【005】異変:【ナイトメア・トリップ】









 再びカップを手に取った川嵜が、雨宮と草壁を交互に見た。

「ある“事案”で植物状態になっていた、公安の……私が関連する記憶を“消した”ために、既に雨宮さんの記憶にはない朝霞史靖警部補は、先日意識を取り戻しました。ですが瞼を開ける直前、脳波計に触れている人間が“巻きこまれる”ことが確認されている《コンバート》の《ゲーム》のステージである、【ナイトメア・トリップ】に、朝霞警部補が巻きこまれたことが、居合わせた看護師の証言で明らかになっています」

 そして一口の見込んでから、川嵜が語った。

「ステージというのは、《ゲーム》のプレイヤー……即ち、“人間”が解決可能な【異常】のことです。《コンバート》を名乗る存在が、【ナイトメア・トリップ】という《ゲーム》を仕掛けてきたということです」

 草壁がじっと川嵜を見据える。

「【ナイトメア・トリップ】とは、どんな《ゲーム》なんだ?」
「【ナイトメア・トリップ】に巻きこまれると、悪夢から目覚められなくなります。一見すれば、植物状態と同じ状態になります」

 草壁は頷く。それから腕を組んだ。

「解決可能なんだろう? どうすればいい?」
「悪夢を見せているのは、【ナイトメア】と呼ばれる“現象”――意思のある“現象”です。怪異としてもいいでしょう。【ナイトメア】は、“コンバチャンネル”によると、普段はエメラルドのついた首輪をつけた黒猫に扮しているとのこと。そしてその首輪に就いたエメラルドを見つけ、悪夢から目覚められなくなった“対象”に触れさせると、エメラルドが悪夢を吸収し、目が覚めると配信していました」

 それを聞くとすぐに草壁が立ち上がった。

「エメラルドのついた首輪を持ってくればいいんだな?」
「そうなります」
「すぐに――」

 草壁がそう言いかけると、雨宮が腕を引いて留めた。

「この広い都内に黒猫が何匹いると思うんだ。手当たり次第に探すなんて馬鹿げている」
「なっ」
「草壁さん。貴方がいた時より精度の高い、防犯カメラ映像解析システムを導入しています。そちらの調査から」

 そう言うと雨宮もまた立ち上がった。
 目を瞠った草壁より先に、雨宮が部屋から出る。草壁が慌てて踵を返した時には、雨宮はデスクの前に座っていた。雨宮の後ろから、草壁が画面を覗き込む。

 ――それから、二十五分。草壁には長い刻に感じられたが、実際には驚くほどすぐに、雨宮が猫の映像を補足した。新人の頃とはまったく異なる存在感に、草壁は雨宮の横顔を見る。気づいて見れば、随分と大人びて見えた。

「ここだ。ここです。朝、俺達が通った道路のすぐ側の路地にいる」
「! すぐに行こう」
「ええ」

 こうして今度こそ二人でオフィスを出た。
 雨宮の運転する車でそばまで行き、停車させてから路地へと向かう。二人で視線を彷徨わせていると、正面から――黒猫を抱いた十三歳くらいの少年が歩いてきた。まだ二次性徴の直前の様子だ。

「いた!」

 草壁が走り寄る。雨宮が隣に立った時、少年が目を丸くした。

「きみ、その猫はきみの猫か?」

 必死な様子ながらも、努めて優しい声を出そうとしている草壁を、雨宮は見やる。草壁が焦っているのは明らかだったが、少年を怯えさせないようにしているのが分かった。

「ううん。今、道を歩いてきたから、抱っこしただけ」
「そうか。実は、その猫の首輪を探していたんだ。おじさんが取るまで、猫を抱いていてくれないか?」
「いいよ!」

 少年が笑顔になった。少女のように中性的でもある少年だ。
 草壁がパチンと首輪を外すと、猫が少年の腕から飛び降り、路地裏に走り去る。

「あっ、行っちゃった……」
「悪いな、驚かせたかな」

 首輪をギュッと握りながら、草壁が無理に笑っている。雨宮は、少し屈んで少年に視線を合わせた。

「きみは、名前は?」
「乃蒼!」
「乃蒼くんか。俺は雨宮。こちらは草壁さんだ」

 雨宮の言葉に、乃蒼がはにかむように笑った。

「行くぞ」

 小声で草壁が言う。少し長めに瞬きをしてから、雨宮は頷いた。


 その後、二人で車に乗りこみ、A病院へと急いだ。車内で、赤信号の時に、雨宮は草壁を見た。草壁は、首輪を睨むように見ていた。