11



 外出から戻り、僕は相田さんと七緒君とポーカーに興じた。そうしながら思う。すべては僕の妄想だったのではないかと。本当は如月遥斗なんて人物は入院しておらず、山口君も退院したのだとしたら?

「あ、帰ってきた」

 七緒君の声に視線を向けると、そこには青井さんに付き添われている、如月さんの姿があった。やはり夢ではないのだろう。

「もうすぐご飯だし、トランプ止める?」

 七緒君が言うと、相田さんが頷いた。

「俺、アヤノと話してくる」

 僕もまた頷き、席を立った。トイレに行く。監視カメラが無い縦長の廊下。中央には大きな窓がついた詰所があるし、ホールの側面で、各病室の入り口も並んでいるから、人通りが多い。カメラが不要なくらいの人通りだが、僕だったらこの通路に三つあるトイレのいずれかで、自殺する。一番人目につかないと思うから。入院当初にあたりを付けた場所だ。みんな見ているような場所程、人目にはつかない。そう考えながら扉を開けた。

 そして硬直した。むせ返る血の匂い。便器に座る人間。壁に、床に、ダラダラと付着している紅い血液。そこには、カミソリが落ちていた。首からいまだ血を吹きだしているアヤノちゃんの姿がそこにはあった。僕は目を見開き、固まった。
理性がエマージェンシーコールを押せと言った気がする。
感情が、とりあえず扉を閉めて、見たくはないものをシャットアウトしろと言った気がする。だけど僕はただよう死臭に飲み込まれ、ただ動けなかった。

「何やってるんだ、皐月君? アヤノ見なかった?」

 そこへ明るい声がした。ダメだ。見せてはダメだ。本能的にそう悟り、首だけで僕は振り返る。しかし、遅かった。相田さんは笑顔のまま中を見た。次第にその目に力がこもっていく。大きく開けられた双眸。もっともこの惨状を見てはダメな人なのに。

「アヤノ?」

 相田さんは、無理に唇にだけ笑みを張り付けるようにして、一歩前へと出た。そしてアヤノちゃんの、首から噴き出している血に手を当てた。

「死ぬなよぉ」
「相田さん」
「死ぬなよぉ、アヤノ、アヤノ、アヤノ!」

 相田さんが、アヤノちゃんの体を抱きしめた。彼女の肢体は、力なく相田さんのほうへ倒れる。

「ここは病院だし、まだあったかいしよぉ、大丈夫だろ? なぁ」
「相田さん、今看護師さんを呼んで――」
「うああああああああああああああああああああああああ」

 相田さんが泣きながら叫んだ。その声に、看護師さんたちが飛んできた。相田さんは、その場で、片手でアヤノちゃんを抱いたまま壁を殴り始める。看護師さんたちが止めに入った。それでも相田さんは殴り続け、暴れ、ついに手から血が流れ始めた。

 相田さんが保護室へと連れて行かれる。警察を呼べという看護師さんの誰かの声がした。何も考えられなくなった僕は、連れて行かれる相田さんをただ目で追う。相田さんは、ずっと暴れている。アヤノちゃんの名前を叫んでいる。そのうちに詰所の中へと相田さんの姿が消えた。保護室の場所は、詰所の奥だ。

 僕が眺めていると、その視界の端に、まだ荷物を持ったままの如月さんの姿が入った。静かに立っていた彼と、僕は目が合った。如月さんの隣には、青井さんもいる。

 動けずにいた僕のほうへ、如月さんが歩いてきた。そして、荷物を床に置くと、僕の腕を引いた。その感覚に、ようやく僕は体の動かし方を思い出した。

「お前が危惧していた通りになったな。皐月、落ち着け。名探偵の推理は当たるものだ」

 僕は。
 違う。

「僕は名探偵なんかじゃない」

 息苦しくなっていく。とにかく苦しい。ざわざわする。僕は何を見た? 嘘だろ? 僕は脆い。多分『普通』の人より。大きな出来事に堪えられるような心のつくりをしていないのだ。それこそストレス脆弱性モデルが当てはまる人間なんだ。人の死になんて、本来堪えられないのだ。誰も死んでいない世の中にすら堪えられないのだから。僕はダメなのだ。

「皐月」
「僕はダメだ」
「そんな事は無い」
「何もわからないくせに」

 普段の僕ならば絶対的に言わない言葉だ。
 他者が他者をわかる事など、決してできないのだから。

「ああ、ここじゃ何もわからない。ここじゃなくとも、俺に推理はできない。だからお前が必要だ」

 必要? 僕は人に必要とされた記憶なんてない。口ではいくらでも言える。だけど僕を必要とする人間なんて、本当はいないのだ。

「皐月が必要なんだ。どうやってこのひと気が多い場所で、持ち物チェックがある場所で、死んだんだ?」

 鈍い頭痛がした。唇を噛みしめて俯くと、涙がこぼれてきた。今はきちんと、僕は悲しいから泣いていた。アヤノちゃんが死んでしまった事に対してではなく、自身の不要さに気付いたからだ。最低だな。ただただ考えずにはいられない。殺されるのなら僕で良かったのに。不要なのは僕なのに。

