そんな話はあるのだろうか? 殺人事件を引き寄せる名探偵なら納得できる。事件が無ければ探偵は成立しない。だが、助手が引き寄せる?

「名探偵の思考を読んで、代弁する」

 森永刑事は、それから静かに立ち上がった。

「証拠固めと事実確認は警察がする。手柄はもちろん、俺がもらう」

 そういって彼は楽しそうに笑うと、立ち上がった。店を出て行く。お金はカウンターの上に置いてあった。一万円札が五枚だ。ちょっと多くはないだろうか?

「協力料だ。お前は一万。俺たちも一人一万。残りの一万は、飲食代全員分と、店への善意の寄付だ」

「はぁ……」

 それにしても、本当に心を読まれている気分になる。しかしそんな事を信じてしまっては、僕の病名は変わるだろう。けれど仮に真実だとしたら? 僕がここの支払いをどうすればいいのかなんて思っている事まで伝わるのだろうか?

「支払はいらない。だろ? 青井」
「ええ。僕の好奇心を満足させて下さる名探偵には、基本的にご馳走しますから」

 微笑した青井さんが、僕に二杯目のコーヒーを差し出した。その時、如月さんが改めて僕を見た。

「それと俺の力は、条件がそろわなければ使えない。常に聞こえているわけじゃない」
「条件?」首を傾げて聞いてみた。
「落ち着ける空間で、青井のブレンドが無いとだめだ。その上で、真相にかかわる人間がいる事」
「結構役立たずですね」

 僕が思わずそう言った時、タカノ君が吹き出した。

「てめぇ結構言うな」

 そうだろうか……。そうかもしれない。ただ『元気』な僕は思ったままの事を口にしてしまう事もあるのだ。

「力を発揮するための条件付けとして、コーヒーっていうのはともかく、安心できる空間の定義が分かりません」

 気づけば僕はまた定義を探していた。しかしすぐに単純明快な答えが返ってきた。

「そりゃ俺っすよ。腕にだけは自信があるんで」

 タカノ君がニヤリと笑った。なる程、暴力か。いや……護衛とでもいえばいいのか?

「刑事さんと言う素晴らしい協力者もいるのですが」

 その時初めて、青井さんが顔を曇らせた。ため息が漏れ聞こえてくる。

「名探偵がいないんですよね」
「あはは。これまでも、事件の度に、近くで探してたんですか?」

 事件があればだけどな。そう思って僕が冗談でまた「あはは」なんて笑った時、店内の空気が凍った。そして舌打ちしたタカノ君がポツリと言った。

「十年前は固定でいたんだよ。その後からの名探偵は、続かなかったり、頭を病んだり、お前の言うとおり事件周囲の人間から探したりだ」
「前は?」どういう意味だろう。
「死んだんだよ」
「え」タカノ君の低く小さな声に、思わず息を飲んだ。
「タカノ、それ以上は」青井さんが半眼になった。
「おぅ」タカノ君が視線をそむける。
「皐月さんは、きっともしかしたらおそらく死にはしないかもしれませんよ」
「な」

 その時、笑顔に戻った青井さんが、不穏な事を言った。なんだと?
 二人のやり取りに、僕は困った。笑う所なのか? 事実亡くなったのか?
 如月さんはと言えば、ただ黙っているだけだった。