【006】身の振り方








 病院に到着し、病室に入ってすぐ、草壁が意識のない朝霞の右手に、エメラルドの部分を握らせた。そして己の両手で、ギュッと握る。

 目を伏せた草壁は、祈るような気持ちで念じる。

 ――朝霞。
 ――朝霞。
 ――朝霞、頼むから目を開けてくれ。なんでもする。だから、意識を……本当に悪夢が原因なら、いくらでも俺が取り除く。だから、だから、だから。

「っ、あ」

 その時、朝霞が呻いた。ハッとして草壁が目を開けると、そこには瞼を薄らと開けた朝霞の姿があった。

「朝霞!」

 声を上げた草壁の眦から、涙が溢れる。
 朝霞の片手を握ったままで、何度も何度も草壁が呼びかける。

「……ん。だよ、草壁……ひでぇツラしてんな……寝て、ないのか?」

 すると掠れた声で朝霞が言った。

「っ、朝霞」
「覆面……男、は?」
「……ッ、もう“いない”」

 消去されたのだとは、草壁は言わなかった。朝霞は視線だけで草壁を見ると、唇の両端を持ち上げる。

「……よく……やったな……さすが、俺の相棒……だな」

 その言葉に、草壁の涙腺が壊れた。
 涙を流す草壁を一瞥しながら、“朝霞の記憶がないまま”で、雨宮はナースコールを押した。



 ――三ヶ月後。
 まだまだ筋肉のトレーニングは必要との診断だったが、朝霞の復職が決まった。ただし、公安ではなく、交番勤務になることとなった。体力が付いたら、また戻ってくるのだろう。

 この日草壁は、公安のオフィスにいた。
 高遠に呼び出されたからだ。

「戻ってくる気はないかね?」

 本日は川嵜の姿は無い。草壁は俯いてから、脳裏である名前を反芻する。
 ――《×××》、それはのっぺらぼうが語った名だ。

「……ご厚意はありがたいですが、俺には――やるべきことが、やり残したことがありますので」

 元凶が、まだ何処かにいるかもしれない。
 それは朝霞が回復したからと言って、変わるものではない。

「――そうか。いつでも歓迎するが……想うことを成せばいい」

 高藤はそれだけ述べると、観葉植物に水をあげ始めた。
 それから一礼して草壁が部屋から出ると、正面に雨宮が立った。

「草壁さん」
「ん?」
「もう、《コンバート》の《ゲーム》の被害を拡大させないためにも、“協力者”になるべきなんじゃないのか? F機関の。それには、なにかと公安にいた方が都合がいいだろう」
「お前がなればいい」
「俺がなるか否かは、草壁さんには関係ない。また、逃げるのか?」

 真っ直ぐに、そしてどこか睨むように、雨宮が問う。
 その言葉に、視線を下ろして揺らしてから、顔を上げて草壁が微苦笑した。

「そうだ。俺は、弱虫だからな。嗤え」
「……草壁さん! 逃げるのは止めにしろ!」
「なぁ、雨宮」
「なんだ?」
「今回の一件で、俺はお前を見直したよ。頼りになる、一端の公安刑事に、俺は助けられた。お前がいれば、もうここは大丈夫だ」
「何を――」
「飯、買いに行く」
「……そう言って、また帰ってこないつもりか?」
「ご明察だな、推理力も磨いたらしい」

 ニッと笑ってから、草壁が歩きはじめる。その背中を見ながら、雨宮が舌打ちする。

「天気予報によると、すぐにゲリラ豪雨だ。せめて、それまで――」

 だが、雨宮の声を無視して、草壁は歩き去ったのだった。


 実際、雨宮の言葉は的中し、草壁が最寄り駅で降りると、土砂降りの激しい雨に見舞われた。傘がないので、濡れた階段を登って少し思案した草壁は、それから濡れるのには構わず歩きはじめる。すると、大型のサイネージが視界に入った。

『おはこんば〜! 《コンバート》でぇっす。今回の《ゲーム》なんだけどぉー!』

 すると画面の向こうで、自分ではない誰かが、必死に黒猫を探している姿が映り始めた。ワクワクした様子の《コンバート》の声が入り込んでいる。道行く人が、少し傘を持ち上げて見ているのが分かる。“コンバチャンネル”の始まりだ。

「あれも……《ナイトメア・トリップ》の……《ゲーム》の一幕か」

 あるいは、あそこに自分たちが映し出されていたこともあったのかもしれない。
 あれ自体も――サイネージに映り込む配信自体も不可思議な現象なのだろうか。そう、不可思議、か。不可思議な現象≒《ゲーム》なのだろう。この世には、確かに不可思議なことがある。たとえば、のっぺらぼうのような。


 ◆◇◆


 ――その頃、《×××》が嗤っていた。

「ボクを見つけられるかニャン」