【二】触れられた手
答案を出して生徒会室へと戻ろうとした時だった。
隣の教室の扉が開いた。この学園は、中等部までは成績が均等になるようにクラスが編成されている。出てきたのは、風波だった。俺は短く息を飲む。ほぼ同じくらいの速度で、風波も問題を解き終えたのだろう。
俺はなんでも無い素振りで、隣を通り過ぎようとした。
風波のことなど気にしていないフリをし、意識しているなんて悟られないように。
だが。
すれ違おうとした時、左手首を掴まれた。驚いて俺は立ち止まる。
咄嗟に顔を向けると、そこには俺をまじまじと見ている風波の顔が合った。
風波は目が合うと、不意に柔和な笑みを浮かべた。俺の胸がドクンと啼く。それはいつか目が合った時にも見た笑顔と同じだったからだ。俺が惚れた笑みだ。
「琉月」
「な……なんだ? は、離せ」
「――少し話をしないか? 他の生徒達は、どうせチャイムが出るまで出てこない。だから俺は見回り不要だし、生徒会も行事が近くない今は暇だろう?」
「暇だが、なんで俺が、貴様なんかと?」
本当は、俺だって話したかった。だが、それは俺らしくない。俺は気持ちを抑えて、そう述べた。
「俺が話したいからだ。中庭に行こう」
「……なっ、勝手に決めるな」
「いいだろう? 少しくらい。それとも――俺と話すのが怖いのか?」
「そんなわけがあるか。いいだろう、少しだけだぞ」
俺は風波を睨むように見たが、内心ではド緊張していた。
「とにかく手を離せ」
「ああ」
素直に風波が手を離した。そして歩き出したので、慌てて俺も横に並ぶ。
そのまま無言で俺達は生徒玄関へと向かい、靴箱から外履きを取り出した。そして中庭へと向かうまで、特に会話は無かった。
「座ろう」
そこにあるベンチの右端に、風波が座った。俺は左端に座る。距離が近くて、心臓が持ちそうに無いほどドキドキしていた。
「なぁ、琉月」
「なんだ?」
「いつもお前は、俺を見ているのに、どうして俺が顔を向けると、目を逸らすんだ?」
微笑しながら風波に言われ、思わず俺は赤面した。気づかれていた。それが羞恥を煽ったし、不意の言葉に露骨に反応してしまう。真正面にある端正な風波の顔から目が離せないまま、俺はわなわなと唇を震わせる。
「べ、別に……お、俺様は……み、見てなんて……じ、自意識過剰なんじゃ? ないのか?」
「そうか。残念だ。俺はいつもお前を見ているから、琉月に目を逸らされるせいで目が合わなくて、傷ついていたんだ」
微苦笑した風波の声に、俺は目を見開く。さらに頬が熱くなった。
「へ? な? は?」
動揺しておかしな聞き返し方になってしまう。こんなの、俺らしくない。
「な、なんで俺を見てんだよ?」
「ん? それは琉月のことが好きだからだ」
「!」
さらりと述べられて、俺は信じられない思いで、硬直した。
「琉月は、俺の事が嫌いか?」
「……っ、か、からかうな」
「からかってなんていない。ずっと見てきて、お前が頑張っている姿を見ている内に、惹かれたんだ」
その言葉に、嬉しくて泣きそうになる。まさか俺の努力を、見てくれている人物がいるとは、思ってもみなかった。しかもそれが、恋する相手、風波だ。こんな幸福があって良いのだろうか?
「琉月、俺と付き合ってくれ。俺はお前が好きなんだ。恋人になりたい」
「!!」
率直で真っ直ぐな告白に、俺はオロオロと瞳を揺らす。頬は熱いままだ。
その時、俺の手の上に、風波が手をのせた。指が長い。その体温を意識してしまう。
「琉月。お前は俺をどう思っている? まずはそれを、教えてくれないか?」
「あっ……その……俺は……俺も……」
言い淀むだなんて、それこそ俺らしくない。だが嬉しい気持ちが勝って、俺は何も言えなくなる。いいや、逆だ。気持ちを吐露したくなった。
「……俺様も、貴様が好きだ」
「本当か? ありがとう、琉月。なら、俺と付き合ってくれるか?」
「……ああ。いいぞ」
「七緒と呼んでも良いか? 俺の事も青雅でいい」
「っ、いきなり俺達がそんな風に呼び合ったら、学園が騒然とするだろ」
「では、二人きりの時だけでも」
「あ、ああ。それなら許してやる」
俺は少し余裕を取り戻し、大仰に頷いた。
すると柔らかな笑顔で、風波――青雅が、ギュッと俺の手を握った。その感触に、ドキドキドキドキと、俺の胸がさらに煩くなった。
「俺は、七緒を抱きたい」
「!」
「七緒は? どちらがいい?」
「お、俺は……ど、どっちでも……――構わねぇよ! 好きにしろ!」
やけになって俺は叫んだ。気恥ずかしくてたまらない。いつか夢想した事柄が、現実になりそうになっている。それも俺がイメージした、俺が抱かれる方としてだ。
「そうか。では、よりお互いを深く知ったら、七緒を俺にくれ。約束だぞ?」
「お、おう」
「――離したかったことは、これだ。ありがとう、聞いてくれて。応えてくれて」
そう言うと青雅は、不意に顔を近づけてきた。吸い寄せられるように俺が見ていると、青雅が、掠め取るように俺の唇にキスをした。目を見開き、焦って体を仰け反らせ、俺は片手で唇を覆おう。完全にゆでだこ状態で、俺は真っ赤になった。目が潤んでくる。
「ご馳走様。さて、そろそろ戻ろう」
丁度その時、チャイムの音がした。こうして俺達は、それぞれ生徒会室と風紀委員会室へと向かう事にした。