15
そして僕らは再びダイニングに入ることになった。しかし食欲なんてわくはずもない。僕の席は、角を挟んで洋二……戸籍上洋一さんの隣、如月さんの正面、逆隣は森永さんだった。
「それにしてもまさか皐月に会えるとは思っていなかったよ」
懐かしい声で言われて、僕の涙腺は再び緩んだ。早く夕食のお薬を飲まなければ。
「病棟の決まりで持ち物には名前を書かなきゃならなくて、僕は君から借りた本に名前を書いてしまったんだよね。覚えているかな?」
「……今も、返してもらった本を持ってます……」
「僕が名前を書いたハンカチを貸したことは?」
「借りたまま今も持ってます」
泣きながら僕は答えた。楽しそうな洋二さんの声と、僕の涙を含んだ声しか周囲には響いていない。だけど別に構わない。生きていたんだ。そうじゃなかったらこんな風に2人しか知らないことを、次々と口にできるわけがない。
しかし如月さんの声が甦った。生きているのだから、少なくとも入れ替わっているのだ。どうして? そんな必要はないではないか。
必要だったとすれば、それこそこの世界から消えてしまいたくて、消えた証明が欲しかったんじゃないだろうか。あるいは消えた後の世界を見て見たかった。その方がすんなりくるのだ。ストンと胸に落ちる。だけど洋二さんは人を殺したりしない。じゃあ何故一人自殺した?
いや、違う。やっぱり洋二さんは死んだりしない。
生きているという意味じゃない。自殺したりしないという意味だ。僕の中で洋二さんは誰よりも死ぬ困難さを知っている人だった。そうだ過去形だ。落ち着こう。目の前にいるのは、洋二さんを殺した相手なんじゃないのか。うあ、考えたくない。なのに気づけば考えてしまう。じゃあ今も言葉をかけ続けている、この優しい人は誰だ? いいや、やはり自殺したのかもしれない。もしも本当に自殺だとすれば、どうしてこんな謎かけをして、まるで一見あざ笑うようなことをしているのか想像がつく。僕が殺人だと一瞬でも思ったのは、洋二さんの死を認めたくなかったからだ。僕には論理的な思考なんてできない。――洋二さんは、ずっと書いていた。『菅原洋二の探偵日誌』を。そうだ、であった時からあの人は探偵だったじゃないか。
目の前の人は、やはり洋一さんなのだ。あの日誌に綴られていた日々の記録を、さも自分のことのように話しているのだ。弟の死をいたんで。心の中でだけ生きているんじゃたりなくなったから。
「一緒に、鶴ヶ城会館にいきましたよね?」
「懐かしいな。僕が秘密でチューハイを飲んだんだ」
「桃」
「グレープフルーツじゃなかったかな?」
「そうだよね。僕が薬の作用が強まるからやめた方がいいって言ったのに、洋二さんは……」
僕は泣きながら笑った。やはりこれは、探偵日誌の内容だ。洋二さんはいつも、真実に少しだけ嘘を混ぜて書くんだと言っていた。実際には、僕たちはあの頃、近所の公園で、缶ビールとコーヒーを買って座っていたのだ。
「病院を脱走した時のことを覚えてます?」
「二人で郡山まで行ったね」
本当は脱走したのは僕一人で、駅に走っている途中で捕まった。ああ、涙が止まらない。止まらないよ。どうすればいい? 多分今の僕は躁鬱混合状態だ。無性に洋二さんに会いたくなった。二人きりで話がしたくなった。
「もういい皐月」
如月さんの声で僕の思考は限界になった。全てを感情に飲み込まれて行く。もう僕は笑えなかった。ただ泣いていた。号泣だ。男泣きでは多分ない。男の子なんだからなくなと言われるような、みっともない涙だと思う。
「動機はそれで納得する。だからもういい。洋二は死んだんだな」
「生きてます」
「心の中でだけの記憶を俺は生存しているとは認めない」
僕たちのやりとりに、洋一さんが苦笑した。
「どんな結論に至ったのかはわからないけれど、その推理で進めるのならばもう一つ謎を。どうして如月には、僕の心だけ読めないのだろうね」