 ――そうだ、殺されたのだ。

「自殺じゃない」気づけば呟いていた。

「そうか」
「日勤にマサミさんがいる」

 如月さんは、静かに頷いた。

「カミソリは、前にアヤノちゃんが持ち込んだのを、相田さんが保管してた」
「なるほど」そう口にしながら、彼は僕の腕を握る手に力を込め直した。
「まずいよ。相田さんが犯人にされる。指紋も出るだろうし、薬だって相田さんが盗んだようにいくらでも見せかけられるし、相田さんはランク1で、ハルコさんの事件の日、単独外泊してた。だけど犯人は相田さんじゃない」
「分かった。必ず森永にそう伝える」
「嘘つき」
「何故だ?」
「信じてないだろ。どうせ信じてないんですよね? 精神病患者の妄想だと思ってるんだ」
「そんな事は無い」
「嘘だ」
「嘘じゃない。俺は『今回は』お前の助手なんだ。探偵を信じず、必要としない助手がいるか?」
「だって僕は探偵じゃない」
「現にお前の推測通りに事件が続いただろうが」
「僕が変な推測なんかしたせいで、死んじゃったのかな? 嘘だろ。ああ、うあ、もう」
「違う。お前のせいじゃない」
「じゃあ何のせいですか? 何を恨めばいいんですか? 僕は自分を恨む事が一番楽なんだ。放っておいてください。僕は最低最悪の自己中なんだ。別に否定してほしいわけじゃない。変に慰めないでください」
「俺を恨め。俺は殺人事件を引き寄せるらしいからな」
「そんな事出来るわけない。出来るわけないじゃないですか。もう嫌だ。僕は、死に……ダメだ。ああ、うああ、僕はダメだ」

 死ねるわけがないじゃないか。
 そんな気がして、やっぱり僕ってダメだなと思った。

 それから如月さんの腕を振り程き、僕は無言で詰所へ向かった。そして水薬をもらった。ついてきた如月さんは、ずっと僕の隣にいた。青井さんは、如月さんの部屋に荷物を置きに行ったようだった。

 薬を飲むという行為自体で、僕は少しだけ落ち着いたから、涙をぬぐった。もう乾き始めていたのだけれど。

「すみませんでした」
「何が?」
「取り乱しちゃって」

 僕は笑った。多分いつもの通りに。すると如月さんは険しい顔で、睨むように僕を見た。

「名探偵にはよくある事だ。慣れてる」

 その後、第一発見者として、僕は事情聴取をされたと思うのだが、何を答えたのかはいまいち覚えていない。そして僕は、鬱になった。ただひたすらベッドの上にいた。寝てはいない。眠りもせず、食べず、ただぼーっと横になっていた。そしてずっと考えていた。僕が死ねばよかったのにと。そのまま五日くらいたったころだった。

「皐月君、面会だよ」

 看護師の仲野さんに声をかけられた。誰だろう? 心当たりはない。よろよろと半身を起す。するとカーテンを開けた仲野さんの後ろに、青井さんの顔が見えた。如月さんへの面会のついでだろうか。

「面接室まで来てくれませんか?」
「はい」

 今度は断れないからではなかった。断る気力がなかったのだ。立ち上がるとふらついた。先に歩いて行った仲野さんを見る。僕は青井さんに支えられていた。

 久しぶりに廊下に出ると、ひと気が無かった。無言で歩き、ホールへ着いた時も、ひと気は無かった。

「誰もいない」
「ええ」青井さんは微笑したまま頷いた。
「……殺人事件が起きた、もしくは自殺が二件とでも報道されたから、退院させた保護者も多いし、病院側も五階や三階、外泊に患者を行かせたんですか」
「その通りだと聞いています、森永さんから。そして君があの日話した通り、相田宗助さんが疑われていますよ。彼の無罪を証明できるのは、皐月さんだけです」
「僕じゃなくて森永刑事とかのお仕事ですよね」

 気づけば僕はまた笑っていた。また? あれ、いいや、いつぶりに笑った? そんな事を考えながら面接室に入ると、森永刑事とタカノ君、そして如月さんが座っていた。四人がけのテーブルには、椅子が一つ追加されている。

「単刀直入に言って、被害者をどうやってトイレに連れ込んだのかが分からない。相田宗助なら、恋人だったから不可能じゃない」

 そう言いながら、如月さんが僕を見た。彼の正面にはコーヒーが置いてある。青井さんが淹れたものだろうか? 森永さんとタカノ君は何も言わない。僕は、青井さんが扉を施錠する音を、静かに聞いていた。

 どうやって連れ込んだか?

「入っているところに、押し入ったんですよ。看護師さん達全員が持っている鍵で、トイレの鍵も開くから」
「返り血は?」如月さんが片目を細めた。
「お風呂の介助用のビニールの服を上に来てたんじゃないですか。正面のシャワー室で、直後に血を流して捨てたんだ」

 如月さんが頷いた時、森永刑事が立ち上がった。そのまま出ていく。
 僕は無気力にそれを見ていた。
 すると青井さんが僕の前にカフェオレを置いた。アイスで作って持ってきていたようだ。

「具合悪そうだなぁ」

 タカノ君が言った。まぁ僕の具合は、良いか悪いかで言えば、悪いのかもしれない。僕はここ数日、煙草さえ吸いに出ていないのだから。常時ならばありえない。

「もう大丈夫だ。後は、森永達が絶対に証拠を見つけてくれる」

 如月さんがそんな事を言った。僕には、無根拠に思えたが、何だかどうでも良かった。もう用は済んだだろう。それ以外、僕は特に何も考えなかった。

「皐月」如月さんはずっと僕を見ていた。
「何ですか?」
「一分やる。存分に自己嫌悪していいぞ。聞いてやるから」
「僕は自分が大好きなので嫌悪したりしません。平気ですよ。有難うございます。それに大丈夫なんでしょう? 僕も大丈夫だから。聞いてくれなくていいです」

 実際には――嫌悪する程、もう僕は、僕自身に関心が持てない。

「お前は嘘がうまいな」

 如月さんは、そういうと立ち上がった。

「俺は今から退院する」
「おめでとうございます」
「お前も元気になるといいな」
「ありがとうございます」
「死ぬなよ、お前は」

 それが、如月さんが退院する時の、最も印象に残った言葉だった。僕はそのままふらふらと病室へと帰り、如月さん達を見送る事は無かった。