12
それから数日が過ぎた。病棟はガラガラだ。
気だるい昼下がり。今でも夢のようだ。
この前新聞には、看護師逮捕と大きくマサミさんの記事が出た。ローカルではなく、全国ニュースでも取り上げられた。本当に証拠が出たのだろうか。僕には分からない。
記憶の中で血飛沫と笑顔が混じり合う。奪われたのは命だけなのだろうか。僕には、死ぬ権利と人としての尊厳も奪われた気がする。瞼の裏に焼き付いて、決して離れてくれない感覚がした。そんな事件だった。三人もの人が死んでしまったのかと、病院一階のカフェで僕は、ブレンドを飲みながら考えた。現実感を喪失してしまった気がする。
病棟には人が戻ってこないが、僕は少しずつ元気を取り戻した。ラピッドサイクラーな僕は、二週間くらいで気分が変わる。そのせいなのか、単純にタバコが吸いたくなったからなのかはわからないが、外出するようになり、眠り、食べるようになったのだ。
相田さんは五階に行った。あの事件の前から残っていて、僕と話をするのは、七緒君だけだ。僕は今、三階(開放病棟)に移動した。任意入院になり、ランク1になった。精神科の入院形態はいくつかある。これで僕は、単独外泊も可能になった。GHの外泊訓練を踏まえてのことだろう。七緒君も移動した。少しずつ少しずつ何事も変化しているのかもしれない。三月は順調に過ぎて行く。三月の半ばだというのに、本日は大雪が降った。
窓の外を眺めながらカップを傾けた時、受付のところに立つ如月さんと青井さんの姿を見つけた。こちらに気づいている様子はない。僕は声をかけようか迷ったが、やめた。如月さんは患者同士の付き合いを嫌がる方の人間な気がする。これはもちろん言い訳かもしれない。僕はもうあの事件のことを思い出したくないのだ。あんな事件があっても、この病院は無くならない。他に患者の行く場所もない。地域の施設は、まだまだ数が少ないのだ。
それにしても、昔は開放行きなんて、一生退院できないイメージだったが、今は違う。望んで開放病棟に行く人も多い。開放には、日中は鍵がない。ボディチェックもない。それこそ妙な開放感がある。
僕は静かに席を立ち、開放に戻ることにした。エレベーターを待ちながら、全てが僕の妄想だったらと思って怖くなる。怖いけれど、その方が誰かが死んでしまうよりはずっといい。それから一度病室へと戻り、僕はカップを持ってホールへと出た。4階と違ってひと気は少なく、高齢者が多い。時折老人ホームにいる気分になる。ティサーバーの前に立ち、僕はインスタントコーヒーを淹れた。どんどん雪がひどくなって行く。椅子に座り、僕はそれをただ眺めていた。それからどのくらいの時間が立ったのだろう。
「皐月君、面会だよ」
不意に言われて驚いた。まさか、如月さん達だろうか? そう考えながら視線を向けると、半分ほど開いた透明な扉の向こうに、森永刑事の姿が見えた。スーツの上にコートを羽織っていて、手には鞄と箱を持っている。
それから看護師の高邑さんが、面接室の電気をつけてくれた。案内されるがまま僕は中へと入り、森永刑事も椅子に座る。扉が閉まり、二人きりになった。
「元気にしてた? いや、入院しているのに聞くのも変か」
森永刑事が楽しそうに笑う。僕も笑っておいた。実際、明るく話しかけられると、気持ちが少し楽になる。
「森永刑事はお元気でした?」
「刑事なんて呼ばなくていいから。元気元気。毎日事件を解決してる」
「あはは」
今度こそ僕は笑った。事件がそんなにあるとは思えない。
「ところで皐月君。来週から一緒に旅に行かないか?」
「え?」僕は、笑みを浮かべたまま硬直した。頬がひきつる。
「君、一人で外に泊まれるんだよな?」
「は、はい。一応」いける決まりだが、行ったことはない。
「俺がついてるし、さっきちらっと聞いたら、看護師さんは良いって」
「え、ええと……」
看護師さんの許可を取ったということは、すでに行く方向で話が進んでいるのではないか。来週? 今日は、ホワイトデーの日曜日。まさか明日からじゃないよな。一週間は、日曜日から始まるという計算だろうな……。