「仮に本当に心が読めるとしたら、僕は二種類しか方策を思いつかない。如月さんが集合知的に相手の感情を読み取る脳機能を持ち合わせているか、脳の電気信号として他者の感情を読み取っているかじゃないですか。そのどちらにしろ、双子だと信号や機能が似る部分があるから、混線してるんだ。さっきの双子の女の子の心が読めるのか試すといいですよ」
「如月は菅原洋二の心を読んで助手をしていたんじゃないのかい?」
洋一さんの声に、僕は首を振った。
「本当に洋二さんの考えがわかってたら、如月さんは絶対に止めてる」
「――確かに俺には、洋二の考えはわからなかった」
如月さんがポツリと言った。多分、だからこそだ。僕と洋二さんが似てるだなんて言ったのは。
「いいや、心が読めなくても断言できる。そっくりだよ、お前と洋二は」
すると青井さんが頷いた。
「確かに雰囲気がそっくりですね」
「涙脆いところもな」
タカノ君が目を細めて僕を見た。ただ一人僕は首を振る。
森永さんだけが首を傾げた。
「そうか? 俺には、皐月君は皐月君に見えるぞ」
彼の表情がすごく優しく見えた。そうだ、誰も洋二さんの代わりにはなれない。
その時、安芸さんが腕を組んだ。
「よく分からないが、館主は館主なんだね? 全てはわかっていたことだけれど!」
「貴方は何もわかっていないでしょう? 私には理解できるわ。ここにドラマがあったのね」
柊さんが言うと、晴日くんが頷いた。
「脳の機能の話を僕は受け入れられないけど、思い出話は記録物があればできると思う。過去のことだから双方の記憶が曖昧で、ありもしない話でも形作ることが可能だと考えられるから。ただ仮に思い出の記録があるというのなら、僕は見て見たいよ。如月さんが認めた唯一の名探偵の記録」
それは、無理だ。
無意識に僕はそう、『考えてしまった』。
「どういうことだ、皐月」
僕は重大なミスを犯してしまった。如月さんには、死んだと思って欲しかったのに。
「なるほど、そういうことか」
如月さんが、険しい顔で僕を見た。僕は曖昧に笑った。もう涙は乾いていた。
「そうだったな、お前は俺が、人の心を読めるとは信じていないんだったな。その上、嘘を考えたらそれが聞こえるのかとも疑問に思っていたな」
「そうですよ、あたりまえじゃないですか」
「俺の力と、洋二の嘘を試したな」
「そうかもしれません」
「自分さえ騙すのか。本当にお前は嘘がうまいな」
「森永さんが、安芸さんの推理は当たらないって言っていたのを聞いて確信したんです」
僕は笑った。ただ笑った。馬鹿みたいに笑ったのだ。
そうだ――先ほどの僕の思考は全て嘘だ。一番最初に考えたとおり、胸にストンと落ちたとおり、目の前にいる人物は、やはり洋二さんなのだ。晴日君が言ったことも正解だ。
記憶は曖昧になるものだ。探偵日誌は実在する。だけど。
「洋二さんは、その探偵日誌を、僕に渡しましたよね」
「そうだったね。あの頃は小説家志望だった君に、入院中のことを書いてみて欲しいと」
「僕は、二人で話し合ったことを記録しているふりをしていたんだ」
「どういう意味?」
「僕は事実を忘れたくなかったから、日誌に記すはずだったことじゃなくて、本当の出来事を書いていたんです。だから、日誌に記すはずだった内容を覚えているのは、洋二さん本人以外あり得ないんだ」
「皐月意外にその証人はいないね。君は如月のことすら騙せるみたいだし」
「証拠固めは俺の仕事だ。それで皐月君、どっちなんだ?」
彼は、洋二さんだ。僕は森永さんを見た。
「洋一さんです。自殺したのは洋二さんだ」
「皐月!」
如月さんが声を荒げた。だけど僕は、何があっても洋二さんの味方だから。たとえ、ただ一人真実を知る僕を殺そうとしてもだ。もう僕が知る洋二さんじゃなくなっていたとしてもだ。僕が今の洋二さんなら、僕を殺す。
「流石にその心は俺でも読める。安心しろ如月」
森永さんはそう言って如月さんを見てから、僕の肩をバシバシと叩いた。そしてフォークを持つ。
「とりあえず食べよう」
ああ、僕のことを信じてくれる人は、この世界に一人でもいるのだろうか。ただ、もう、僕はどうでも良くなった。だって、洋二さんが生きているのだから。
