【004】記憶の消しゴム
朝の日差しとは、眩しいというよりも白い。
「待ってください」
「ついてくるな」
足早に歩く草壁を、雨宮が追いかける。
それを眺めていたのは、路地で歩みを止めた鶫だった。十代後半に見える鶫は、雑踏にはそぐわない洗練された上質な服を纏っている。彼以上に、彼の一歩後ろに控えている名目上の秘書、実際には執事である亘理梓はそれこそ礼服に近く見えるが。執事カフェの人間より、よほど執事に見える。なにせ、本物だ。三十一歳の彼は、だいぶ昔から鶫に仕えている。
「あーあー、F機関の香りがするねぇ」
鶫がそう述べる。二人の目の前を、首輪をつけた黒猫が横切っていく。エメラルドの緑色の輝きを感じさせる首輪をつけている。その向こうの道路では、既に草壁と雨宮の姿は見えなくなっていた。
「いかがなさいますか?」
静かな声で亘理が尋ねる。
「僕たちだって関わったらただではすまないかもしれない」
そう答えた鶫の声は、どこか楽しげだった。
◆◇◆
マンションのドアを空けた草壁が、雨宮を追い返そうと振り返った瞬間だった。
――ダンっと音がして、雨宮がドアの内側の表面を拳で殴りつけた。
狼狽えて草壁は目を見開く。
「そもそも草壁さんは、どうして公安を辞めたんだ。例の件か?」
厳しい雨宮の声に、草壁は後ずさる。すると雨宮が中へと入ってきて、ドアがパタンとしまった。
「別に……、……別に、朝霞の件というわけじゃ――」
「? 朝霞?」
言いにくそうに草壁が呟いた時、聞きとめた雨宮が動きを止めた。
「朝霞って?」
「どういう意味だ?」
首を捻っている雨宮を不思議に思い、草壁は瞬きをする。
「誰ですか、それは」
「は? 植物状態の――」
「そんな人は知らないが?」
「何を言って……――のっぺらぼうの事件、覆面男の事件の時に――」
「一体、それはなんの話だ? 覆面男は強盗誘拐犯の通称だったと記憶してはいますが」
「!」
困惑した表情に変わった雨宮を見た瞬間、草壁はハッとした。
あの日――。
草壁の病室に訪れた川嵜緋砂は、こう言った。
――『のっぺらぼうに関してを“消した”』、と。
関して? それは……、“記憶”もまた含まれているのではないのか?
ゾクリとした草壁は、顔色を変えた。
F機関は、“超常現象”などに“対処”する機関だと言っていた。どうやって? 果たして、どうやって? それは、『無かったことにする』という意味合いではなかったのか?
咄嗟にそう悟った草壁は、思わず呟いた。
「F機関に話を聞かなければ」
今後、朝霞自体がどうなるかも、どう“対処”されるかも、分からないではないか。
「あちらもそのようだぞ? F機関に最初から心当たりがあったと言うことですか」
「なに? どういう意味だ?」
「公安に、川嵜さんというF機関の職員が訪れて、草壁さんを説得して連れてこいと言っていてな。協力者になるように、説得してほしいと。俺にもそう依頼してきた」
「川嵜緋砂か?」
「少なくとも、そう名乗っていた」
「今どこにいる?」
「公安のオフィスの一つにいると思う。高遠管理官が接待しているはずです。場所は昔と変わっていない」
「行くぞ」
「――ああ。昨日から一切耳を傾けてくれなかった俺の用件とは、貴方を連れていくことだからな。ついてこい」
こうして二人で、再びマンションから出た。途中で雨宮が車を取りに行き、駅前にいた草壁を拾う。車内では、どちらともなく無言だった。
オフィスのあるビル、偽装の会社が入っていることになっている高層ビルのエレベーターホールでは、肘に手を当てた草壁が、親指で唇を撫でながら、苛立つように回数表示のパネルを見ていた。一階にやってきた箱に即座に乗りこみ、二人で十三階へと向かう。
ドアが開くと、駆け出すように草壁が外へと出た。
雨宮はその背を見ながら、嘆息する。
こうして二人でオフィスに戻り、草壁が管理官室の扉を開け放った。
「久しぶりだね、草壁」
すると高遠が微苦笑しながら出迎えた。
草壁は、ソファに座して紅茶を飲んでいる川嵜を目視した。そこに追いついてきた雨宮が入室し、開けっぱなしだった扉を閉めた。
「雨宮が朝霞のことを記憶していないというのは、お前が操作したからなのか? 記憶を消したのか!?」
思わず草壁が声を上げた。それに雨宮は虚を突かれる。
川嵜はカップを置くと、立ったままの草壁を見上げた。その黒い瞳には、なんの感情の色も見えない。
「私は消去に特化した『F.R.A.M.E.』を所持しているとお伝えしたはずです」
「!」
「時と場合によっては、さながら“記憶の消しゴム”と称してもよいかもしれませんね」
平坦な川嵜の声に、草壁が眼差しを険しく変える。
「だったら、朝霞はどうなるんだ!? 朝霞は――」
「朝霞史靖は、もう東都中央病院にはいません」
「なっ……、ッ、朝霞は生きているのか?」
朝霞まで、“消された”のだろうかと、死を彷彿とさせられた草壁は、指先が震えるのを感じた。
「いいえ。朝霞史靖警部補は存命中です。ただ、少し『不慮の事態』が発生したので、F機関管轄の、息のかかったA病院で保護しています。目は覚めていませんが、命に別状はありません」
その言葉に、ひとまず草壁は安堵し、思わずソファに座り込んだ。
その横顔を見ながら、雨宮も隣に座り、事態を見守る。
「不慮の事態とは、なんですか?」
そして動揺している様子の草壁に代わり、冷静に尋ねた。