「三月十六日月曜日朝六時に迎えに来るから。一応届けも一週間分で。じゃ、よろしくな」
「待ってください」急すぎる。
「行きたくないか? ダメか……?」
森永さんが目に見えてかなしそうな顔をした。
胸が痛い。僕は頼まれるとただでさえ断れないのに、こんなのダメ押しだ。
「行きたいです!」
「良かった」一転して森永さんの表情が明るくなった。騙された気分である。
「ところでどこに行くんですか?」
首を傾げた僕に、森永さんが即答した。
「青猫館」
だがその言葉の意味がわからない。有名な建物なのだろうか。第一どうして僕を誘ったんだろう。聞いてみようと口を開きかけた時、森永さんが立ち上がった。そして帰ってしまった。僕はその日の夜、静かに荷造りしたものである。その日は結局眠れなかった。翌朝荷物を持って病院を出た。エントランスの正面に森永さんの車があった。僕は免許を持っていない上、車には詳しくないが、高そうな車だなと思った。覆面パトカーではないと思う。
乗り込み、座り心地の良いシートに腰を預けた僕は、笑顔の森永さんを一瞥した。
聞いておかなければならないことがある。
「僕は何かした方がいいですか?」
「ああ、推理を頼むよ。名探偵」
「え」まさかの言葉に目を剥いた。
「時計塔っていう島があるだろ?」
「どこにですか?」さも当然知っているだろうという風に聞かれたのだが、僕は知らない。
「海。そこは明治か大正か戦前だったか戦後だったかに、大富豪が買い取った島だろ?」
「年代すら不明ですし、僕に聞かれても……」
「まぁ昔は昔。今はそこに、島の持ち主、菅原一族が住む青猫館がある」
時計島の青猫館。変わった名前だ。名前の由来はなんだろう?
「その館の主が、ミステリーツアーみたいなことをやっているんだ」
「ミステリーツアー?」
行き先不明の旅行のことではないだろう。行き先はもう決まっているようだし。だとするとホテルを貸し切りにして行われるイベントのようなものだろうか。
「そう。主の出す謎を推理する、という趣旨なんだ」
「つきとめたら賞金がもらえるとか?」
何せ大富豪らしいのだし。そういうゲームなのかと思って僕は尋ねた。すると森永さんが神妙な面持ちになった。
「いや、賞品だ」
森永さんが、ハンドルを握る手に力を込めたのがわかる。
それから気だるい眼差しに変わった。
「何がもらえるんですか?」少し緊張しながら僕は聞いた。
「如月遥斗」
「え?」
返ってきた簡潔な言葉に、僕は思わず目を見開いた。
「勝者の助手になるそうだ。あいつには推理ができないからな」
森永さんがため息をついた。赤信号。ハンドルの上で頬杖をついている。
「ええと、森永さんは、如月さんを助手にしたいんですか?」
「大ハズレだ、名探偵。悲しいよ、俺は」
森永さんが、片手で両目を覆った。あからさまに悲しそうに吐息する。
「そんなことを言われても」僕には状況がわからないのだから、仕方が無いではないか。
「俺は警察官なので、事件にしか興味がありません。仕事熱心だろ、俺」
「何か事件があったんですか?」
「まぁね。聞いてくれよ。館の主には、亡くなった双子の弟がいる。自殺として処理されてる。結果として、そいつは弟の死によって莫大な保険金を手にし、両親の遺産も一人で相続した。これがもし自殺じゃなかったら? 事件だろ」
「今って双子でも検査で別人だってわかるんですよね?」
「検査は無しだ。公的に戸籍上、双子の兄で間違いない。勝手に捜査をする理由もない。これは一度完結してる事件なんだよ」
走り出した車の中で、僕は考え込んだ。よく分からないことだけが分かった。
「如月もこの事件の真相を知りたがってる。だから勝者の助手になると言ってるんだ。館の主も、『自分が双子の弟で無いことを証明しろ』なんて出題をしてる。如月限定で。入れ替わり殺人でも事件だ。そのために館主自ら探偵選抜試験まで用意してるわけだ」
ふぅんと一人頷き、僕は目を伏せた。如月さんが、本当に人の心の声が聞こえるのなら、すぐに真偽はわかりそうなものだけどな。そして気づくと寝ていた。