結局食事は喉を通らなかった。
その後、僕達は客室へと案内された。一人一部屋だ。十二個部屋はあるようで、うち六つは、館主・執事・シェフ・双子の姉妹・メイドさんが使っていた。残りがちょうど僕たちだ。如月さんたち三人と、森永さん、僕、名探偵達。正当者がもっと多かった場合は別の階の部屋を、館の人々が使うはずだったらしい。むしろこんなに多く残るとは思わなかったと洋二さんに言われた。いや、洋一さんと呼ばなければ。そんなことを考えながら僕が扉に手を掛けた時だった。
「お前は一人になるな」
如月さんに腕を引っ張られた。考えてみると、この人はよく僕の腕を引っ張る。脱臼したらどうしてくれるのだろうか。
「脱臼で済むなら安いだろう。名探偵の推理は当たる。お前は死を推理したな。間接的に自殺するつもりか?」
「まさか。考えすぎですよ」
僕は顔を背けようとしたのだが、無理やり向き直させられた。
「お前は森永かタカノと一緒に眠れ」
「一人で大丈夫です」
むしろ一人になりたい。そう考えていたら、森永さんが腕を組んだ。
「そんなに心配なら、如月が同じ部屋で眠ったらどうだ?」
「部屋替えも面倒ですしね。昨日と同じで、僕はタカノと眠ります。名探偵の数的に部屋は空きましたけど、どの部屋も基本的には二人部屋ですしね」
「確かに移るのだりぃな。青井君の言う通り」タカノ君が頷いた。
「如月の部屋は、一人分空きがありますしね」
三人にそう言われたので、僕は言葉に詰まった。如月さんと一緒になるのは気まずいから嫌だ。嫌だ。嫌ですからね!
「好き嫌いの問題じゃないだろうが。いくら嫌だろうとも、これは譲れない。この際、安芸と同じ部屋でもいいから一人になるな」
「如月さん、よろしくお願いします」
僕は初対面の人と同じ部屋で眠るなんて、緊張して無理そうだ。まだ如月さんの方がいい。僕の言葉に、如月さんがふてくされるような顔で頷いたのだった。
そして僕たちは、十時ごろ電気を消した。隣り合わせのベッド。無言の空間。眠れなくて、僕は寝返りを打った。意図したわけせはないが、天井を見上げて寝ている如月さんを視界に捉える。
――洋二さんは、どうして如月さんにだけ、謎を出したのだろう?
「……今思えば、俺を試していたのかもしれないな。自分が不甲斐ない。絶対無二の存在だと信じてたあいつを判別できなかった」
「起きてたんですか」
「ああ。それと、一つ言い忘れたことがあるんだ」
「なんですか?」
「お前の気持ちは、青井とタカノがいなくても読めるんだ」
「え?」
驚いて瞬きをすると、如月さんが横になったままこちらを向いた。
「いつもではないけどな。病院でもそうだったし、今日の探偵選抜試験前もそうだった。難点は、嘘の考えは嘘のまま読んでしまうことだけどな。他の奴らの声は、もっと曖昧に聞こえるんだ。だから真実を聞き取るのがやっとなのに、お前の心の声ははっきりとしすぎているんだ」
何故なんだろう。僕にはその現象自体が、まだうまく把握できない。ただ今日一日で、信じようという気にはなってきた。
「別に信じなくてもいいんだぞ」
「信じません」
「本当に嘘がうまいな」
如月さんはそう言うと苦笑した。そうだろうか。僕は正直者だと思うのだが。それから僕は、眠れなかった時用の追加の眠剤を飲んだのだが、やはり寝付けなかった。なので、ずっと如月さんと話していた。
「如月さんの前では、洋二さんはどんな人でした?」
「本当にお前そっくりだったんだよ」
「僕の前では、基本的に無表情でしたよ」
「鬱だろ? 最後の頃はそうだった」
僕は洋二さんほど重い鬱の人を見た記憶がほとんどない。如月さんが、少し大きく吐息した。ため息まではいかないが、疲れが見えた。
「最初病院で見かけた時、お前も無表情だったぞ」
「そうでした?」
「話したらすぐに笑ったから安心したけどな」
「最初から僕のこと洋二さんに似てるって思ってたんですか?」
「いいや。最初は、人形みたいだなと思った覚えがある」
「人形?」能面みたいな顔だったということだろうか?
「壊れそうに見えたんだ。我ながらよくわからないな」
壊れそうか。だったらまだいい。僕はまだ壊れていないように見えるということなのだから。僕は普通だ。元気だ。
「無理をするな。具合、悪くなっただろう」
「そんなことないですよ」
「そうやってお前もいなくなるんだろうな。いいや、それだけは阻止する」
「残念ですけど、もともと僕は如月さんのそばにはいないので、いなくなれませんよ」
「今いるだろう。目の前に。できれば二度と会いたくなかった、俺こそな。事件に巻き込むことになるからな。どうして俺は事件を引き寄せるのか」
「如月さんは、観測者なんじゃないですか? それこそシュレディンガーの猫みたいな。きっと事件なんてないんですよ。如月さんが見るまでは。如月さんがいなかったら、全部自殺で処理されてた」
「俺がいたから他殺になった?」
「そこは、真実が明らかになったって換言しておきましょうよ」
「物は言いようだな」
如月さんが呆れたように言った。まぁ確かにそうだ。そこで、そういえばと僕は思いついた。
「いつから心の声が聞こえてたんですか?」
「物心ついたときだ。最初は誰にでも分かるものだと思っていた」
「その頃は青井さんとかタカノさんとかいなかったんじゃ?」
「元々はタカノの両親があのカフェをやってたんだ。最初はそこのコーヒーを飲むことで、よりはっきり声が聞こえるようになることがわかった。そこにバイトで入った青井が、コーヒーの作り方を覚えたんだ」
「安心できる空間も、タカノ君の両親のどちらかがやっぱり腕に自信があったから?」
「そうだ。あのカフェの上はマンションでな。俺の家族はそこを借りてた。洋二も住んでたんだぞ。洋二とは事件で出会って、家がないっていったら青井が格安で貸したんだ。今もあいつの部屋はそのままにしてある」
「じゃあ如月さんの家族もそこに?」
「いいや。一月の頭に亡くなった。それで俺も鬱になって入院だ。お前から見たら軽いうつかもな」
「軽いなんてことはないですよ……残念でしたね」
「ああ。以前解決した事件の犯人が出所して、その時は引っ越してたんだけどな、俺の家に放火したんだ。俺は、その時お前とは違うから、事件を引き寄せた自分じゃなくて、犯罪者を恨んだ。憎んだ。俺は犯罪が許せない。どんな理由があろうともだ。犯罪者は犯罪者なんだ。ずっとな」
その言葉に、僕は國岡さんのことを思い出していた。
「それで、俺はまた、今は青井が管理人をしてるあのカフェの上階に一人で暮らしてる。青井には本当に感謝してる。青井がいなかったら、今頃俺は潰れてただろうな」
支えてくれる人は貴重だ。そういう人がそばにいてくれて、如月さんは幸せだと思う。
「お前にはいないのか?」
僕は言葉に詰まった。きっといないことはないと思う。だがそういう人々に連絡する元気が起きないのだ。何も僕が言わずに、自ら精神的に支えてくれる人は、正直いないかもしれない。
「お前は人を支えようとして、共倒れするタイプだな」
心当たりがありすぎて、笑うしかなかった。
「話を戻しますけど、僕の心の声、聞こえない時もあるんですか? それこそ、館主さんみたいに」
「ある」如月さんがじっと僕を見た。
「例えばどんな時ですか?」
「お前の気持ちが知りたいとこちらから思った時だ」
「僕の気持ち? 推理内容ですか?」
「違う。お前は悲しくても笑うみたいだからな。そういう時に、分かってやりたくなるんだ」
「僕は大丈夫ですよ」
余計なお世話だとは思わない、その気遣いが嬉しかった。そう思ったのを最後に、いつの間にか僕は寝ていたのだった。
そして気づくと次の日の朝だった。僕は布団を剥がれ、如月さんに叩き起こされた。
「いつまで寝ているつもりだ」
可能ならばあと二十時間くらい寝ていたい。
そうは思いつつも起き上がり、僕はベッド再度に座った。
「さっさと帰るぞ」響いた声に僕は驚いた。
「え? 僕はまだ洋二さんと話を――」
「いいや、一晩考えた。事件が起こる前にここを出よう」
真剣な表情で如月さんが言う。確かに迷惑をかけないためにはそれがいいのかもしれない。素直に僕は、荷物をまとめることにした。そして部屋を出た。
こうして……何事もなく僕は再びフェリーに乗った。クローズドサークルにも何もならなかった。現実なんてそんなものである。見送りには洋二さん……洋一さんもきてくれた。
そして僕にだけ聞こえるように囁いた。
「必ず皐月を殺しに行くから。待っていて」
幸いそれは森永さんに聞こえることもなく、脅迫罪になることもなかったのだった。